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 何を学校「評価」と言うのか ― 大学評価と専門学校評価との違いについて 2006年08月30日

これまで、「自己点検・評価」「第三者評価」について各地・各所でさんざんしゃべってきたが(数えてみたら2002年から14回、講演・研修で講師を務めてきたが)、一度、全体的にまとめてみようと、夏休みを返上してレポートを(Q&A調で)仕上げた。参考にしてみて下さい。ただし長いですよ(400字詰め原稿用紙で80枚近くあります)。



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専門学校における学校「評価」とは何か ― 大学評価と専門学校評価との違いについて

●専門学校における「学校評価」というのは何のことですか?

それは直接には、平成14年の専修学校設置基準の改正による「自己点検・評価」の努力義務化を意味していると言ってよいかと思います。「専修学校は、その教育水準の向上を図り、当該専修学校の目的及び社会的使命を達成するため、当該専修学校における教育活動等の状況について自ら点検及び評価を行い、その結果を公表するよう努めなければならない」(専修学校設置基準 第一章 総則 第一条の二)となっています。


●「自己点検・評価」はもともとは大学の「自己点検・評価」から始まったものだと思いますが。

そうです。平成3年の、いわゆる“大綱化”という動きの中で「自己点検」という言葉がはじめて出てきます(後出関連資料参照のこと)。以下がその初出の文面です。

「大学は、その教育研究水準の向上を図り、当該大学の目的及び社会的使命を達成するため、当該大学における教育研究活動等の状況について自ら点検及び評価を行うことに努めなければならない」(平成3年 大学設置基準改正要綱 第1 総則的事項①)

先の専門学校の条文と較べても、「研究」という言葉以外はすべて同じですから、大学から始まった「自己点検・評価」と専門学校の「自己点検・評価」とは法律上は同じ意味を持っていると言えます。


●ということは、大学の「自己点検・評価」と専門学校の「自己点検・評価」とは同じだということですか?

そこは、そう単純なものではない。大学の「自己点検・評価」は、大綱化、つまり教育上の規制緩和(=カリキュラムや科目設置規制の柔軟化)とともに始まりました。官許的・統一的教育規制を緩めるから、自分自身で点検・評価を行いなさい、というものです。


●なぜ、文科省はそんなことを言い出したのですか。

それは、もはや誰の目にも明らかなことです。90年代を皮切りに学校群は少子化の時代を迎えた。結果、2007年には大学の募集数と応募数は一致するところまで来た。いわゆる大学全入時代を迎えたということ。全入時代というのは競争率の高い大学も依然としてあるわけですから、つぶれる大学も存在するということです。戦後、銀行と大学(あるいは学校)はつぶれない組織の代表格でしたが(というか学歴主義の人材に満ちた組織だったわけですが)、90年代後半になって、どちらもが統廃合の時代に現実的に突入した。

そして今でもそれは続いている(銀行は一息ついたかもしれませんが学校はまだまだこれから統廃合は続くでしょう)。90年初頭から始まる教育の規制緩和は、そういった大学全入時代、統廃合時代を見越して、文科省が大学教育の中身について具体的な縛りを無くし始めた。これは意地悪な見方をすれば、つぶれざるを得ない大学の、つぶれる理由を規制の所為にはされたくない、という文科省の思惑もあったのかもしれない。手足をしばったまま競争の海を泳げと言われても泳げはしないということです。


●それは文科省も無責任ですよね。

というよりも、“大綱化”は単なる規制緩和であるよりは、統一的な人材像が見えなくなってきた、という時代の流れが並行していると思います。その認識が文科省にあったのではないでしょうか。90年代中盤以降一挙に拡大し始めるインターネット時代は、単なる情報革命ではなくて、人材の交流が情報交流と同じように活発化する時代でもあったわけです。

人材の交流が活発化するというのは、どんな人材が有為になるかということを画一的に描けないということと同じです。

現に90年代後半以降の人材像は、総合力、人間力、問題発見=解決能力、コミュニケーション能力など、それらの能力の形成を担う具体的な科目や専門性が描けないものが多い。大綱化はしたがって、個々の科目を規制することではなく、カリキュラム全体の人材像を明確化しなさい、というように“規制緩和”したわけです。

つまりもはや文科省が人材像を統一的に公共化する時代ではない。インターネット時代の企業の要求するものは〈多様〉であるし、単に多様である以前に〈変化〉も速い。その意味でも、90年代の大綱化は必然だったと言えます。

“大綱化”が「自己点検・評価」と引き替えになった理由はその意味でも明らかです。「多様」と「変化」の時代における教育は、もはや個々の大学が自分たちのリソース(伝統や可能性)を再発見して、特長ある教育を伸展させる以外にはない。偏差値さえ付かない大学が増える中、偏差値的な序列を超えた“特長作り”が大学に課せられたということです。あるいは偏差値という〈多様〉と〈変化〉の時代にはもはや少し時代遅れになったかに見える平板な指標を超える特長ある大学作りが求められるようになったということです。

この時代の点検はもはや〈規制〉ではなく、〈特長〉の「自己点検・評価」とその〈公開=公表〉であったということです。


●であるとすれば、より具体的な企業に近い、つまり多様な人材要求と変化する時代に近い専門学校の「自己点検・評価」は、なぜここまで遅れたのですか。

たぶんそれには二つの理由があります。

「専門学校」と言っても大概の専門学校は資格まみれの学校になっています。資格は国交省、厚労省、経産省などの官許的なものから、グローバルスタンダードなものまで、まさに“規制目標”と言えます。

それは単に目標を共通化しているだけではなく、文科省の“学校”規制以上に各分野を管轄する省庁からの各規制(教場の規制、教員の規制、時間数の規制など)が存在しており、その事情は今日まで変わりはありません。専門学校には、「一条校」(http://www.zenshigaku-np.co.jp/news/2006/news2006030320140102.html)の大学ほどの設置基準のきびしさは存在していませんが、設置基準とは別に資格“認定校”としての規制が存在しています。

そういった資格規制を含めた合格率に勝る“点検評価”はあり得なかったと言えます。資格依存率の高い専門学校ほど「自己点検・評価」にはほど遠い存在だったわけです。それが第1の理由です。

第2の理由は、一条校に比べれば助成がほとんどないとも言える専門学校にとって、ことさらに「自己点検・評価」する理由が見あたらないというものです。専門学校の“収入”のほとんどは学生の収める納付金(授業料)収入ですから、もともと専門学校の評価はマーケットに委ねられていたと言えます。

国家助成という“上げ底”がない分、専門学校評価は大学に比べればはるかに透明だったと言えるのではないか。言い換えれば、専門学校の経営者たちにとっては、少子化であれ、大綱化であれ、自分たちはとうの昔から“マーケット”の波に洗われてきたということです。何を今更「自己点検・評価」なのか、ということであって、専門学校はその成り立ちの最初から「自己点検・評価」せざるを得ない“学校”だった、と言えます。

大学には、非一条校である専門学校以上の〈規制〉があった。それは大学が(専門学校に比べれば比べものにならないほどの)多額の国家助成があったからであって、その公共性の故に規制があったのは当然のこと。その規制を(大綱化によって)緩めるとしても、その代替の規制(=「自己点検・評価」の義務化)が生じるのは当然のこと。それらはすべて公共的な国家助成の上で生じていることであって、その助成なしには理解できることではない、というのが専門学校関係者の心情ではないでしょうか。

専門学校の「自己点検・評価」が大学に較べて10年以上も遅れた理由はそんなところにあったと思えます。


●専門学校は、一条校の大学と違って「自己点検・評価」の必要がないということですか。

それは、違うと思います。

専門学校にも「自己点検・評価」が必要だという理由は、「自己点検・評価」が無用ではないか、という先の理由と裏腹の理由になるかと思います。

一つには、資格教育の問題です。文科省の学校規制以外にも、国交省や厚労省の規制を受けた認定校が専門学校にはたくさんあります。しかし、専門学校における資格教育は形骸化していると内外から指摘する声もあります。

合格率が学校評価になるという点でその評価の客観性(や透明性)は疑いようがないのですが、その分、教育の内実は受験テクニック教育に走り、本来の人材形成に繋がっていないということです。

教育目標(資格目標)の客観性・社会性と引き替えに受験テクニック教育に自らを狭めているというのが専門学校の資格教育の問題点です。「理解しなさい」ではなくて「覚えなさい」が前面化しやすい。

専門学校が本来の職業教育を担うというのであれば、本来は目標(人材像)を自主的に形成し、その自主的に形成した目標の達成評価を「自己点検・評価」する体制を築くことが必須であると言えます。予備校の受験教育と専門学校が違うのは、まさに教育目標の自主形成力があるかどうかなわけです。

大学は、受験教育を終えた〈学生〉を引き受け、その分、或る意味では息の長い人材を形成していますが、専門学校は遅れてきた受験勉強を〈学生〉教育の中心において、あまりにも短期的な教育に自らを狭め、使い捨て人材を作ってきたという反省をする必要があるのかもしれません。実務にいちばん近いところにいる(はずの)専門学校が、資格教育に硬直化し、〈多様〉と〈変化〉にいちばん遠いところに身を置いてしまっている、この現状を専門学校関係者はよくよく見つめ直すべきです。その意味で「自己点検・評価」は、そのいいきっかけになるはずなのです。

専門学校にとっての「自己点検・評価」は、資格教育に安住するな、という警告なのです。

専門学校に助成がない、という問題も、この問題と関係しています。資格の公共性や社会性、あるいはそれと裏表の関係のようにセグメントされたマーケットに依存し、自立的な教育目標形成(自立的なカリキュラム開発や教材開発など)に専門学校は手を付けないままになっていた。専門学校はその意味では“学校”化された予備校にすぎなかったと言えます。もし専門学校が本来の「高等教育」機関として認知されるとすれば、教育目標形成やその達成管理を自立的に形成する必要がある。専門学校は実務教育機関とされてきましたが、必ずしもそうとは言えないのであって、形骸化した資格教育が企業や企業実務との具体的な関係を逆に阻害してきたとも言えます。これが専門学校の高度化を阻んでいる。資格教育は専門学校にとって諸刃の剣なのです。ここにメスを入れない限り、一条校への本来の“昇格”はありえない。


●しかし資格取得という意味では、医師資格、法律的な資格(弁護士、検事)、公認会計士など大学教育もそういった資格教育に関わってきたのではないでしょうか

その通りです。その意味では、医学部、法学部、商学部などもある意味では職業教育に関わってきましたが、それらの教育を資格教育とは誰も言いませんでした。おそらくそれらの学部の“教授”たちも自分の携わっている講座が「資格講座である」と自己認知していることはありえないでしょう。

大学の資格教育は結果としての資格教育であって、ほとんどの場合、これらの“高度資格”は“基礎学力”の豊かな学生の自主的な学習の成果でしかありません。彼らは受験(大学受験)勉強での経験を、対象を専門的に絞り込んで再度反復すればよいだけのことです。つまり大学における資格教育は教育ではなくて、学生自身による資格学習に過ぎないと言えます。その分、学生時代には、先端研究に関わる教授たちの薫陶を十二分に受ける環境にあります。資格教育は大学教育にとっては依然として(いい意味でも悪い意味でも)オプショナルなものなのです。

“基礎学力”の低下が叫ばれ始め、学生の自主的な学習に依存できる環境が(大学においては)徐々に崩壊しつつあるにしても、専門学校の資格教育と大学の資格へのスタンスとは同じとは言えません。

重要なことは、大学教育の場合、弁護士にならなくても、公認会計士にならなくても、講座の自立性が“教授”たちの専門論文などの水準によって社会的に確保されているのに反して(最近はあやしくなってきていますが)、専門学校の場合には資格の合格率なしには、教員の教育的な社会性を明示する指標が存在していないということです。就職率がいいと言っても大学と競合する企業就職に必ずしも競り勝っているわけではありませんから、それもあてにならない。その意味でも資格依存体質を抜け出せないわけです。


●専門学校の中には資格学校だけではないものも多いと思いますが…。

一部エンターテイメント系と言われる分野(映像、音楽、デザイン、ファッションなど)が代表的な非資格系分野として存在していますが、これらの学校には厳密な試験判定が存在しない場合が多い。大概の授業が実習授業であるために、“作品提出”などが、試験を代替する処置になっています。そしてほとんどの場合、作品提出さえすれば落伍者は出ない。仮に落伍判定が出たとしても“追再試”で進級できるようになっている。結果、履修判定が曖昧になっています。資格指標が元から存在しないエンターテイメント系では、評価の社会性はもっと貧弱になっていると言えます。

文科省が専門学校の卒業生に「専門士」というタイトルを平成7年に認めたとき、その「専門士」を構成する三番目の指標は、「試験等により成績評価を、その評価に基づいて卒業認定を行っている」という項目でした。他の二つの条件に較べてこの三つ目の条件は部外者には異様な条件のように思えました(他の二つは、①修業年限が2年以上、②総授業時間数が1700時間以上という月並みなものでしたが、この第三条件は特長がありました)。学校が〈試験〉をするのは当たり前のことだからです。

しかしながら専門学校には進級・卒業認定に関わる厳密な試験評価・試験管理を行っている学校が少なかったのです。特に実習授業が多い専門学校には、成績評価に対する関心が薄れ気味でした。実習授業の成果評価には個人主義的な傾向が強く、履修判定が曖昧にならざるを得なかったからです。

そのうえ、学校“内部”的に試験成績が良くても、肝心の外部資格試験に不合格になってしまっては元も子もなくなるのですから、内部指標としての試験評価は二の次になる傾向があったと言えます。

外部資格評価のないエンターテイメント系になれば、ますますのこと内部評価は崩壊する傾向を持っていたと言えます。

タイトルを付与するために、文科省が「試験等」による「成績評価」をことさらに上げた理由はまさに専門学校群が社会的な信任に足る内部評価を行ってこなかった、という反省と課題を込めてのことだったと言えます。厳密な(=他者に説明できる)履修判定のない学校は学校とは言えないし、学校とは言えない学校の“卒業生”にタイトルなど与えられるはずがなかったのです。

まさに、そのためにこそ専門学校の「自己点検・評価」は、専門学校なりの必然的な課題として登場してきたと言えます。


●「自己点検・評価」が大学教育の大綱化の代替物だったとすれば、専門学校の「自己点検・評価」は、資格主義教育の外面性から、教育指標の内面化への運動を促進するものだったということですね。

そうだと思います。「コンプライアンス(compliance)」という言葉がありますよね。この言葉は、通常「法律遵守」という意味で使われますが、それは事柄の半分しか理解していない。本来は、組織の内部ルールを明確化するということです。「法律遵守」が組織にとって阻害されている場合というのはほとんどの場合、組織の内部ルールが曖昧なままになっているということの結果にすぎない。誰がどこでどんな判断をどんなルールに従って(何の目的のため)行っているかが明確でない場合にこそ「法律遵守」が阻害されているのです。学校という組織は、設立当初の設置基準以外には、仕事が公共的な割に、そのコンプライアンスが見えづらい。

〈学校教育〉にとって最大のコンプライアンスは、科目履修判定(履修評価)、進級判定(進級評価)、卒業判定(卒業評価)を組織的にどう形成していくかということです。

こういった〈評価〉というものが専門学校では、先に言った資格主義と実習主義によって見えなくなっている。しかもこういった評価はなかなか〈外部〉からでは見えづらい。まして設置基準からは何も見えない。設置基準からは見えないばかりではなく、資格合格率からも見えはしない。教育機関自らが内面的・専門的にルール形成することなしには、学校の実体は見えない。そのことが「自己点検・評価」の基本だと思います。


●評価は〈外部〉からは見えづらいとのことですが、そうすると「第三者評価」と「自己点検・評価」との関係はどう考えればよいのですか。通常「第三者評価」は、「自己点検・評価」の不十分さ(主観性)を補うように考えられていると思いますが。

そうですね。「自己点検・評価」=主観的・自己満足的、「第三者評価」=客観公平的というように。私はその議論はまったく間違っていると思います。

第三者評価は、平成14年に「自己点検・評価」の努力義務が言われたときからすでに、「当該専修学校の職員以外の者による検証を行うよう努めなければならない」(専修学校設置基準)と第三者評価の契機がすでに盛り込まれています。そして大学はすでに「第三者評価」自体が義務化されています。

「第三者評価」のあり方を考える前に、もう一度「自己点検・評価」の考え方を整理しておくべきかと思います。

大学の「自己点検・評価」も専門学校の「自己点検・評価」も、“物理的”には学生減少(=少子化)に根ざしている点で共通しています。

学生減少は競争の激化ということです。もしも設置基準以外の客観性がないまま学校経営が続けられるとすれば、広報の正否以外には学校生存の正否は決まらないことになってしまう。有り体に言えば、宣伝・営業のうまい学校=営業力のある学校だけが残っていくということです。現に実際、そうなっていると言えます。

この原因は、教育の中身(営業戦術や営業戦略とは別の)を的確に表現する、あるいは的確に評価する方法を教育機関そのものが求めてこなかったことにあります。

大学にはまがりなりにも偏差値というものがあった。しかし大学全入時代においては、偏差値さえ付かない大学が増えてくる。多くの大学が、もともと偏差値さえ付かなかった専門学校と同じ土俵に上ることになる。

そのとき、大学と専門学校では設置基準も違うし、その結果国家助成の規模も違う、と大学関係者が叫んでも、そのことが具体的に実質的な教育成果とどんな関係にあるのかとマーケット側から問われた場合に、的確に答えられる大学関係者はほとんどいないでしょう。偏差値の代わりに資格合格率を謳う専門学校も学生数が減少すれば、同じ資格を取得できても“わが校”の資格+αは何なのかが問われるようになる。しかし結果主義的な資格主義に安住してきた専門学校にも、その+αを形成する内的な実質を説明できる教育指標は存在していない。

結局のところ、教育内容と切り離された募集意識だけが先鋭化することになってしまうのです。

偏差値時代というのは、序列化の時代です。学生がたくさんいた時代には序列化はある程度有効だった。しかし偏差値が機能しない領域が拡大しつつある今、大学や専門学校は何をマーケットに向かって訴えるべきなのか、あるいはマーケット側からすれば何を新たな“基準”として学校評価を行えばいいのか、これが「自己点検・評価」の“物理的”な動機なわけです。

「自己点検・評価」については、したがって文科省は盛んに「特長ある」「個性的な」学校作りという言葉と共にその動機を説明してきました(註)。偏差値の序列化ではなくて、特長ある個性的な学校が生き残りの正否を問うキーワードになるというのが文科省の認識です。

〈特長〉がなければ ― みんなが同じものを目指してしまえば ― 、単純な競争が前面化します。単純な競争は、他者を過剰に意識した広報・営業の戦いに成り下がります、或る意味ではウソのつきあいになります。それは教育の公共性を鑑みれば決して好ましいことではありません。

それよりは、お互いの能力を場合によっては「建学の精神」にまで遡行し内省し、自分たちに何が出来るのかをじっくり考えた方がいい。“他校”を営業的に蹴り落とすのではなくて、人材目標の違いや教育ノウハウの違いによって“業界”全体を活性化する方法を考える必要がある。それが「自己点検・評価」だったわけです。教育的なコアコンピタンスの形成が「自己点検・評価」の本来の課題だったと言えます。

(註)ちなみに文科省の関連文書を任意に抽出してみる。どの文書でも、特長ある、多様な学校の伸展に「自己点検・評価」「第3者評価」が寄与するものでなくてはならないという考えが一貫している。なお、文中の下線はすべて引用者のもの。


★資料(1)「大学教育の改善について」(大学審議会答申、平成3年2月8日) ― 「自己点検・評価」初出の文書

「自己点検の項目や評価のあり方については、それぞれの大学自身が自主的に設定し、実施することが必要である…」

「(評価項目の事例の列挙に関連して)なお、別項の項目は例示にすぎず、各大学において実際に自己点検・評価を行う際は、国公私の別や専門分野の別、新設・既設の別などの実情に応じ、各大学の理念・目的をいかに実現するかという観点から、各大学の判断により適切な項目が設定されることが望ましい」。


★資料(2) 21世紀の大学像と今後の改革方策について ―競争的環境の中で個性が輝く大学― (答申) (平成10年10月26日 大学審議会)

(1)高等教育機関の多様な展開
今後,社会・経済の更なる高度化・複雑化や国際化の進展に伴い,教育研究の質の高度化及び人材養成に対する要請等の多様化への適切な対応が一層求められていく。また,進学率の上昇や生涯学習需要の高まり等に伴い,より幅広い層の国民に対し,それぞれの関心や意欲に応じてその能力を十分に伸ばしていくための多様かつ充実した教育機会の提供が一層重要となっていく。このような高等教育に対する質の高度化への要請や社会の需要の一層の多様化等に適切にこたえるとともに,長期的視点に立った教育研究の展開によって社会をリードしていくという役割を果たすためには,大学・大学院,短期大学,高等専門学校,専門学校が,それぞれの理念・目標を明確にし,それぞれの特色を生かしつつ多様化・個性化を進め,国公私立の各高等教育機関全体で社会の多様な要請等にこたえていく必要がある

1)各高等教育機関の多様化・個性化

高等教育に対する社会の多様な要請等に適切にこたえていくためには,大学・大学院,短期大学,高等専門学校,専門学校という各学校種ごとにその求められる役割を果たしていくのみならず,各学校種の中においても,個々の学校がそれぞれの理念・目標に基づき様々な方向に展開しつつ,更にその中での多様化・個性化を進めていかなければならない。 (中略)

iv) 専門学校

専門学校は,実際的な知識・技術等を習得するための実践的な職業教育・専門技術教育機関として定着しており,今後とも社会の変化に機敏に対応しながら,主に産業社会の求める人材の養成機関として一層の多様化・個性化を進め,更に発展していくことが期待される。(中略)

(ア)多元的な評価システム

各大学がその多様化・個性化を図りつつ世界的水準の教育研究を推進していくためには,大学の自律性に基づく教育研究活動の展開や大学運営が行われているか等の点について常に適切な自己点検・評価を実施し,これを踏まえて各大学が教育研究の不断の改善を図っていくことが不可欠である。さらに,従来の自己点検・評価の充実のみならず,より透明性の高い第三者評価を実施し,その評価結果を大学の教育研究活動の一層の改善に反映させるなど,各大学の個性を更に伸ばし魅力あるものとしていくための多元的な評価システムを早急に確立しなければならない


★資料(3) 専修学校の設置基準の一部を改正する省令(平成14年3月29日)

「第 一条の二 専修学校は、その教育水準の向上を図り、当該専修学校の目的及び社会的使命を達成するため、当該専修学校における教育活動等の状況について自ら点検及び評価を行い、その結果を公表するよう努めなければならない」

※文科省通知(上記改正時の通知文書の一部)
「専修学校においては、それぞれの専修学校の課程や分野、地域等の状況に応じて、適切な方法により教育活動等の状況について自ら点検及び評価(以下「自己評価」という。)を行い、その結果を公表するように努めること。この場合、専修学校の状況に応じて適切な校内体制を整えるなど、全教職員が参加して専修学校全体として自己評価を行い、教育活動等の改善を図ることが重要であること」

「自己評価を行う対象としては、教育課程、学習指導、生徒指導、進路指導等の教育活動をはじめ、施設設備、修了者の就職状況、生徒の資格取得状況、社会人の受入状況、附帯教育事業の実施状況、留学生の受入状況、大学や高等学校との連携状況、産学連携の実施状況などが考えられるが、それぞれの専修学校の状況に応じて、適切な項目を設定すること


★資料(4)今後の専修学校のあり方について(平成17年「専門学校教育研究会」 澤川和宏・文部科学省生涯学習政策局専修学校教育振興室長)

大事なことは、評価項目について十分な議論をすること。学校への信頼感に関係しない項目を挙げても役に立たない。点検項目を絞り込み、必要十分にすることが成功の秘訣だ。目指す学校の基本的なコンセプトを明確にすることが必要で、教員間で目標定まらないまま点検・評価をして効果を挙げるのは難しい。ただ、校内で十分に議論し、目指す方向性を絞っていく過程そのものが非常に需要で、教員間の率直な意見交換によって学校がまとまる。これができれば、自己点検・評価の9割は終わったと言ってもいい」。


●「自己点検・評価」が学校の「特長」形成の契機だとすると、「第三者評価」は、その「自己点検・評価」とどういった関係になるのですか

それはそんなに難しいことではありません。各学校が自らの特長=コアコンピタンスだと見なすものを第三者評価すればいいのです。たとえば、就職重視を自らの特長だとする学校があるとします。つまり「自己点検・評価」指標を“就職”に置く学校があったとします(もちろん就職以外にもいくつかの重点項目をもっていてもいい)。第三者(第三者評価)は、その学校が本当に就職を重視する体制になっているのかどうかを評価する、ということです。

手順としては、
①就職指標(とその学校が見なすもの)、就職関連指標(とその学校がみなすもの)の「自己点検・評価」を当該学校が行う
②その「自己点検・評価」結果を公表する
③その公表データに基づいて、第三者がその「自己点検・評価」の中身を吟味する
④その「第三者評価」結果を公表する
⑤以後、指標内容にふさわしいインターバルに基づいて継続的な「自己点検・評価」「第三者評価」結果の公表を行っていく
この五段階かと思います。


●そうだとすれば、各学校によって点検評価の中身は違ってくるということですか?

そうだと思います。「第3者評価」こそ複数無ければならない。


●点検評価の中身がまちまちだとすれば、「第三者評価」を介在させても結局はバラバラな評価が乱立するだけでマーケットに対する混乱を招きませんか?

そう思う人が多いようですが、私は逆だと思います。

たとえば、ある学校は就職重視だ、ある学校は出席率重視だ、ある学校は基礎教育を目標としている、ある学校は高度教育を目標としている、というように各学校のコアコンピタンスが「自己点検・評価」の結果、明確になってくる。

そして、それらの第三者評価も、その通りその重視政策は実行されており、成果も客観的に実績となっているという判断が出たとしましょう。これほど明確な学校選択指標はないのではないでしょうか。

こういった特長の第三者評価こそが、学校選択の最大の指標になるはずです。つまり、各学校の「特長」が第3者によって“公認”されるというものです。


●しかし、東京の「NPO私立専門学校等評価研究機構」(以後「機構」と略します)では、そういった方向を取ってはいませんよね。

そうですね。まだ「評価研究」の段階ですから、具体的に決まっているわけではありませんが、評価項目は共通適用という提案は一案として出ていますよね。われわれも立ち上げ時から会員になっていますが、先に言った学校のコアコンピタンス形成とは別に一律の共通指標で評価する方法になっていますよね。事務局はまだ最終の評価モデルは決定したわけではないと再三言っていますから、これからいろいろな議論がなされていくと思いますが。この「機構」が上げている共通指標の具体例を簡略化してあげてみると以下のようなものです。

学校に理念があるか
学校に目標があるか
学校に特色があるか
学校は組織的に運営されているか
人材目標と企業ニーズの間に整合性はあるか
人材目標とカリキュラムとの間に整合性はあるか
教材の開発体制はあるか
教員の研修体制はあるか
成績評価は客観的なものになっているか
就職支援は充分か
教育設備は充分か
学生募集は適正に行われているか
財務体制は健全か(安定しているか)
関連法令を遵守しているか

などなどの指標を取りだして、この点検評価を一律にどの学校にも適用する評価がとりあえず「機構」の現在の評価モデル案です(大項目、中項目、小項目と細分化されて最終的には135項目になっています)。

こういった問いかけの特長は、すべての問いがYESと答えた方がよい問いかけになっているということです。したがって、YESの数が多い学校が「良い学校」だということになります。「機構」の評価指標は先のような問いかけが細分化されて全体で135個もありますから、その総数に応じてたとえば100個のYESの学校、80個のYESの学校というふうに「評価」が下ることになります。


●しかし、この「機構」のような問いはどれもこれも必要なもののように思いますが。こういった一般的な内容の点検なしに「特長」評価しても意味はないような気がしますが。

私も必要だと思います。我が学園でも絶えず問い続けている問いかけばかりです。しかしこういった問いかけにYESと答えたり、NOと答える、その基準をどう形成するのでしょうか。学校内で取り組んでいる課題出しや解答は厳しいことに超したことはありませんが、「自己点検・評価」の公表やそれに続く「第三者評価」ということになれば、何らかの判断基準が必要になります。厳しすぎても甘すぎても社会的な信任を得られないからです。

特に各学校を横並びの共通指標で評価する、という場合、それぞれの問いかけにYESと答えたり、NOと答える基準を共通化しなければ、学校評価を下したことにはなりません。共通指標で評価を行う場合の最大の課題は、評価指標=問いを摘出すること以上に解答の基準形成を同時に行う必要があるということです。そうでないとYESの数やNOの数を評価の根拠にする意味がなくなるからです。


●評価は数の問題なのですか?

そうだと思います。というか結果的にはそうならざるを得ない、と思います。
「機構」の現在の評価モデルは、135個の評価指標は「自己点検・評価」の場合も「第三者評価」の場合も同じものを使い、「自己点検・評価」は5段階評価(5:完璧 4:かなりやっている 3:普通 2:ややたりない 1:ほとんどやっていない No Answer:あてはまらない、あるいは評価が難しい)、「第三者評価」は「基準を充たしている」「基準を充たしていない」の二択評価をすることになっています。

「自己点検・評価」は当該学校が自己認識している状況を先の5段階で自己評価するわけですが、「第三者評価」の場合は「基準を充たしている」「基準を充たしていない」を自己評価した後、第三者(現在の案では同分野の専門学校関係者2名、異分野の専門学校関係者2名、同分野の業界関係者2名、計6名の委員で構成することになっています)が、その自己評価を再度「第三者評価」して結果を公表することになっています。

「第三者評価」の「基準を充たしている」「基準を充たしていない」は135項目全体の中で「一覧の形で」公表することになっていますから、当然のことながら、基準適合項目がいくつあるかが前面化します。「点検項目の全てが評価されることで学校全体の状況はわかる」(2006年1月25日「機構」研修会)と言われているとおりです。

もともと共通指標で横並びに学校評価をする、というのは、こういった一覧主義的な評価と直結しています。送り出し側の高校側からすれば、YES(基準を充たしている)の数はいくらあったの? ということになるでしょう。


●共通指標で点検評価する「一覧」主義はなぜいけないのですか。“良い学校”がはっきりわかってよいのではないでしょうか。あるいはYESの少ない学校は、教育改善の契機を見出せてよいのではないでしょうか。

そうですよね。普通はそう考えるでしょうね。しかしそれはYES(基準を充たしている)と判断する根拠が明白になっている場合だけです。

具体例で考えてみましょう。「各学科の教育目標、育成人材像は、その学科に対応する業界の人材ニーズに向けて正しく方向付けられているか」(基準3-1)という問いが「機構」の「基準3」(=「教育活動」)の第1の問いとして出てきます。

私は教務の責任者でもありますが、こんな重要な問いに、YESと答えて良いのか、NOと答えて良いのか、大変とまどいます。内部的には、現在の科の目標設定にまだまだ不十分なところを抱えていると思っています。

さらにこの「機構」の問いには「評価の視点」というものが付記されており、そこにはこう書いてあります。「学科の目標、人材像は対応する業界において求められる専門知識、技術などを常に調査・把握し、これらに焦点を合わせたものとし構成されなければならない」。これもその通りのことが書いてあります。「基準」の問いもこの「評価の視点」も大変正しい。しかしこれについても内部的にはまだまだ不十分と考えています。

しかし、この問いにNo(「基準を充たしていない」)と答えることができるでしょうか。「基準を充たしていない」の「基準」というのは、この場合、この問いそのもののことを言っているだけのことですから、特にこの問いに答えるための基準は用意されていません。せいぜい「評価の視点」がその根拠になるだけのことです。そこでNoと答えれば、その学校は「業界の人材ニーズ」とは違った「方向」を向いた目標や人材像を描いている学校ということになります。

そんなことに、NOと答える学校はまずありえない。結局、この問いはYESの“幅”の中で評価が決まる問いになります。たとえば、私が「まだまだ不十分」と見なしている、その不十分の“幅”の問題になります。

「機構」の問い(=「基準」)のほとんどすべての問いは、NOと答えれば、「この学校大丈夫なの?」という問い、YESと答えれば、「本当なの?」という問いばかりで構成されているということです。だとすると、YESの数が多いということは、「良い学校」の評価にはつながらない。


●そのためにこそ、「第3者評価」によって、そのあなたの言う「YESの幅」を判断し、たとえ当事者が「YES(基準を充たしている)」と答えていたとしても、場合によっては「基準を充たしていない」と第3者が評価するということではないのですか。

そうだと思います。少なくとも「機構」の現在の案はそう考えているのだと思います。しかし、本当にそんなことが出来るのでしょうか。

先ほども言いましたように「第3者評価委員会」は6名の委員で構成されることになっています。現在の案では同分野の専門学校関係者2名、異分野の専門学校関係者2名、同分野の業界関係者2名、計6名で構成することになっています。

先の「基準3-1」の企業の人材ニーズと学科の目指すものの方向性の一致如何という指標は、内容的な問題ですから当然のこと「同分野の専門学校関係者2名」がどんな判断をするのか、また「同分野の業界関係者2名」がどんな判断をするのかが重要な議論の鍵を握ることになります。

しかしこういった問いは同業他校や同業業界でこそ意見の別れる問題です。なかなか評価が一致するものではありません。そこのところを「異分野の専門学校関係者2名」が“客観的”に調停するというものでもないでしょう。当事者が教育的な議論を戦わせているのですから、解決はその中身にそって解決するしかありません。

そもそも、こういった企業の「人材ニーズ」というもの自体が明確でなくなってきている(たとえば、「人間力」なんてことを文科省ならいざ知らず経産省までもが言い出す世の中になってきているのですから)、あるいは明確であっても決して単数ではなく、同じ業界であっても多様な要求が存在する時代に突入しているというのが実態ではないでしょうか。

われわれの学園も企業交流や他校交流を積極的に推し進めていますが、積極的にやればやるほど、何が目指すべき人材像なのかがわからなくなるほどに「人材ニーズ」は「多様化」しているし、またやっと「焦点」を定めたと思った瞬間に「人材ニーズ」は「変化」しています。「調査」が盛んな学校ほどそういった事態にぶつかっていると思います。

そうなると「YESの幅」をさらに段階化して、その解答や評価の正否を決めるということなどほとんど不可能ということです。

そもそも、そういったことが難しい時代に突入したというのが文科省が90年代初頭に「自己点検・評価」を言い始めた動機だったわけですから、それ自体は「第3者評価」であっても変わらない事態です。


●そうすると“評価”は不可能だから、する必要がないということですか。

そうではありません。こういった高度な問題は、「一覧」主義的な共通指標評価ではこなしきれないということです。


●どうすればいいということですか。「一覧」主義的な共通指標評価ではない評価の方法があるということですか。

たとえば、先の人材ニーズと学科の人材目標形成の問題(「基準3-1」の問題)で言えば、まずそれが自分で得意だと認知している学校に手を挙げさせるべきです。「やっていないというよりはやっているよな」というようなYES判断をいくら積み重ねても意味はありません。「YES」と言うために事後的にその“理由”を見つけたり、あとから“委員会”を作ってみてもしようがない。

「基準3-1」の問題などは、真っ先に自分たちが得意だ、自分たちの特長だ、生き残りを賭けた自分たちのコアコンピタンスだ、と自己評価している学校に、その「自己点検・評価」レポートを書かせるべきなのです。

そうするとその学校は、企業交流、企業動向調査などのノウハウやそれを学内の学科目標にまで形成するノウハウを詳細に展開するでしょう。

「第3者評価」としては、その学校の、この種の「自己点検・評価」をまさに学校の特長形成に対する努力として認めるかどうかを判断すればよいのです。その議論の全体が「基準3-1」に対する評価の糸口になってくるはずです。

どういった問題については、どこの学校が精力的に取り組んでいるのか、という特長MAPのようなものができることが必要だと思います。

そういった強み=特長形成に寄与する「自己点検・評価」「第3者評価」が必要なのではないでしょうか。


●そういった百花繚乱の評価で、マーケットの信頼や学校評価の信頼を得られるのでしょうか。ただ混乱するだけではないでしょうか。「特長」だけではなくて、一般的な「質」や「水準」の問題を考える必要はないのでしょうか。特に専門学校の場合は私学経営がほとんどで、それゆえに学校間格差が大きい。だからこそ「一覧」主義的な「質」と「水準」を問う評価が必要なのではないでしょうか。

私はそうは思いません。先ほどの「YESの幅」の大きいYESをいくらたくさん積み重ねても、それがどうマーケットの、専門学校の「質」への信頼を獲得することにつながるのでしょうか。

すでに「一覧」主義的評価の歴史は15年近くあります。大学は平成3年来、一覧主義的な「自己点検・評価」「第三者評価」、つまり「YESの幅」の大きいYESを積み重ねてきたわけです。それが特にマーケットの信頼を獲得したとは思えない。横並びの指標の一覧主義的な「基準に適合した」大学がたくさんあるにもかかわらず、大学間格差は開くばかり。改革派の大学も保守的なままに改革を怠っている大学も同じように「大学評価基準を満たしている」ということになっています。大学の「自己点検・評価」「第三者評価」がそうなった最大の理由は、「一覧」主義だったわけです。


●大学などの評価が同じようになってしまうのは、「一覧」指標の問題ではなくて、それらが最低限の基準、下限の基準だからではないでしょうか。

違うと思います。それを言うのなら、大学の「一覧」指標の中には下限指標もあれば、高度指標もある、価値や思想を含んだ指標もあれば、事実だけを問う指標もある、また関連法規の遵守に関わる指標もある、つまりてんこ盛りの総指標になっているために、“良い”大学も“悪い”大学もその良し悪しの実体ほどには差異が出る評価にならないのです。


●なぜ、大学の「自己点検・評価」「第三者評価」では大学間格差が出ないのでしょうか。

それは、おそらく、大学教育が入学時の偏差値指標と“教授”の専門論文評価以外に、教育指標をもてないままだったからでしょう。だから突然、大綱化だとか、それに伴って点検評価しろ、ということになっても、内在的な目標管理や内在的な指標形成ができなかったのではないでしょうか。大学教育に“目標”も“点検”もなかったのだと思います。

特に大学は“教授”の講座制が基本になってカリキュラムや履修システムが形成されていますから、科目相互のつながりが見えづらく、ましてやカリキュラム全体の人材目標などは形成しづらい状況にあったかと思います。全体の人材像がないのですから、結局のところ点検評価は形式的なものにならざるをえない。それが横並びの「一覧」主義になり、そしていつの間にか「第3者評価」が「自己点検・評価」に取って代わるものになったということです。

この場合の「第3者評価」は言ってみれば「自己点検・評価」の棚上げを意味します。大学基準協会や大学評価・学位授与機構の既成の基準によって評価するのが学内的にいちばん“穏便に”済ませられる点検評価(=第3者評価)だということになったわけです。他校の事例と文例を“参照”しながらまるで学務方の事務手続きであるかのように点検報告書が仕上げられているというのが実情ではないでしょうか。

この意味で、点検評価が「一覧」主義になるのは必然だったと言えます。事例と文例が年を重ねる毎に増えていきますから、点検報告書も厚くなっていった。そうやって、当初の趣旨(各学校の特長を伸展させるための「自己点検・評価」+「第3者評価」)と全く異なった点検評価になってしまったということです。

つまり「一覧」主義と分厚い報告書は、点検・評価への無関心の結果であって、その逆ではないということです。

一覧的な「基礎」指標があって、その上で「特長」指標があるというのなら、先の「各学科の教育目標、育成人材像は、その学科に対応する業界の人材ニーズに向けて正しく方向付けられているか」(基準3-1)などという“難しい”基準など上げるべきではないのです。

この「機構」を生み出す母胎となった東京都の「専修学校構想懇談会」報告書(平成15年3月)でも「理念的な認証評価基準は一定程度整備する必要はあるが、『価値判断による評価』を主とするよりも『事実確認的な評価』を基本とする方向で、各学校の標榜内容と事実が合致するかどうかについて、現地調査を含めた検証のうえ、認証を行うものとする。またその認証のノウハウを蓄積しながら、認証評価基準の見直しも適時行いながら、そのレベルアップを目指す」(26頁)とあります。

本気でマーケットの学校選択に貢献する「評価」を行うというのなら、「就職率」「資格合格率」などの分母定義を現在のように就職希望者数や受験者数分母で“表現する”ことを止めさせる、とか「進級率」「卒業率」「退学率」などを算出する際の分母を5月1日の「学校基本調査」時の在籍数に基づいて算出し公表することなどがいちばん基礎的な下限の指標かと思います。横並びで一覧主義的に効果がある評価指標は、本来そういうものです。先の東京都の「専修学校構想懇談会」報告書にある「『事実確認的な評価』を基本とする方向で、各学校の標榜内容と事実が合致するかどうかについて、現地調査を含めた検証のうえ、認証を行うものとする」というのは、そういった「事実確認」に関わっています。

しかし「機構」の135項目もある点検指標の中で、「就職率」「資格合格率」「進級率」「卒業率」「退学率」などの教育基礎指標について触れられている内容は「基準4(教育活動)-3」の問い「退学率の低減に関する目標を達成したか」というものだけです。


●「退学率」しか基準の問いにないというのも変ですね。就職も資格も、社会的には「就職率」や「資格合格率」などで評価しているわけですから。

そうですよね。これも「退学率の低減」とあるだけで、「退学率」とは何か、という肝心の議論は一切ありません。就職活動の体制についても「基準」にはあがっていますが、その成果指標である〈就職率〉とは何かについての言及は一切ありません。肝心の「基準」の問いでは「学生の就職に関する目標を達成したか」(基準4-1)としかない。この問いでは、“就職の専門学校”に対する“世間”の期待に応えることができない。わずかに「評価の視点」で「学生の就職に関する目標として、入学者数に対する就職者数の割合、就職希望者数に対する就職者数の割合、学科の専門分野に対応する業界・職種への就職率等が挙げられる」というふうに言及されているだけです。

「入学者数に対する就職者数の割合」というのが、就職率がもっとも厳しい数字で出るのですが、ここでは就職率提示の事例の一つにまで貶められている。資格合格率の場合も「学校は資格取得者数、資格合格率といった資格取得の成果に関する情報、及び、その推移を正確に把握し、学生の資格取得を支援する活動の資料として有効に活用しなければならない」とあるだけで、肝心の「資格合格率」表示の適正化についての問いは抜け落ちています。

大学も専門学校も奇妙なことに「就職率」「資格合格率」「進級率」「卒業率」「退学率」などの「基本」数値をどのように算出しているか(分母を何にしているのか)、誰も解説してはいない。

全専各(全国専修学校各種学校総連合会)や東専各(東京都専修学校各種学校協会)の関係者は、彼らの主催するイベント事業などで「就職率100%」などと書いた学校のポスターを貼ったりするのを嫌います。こういった場合の100%の分母があやしいことをよく心得ているからです。普通は就職率100%という数値を見れば、その学校の在籍学生すべてが就職できていると考えるのが“世間”ですが、未履修者(卒業できるだけの「単位」や「時間数」が足りない学生)、就職自体を「する気がない」学生などが最初から排除されている場合が多い。分母を最小化した状態で掲げられる数値が「就職率100%」の現状です。


●それはひどい話ですね。それは「就職率」だけの話ですか。

同じように資格合格率も、ほとんどの場合、在籍学生数ではなく、受験者分母で表示されています。したがって、たとえば同一学年で在籍学生が100名いる学校であっても“優秀な学生”が10名受験して(どんな「質」の低い学校にも“優秀な学生”は10名くらいはいます)、10名とも合格すれば、資格合格率は「100%」と表示されます。就職率表示と同じような分母の圧縮操作が行われているのです。最近騒がれた社会保険庁の年金掛け金免除者の水増しよる分母操作と同じ原理です。

こういったことが専門学校に対する“世間”の評価を下げてしまっている元凶だと私は思います。こういった“不当”表示をそのままにしておいて、「質」の向上も何もありません。
専門学校が就職重視の学校であること、のみならず資格重視の専門学校であることも社会が遍く認めているだろうし、或る意味ではそれが専門学校の生命線とも言える指標だろうということも誰も否定しはしないでしょう。

しかしそんな大切な指標であるにもかかわらず、この“業界”では、その共通“定義”が存在していません。135項目もの詳細な基準を掲げながら、肝心の「基礎」指標、あるいは社会的な指標には何一つ触れられない、というのは、どういうことでしょうか。

我々の学校でも、「自己点検・評価」に関わって、「就職率」公表は「就職希望者」分母ではなくて在籍者数分母で公表しよう、資格合格率も「受験者数」分母ではなくて在籍者数分母で公表しようという提案がなされますが、“保守派”の大半はそれに反対します。そんなことをしたら、他の学校がかかげる就職率や資格合格率よりも自校のそれが劣る(ように印象をもたれる)のは目に見えています。わざわざ自分の首を絞めるようなことをする必要はないというものです。いわゆる募集への影響を看過できないというものです。

「機構」に結集している100を超える学校群は、いわゆる「学校案内」パンフレットにあふれる営業的なコピーを超えた内実のある学校表現、内実のある教育表現 ― そのための内実ある学校作りを求めて結集しているわけです。そのためには、1校だけの努力では肝心の公表すべきものは公表できず、公表しても“差し支えのないもの”だけが公表されるという現在の(大学の15年の経験も含めて)「自己点検・評価」「第三者評価」のあり方を変える必要があります。

足並みを揃えるべき基礎指標の提案がない中で、135個もの細分化した基準評価を「一覧」できるように行うというのは、だから、特長か、質の確保かという問題ではないということです。


●「一覧」指標主義は、形式主義的になり、内実ある点検評価を阻害するということですね。

そうです。さらに一覧主義には、もう一つの害悪があります。

全ての学校に同じ問いを突きつけるには問いが同じだけではなく、採点基準も同じ、つまり基準が明確でないといけません。なぜならば、同じ問いである限りは学校間の比較意識が内外で前面化するからです。

財政的な基盤が大学に較べてはるかに弱い専門学校群の「自己点検・評価」「第3者評価」であれば、YESの数は或る意味で死活問題です。だからと言って、1年や2年で好転するような問いばかりが並んでいるわけでもない。

先に挙げた「各学科の教育目標、育成人材像は、その学科に対応する業界の人材ニーズに向けて正しく方向付けられているか」(基準3-1)なんて問いは、教務関係者にとっては永遠の課題のような問いかけです。内部的には関係者にNoを突きつけ続けねばならないような問いです。

しかし内的な過程が何であれ、これがいったんこの“業界”の問いとして公認されてしまえば、YES(=「基準を充たしている」)と答えなくてはならない浮力が絶えず働くことになります。

熱心な経営者ほど、すべての項目でYESと答えられる学校を目指すことになるでしょう。現にそうやって、ここ10数年、大学の「自己点検・評価」=「第三者評価」はYESで埋め尽くされた点検報告書を出し続けてきました。

どこに最終的な問題があるのでしょうか。

たとえば、我々の学園では、98年以来「コマシラバス」運動を続けてきました。

授業計画を詳細化し、科目単位の講義概要(=「シラバス」)ではなく、科目の一コマ毎の時間展開を計画したもの=「コマシラバス」を、授業計画の中に加えたのです。「シラバス」だけでは、結果的にしか全体が見えませんが、「コマシラバス」があれば、時間単位で本来の授業評価が出来るからです。落伍者を出してから、補習や追再試をくり返す専門学校の履修評価の杜撰さを反省してのことでした。

当初はまともな「コマシラバス」を書ける教員がほとんどおらず、試行錯誤の8年間でした。少しずつ改善されてはきていますが今でも試行錯誤は続いています。

今では、このわれわれの「コマシラバス」運動を支持していただいて、授業計画を詳細化する学校があちこちに増え始めています。「コマシラバス」という聞き慣れない言葉さえそのまま使う学校が出てきたくらいです。学内では意匠登録でもしておけばよかったな、と言う人もいますが、私は同じ「コマシラバス」を書いていても学内でさえ趣旨を理解できない教員や管理職がいるのに、他の学校が導入しても成功することは難しいだろう、成功すれば、そのノウハウを逆に教えてもらいたいと思っているくらいです。その意味でもあちらこちらの学校へわれわれの運動をできうるかぎり詳細にご紹介してきました。

ところが、この「コマシラバス」ということばが今回の「機構」の「基準」の「問い」の中に取り入れられました。「自己点検・評価」の初版(平成17年3月)の中でのことです。現在の案ではさすがに「各科目の一コマの授業について、その授業シラバスが作成されているか」(基準3-11)というものになっていますが、この「基準」の最初の文案では「コマシラバス」という言葉がそのまま使われていました。


●〈コマシラバス〉が第三者的にも“公認”されたということですね。

われわれとしては光栄なことでうれしい限りですが、こういった事態は135項目の中のあらゆる項目の中で生じていると思います。

つまり或る項目(=「基準」)に関しては、或る学校は10年以上試行錯誤を続けてきて、それなりのノウハウを有しているという項目が135項目のあちらこちらに潜んでいるに違いないということです。それこそ企業交流に命をかけている学校もあるかもしれない。

しかしいったんそういった取り組みが体系的に整理されてさまざまなフレームの中に組み込まれ(当該学校がその項目に取り組んできた経緯が別のフレームに属していたとしても)、YES(基準を充たしている)、NO(基準を充たしていない)で答えなさいということになると当該学校の取り組みの内実は通りすがりにその問いにYESと答える学校と違いはなくなるわけです。

われわれからすれば「機構」の「コマ」シラバスをめぐる「基準」はいったい何を持って「コマ」シラバスと言うのか、何のために「コマ」シラバスを導入しなければならないのかと問いたくもなるかもしれない。

その一方で、われわれが通りすぎるようにことなげもなくYESと答える「基準」の「問い」の一つには、他校からはちょっと待ってよと何重にもチェックを入れられる要素が隠れているのかもしれない。

そういった貴重なノウハウからこれらの135項目をチェックしていけば、二、三の学校以外には、各項目についてYESと答えられる学校はないことになるに違いない。つまりほとんどの項目評価は、その項目にノウハウを持つ学校による評価で言えば、NOになるということです。しかし、それでは“評価”にならないということになり、「幅の広いYES」=月並みなYESが増発されることになる。

「一覧」主義は、結局のこと、特長ある取り組みをかき消すということです。すべての学校は、ここ数年の内に「基準3-11」の問い:「各科目の一コマの授業について、その授業シラバスが作成されているか」についてYESと答えるようになる。私たちの10年来の取り組みが「一覧」主義のYESによって見えなくなってしまうということです。


●それは、悪いことなのですか。各学校がコマシラバスを書くようになる、ということ、あるいは、授業計画を詳細化することの「質」を、この「機構」の問いの存在が誘発したわけですから、いいことなのではないでしょうか。まさにそういった取り組みを促進することが「機構」(の現在の案)の「一覧」主義の動機だったのではないでしょうか。

それが動機だという意味では確かにそうなのでしょう。しかしそういった外在的な要件を満たすためにコマシラバスを書いて、それが何の役に立つのでしょうか。われわれのように、内発的に(誰に言われるまでもなく)10年も続けてきている学校であっても未だにまともなコマシラバスが(なかなか)書けない現状で、「コマシラバスならありますよ」と外発的にYESを言う意味がどこにあるのでしょうか。

いくら「質」が重要だからと言っても、やりたくもないことをやることは「質」の向上にはつながりません。それにそもそも、実習時間が授業で占める割合の多い専門学校で「コマシラバス」がどのように機能するかは、たぶんこの問いを採用した担当者の念頭にはなかったかと思います。場合によっては「コマシラバス」は実際の授業と全く違ったものになりかねません。特に実習の多い専門学校はそうです。その「コマシラバス」の正否の「第三者評価」なんてまず不可能です。それができるくらいなら、全ての学校にはすでに「コマシラバス」が存在しているはずです。

 
●でも「機構」の「基準」は、「コマシラバス」の「正否」が問いの「基準」ではなくて「各科目の一コマの授業について、その授業シラバスが作成されているか」というように、コマシラバスの存在の“有無”が問われているだけのことでしょ。

そうですね。でも現在のところコマシラバスのある学校なんてほとんどありません。先にも言ったように専門学校では実習授業のコマシラバスは書けません。書けるとしたら、二つの場合だけです。一つは、まるで職業訓練校の授業でもあるかように実習授業が固定化されている場合。もう一つは、カリキュラム全体を根本的に変えて進捗管理が可能な実習授業を開発した場合。前者にはもともとコマシラバスは必要ありません。あったとしても工程表のようなコマシラバスにすぎません。それを「コマシラバス」とは言いません。後者には蓄積されたカリキュラム開発のノウハウが前提となっています。コマシラバス「がある」というのは、授業の進捗管理のノウハウがあるということを意味しているわけです。
 

●だからといって、〈コマシラバス〉がなくてもいいということにはなりませんよね。授業計画は詳しいほどいいに決まっている

そうですね。私もそう思います。そう思ってわれわれははじめたのですから。だからと言って、すべての学校がコマシラバスからはじめなくてはならないということにはならない。というか、「計画は詳しいほどいい」、「計画は計画として(実際その通りではないかもしれないが)コマシラバスがあるべきだ」というのは、既存の授業を(カリキュラム改革にはまったく手を付けないで)後から説明するという意味でのコマシラバスの有無を問う考え方ですが、本来は、コマシラバスの存在は進捗管理が可能なカリキュラム開発と一体になっていなければならないということです。

私は全国の専門学校にわれわれの「コマシラバス」運動を紹介してきましたが、全ての学校が自らの教育改革を「コマシラバス」から始める必要はないということも必ず言い添えてきました。形ばかりの「コマシラバス」は害悪でさえあるからです。

われわれの先行事例であるほとんどの大学は、大学基準協会や大学評価・学位授与機構の「第3者評価」について、ほとんどが「基準を満たしている」になっている。「基準を満たしていない」となるのは、たとえば代表的には、“定員超過"とか“学生アンケート"での“満足度が低い"などといった場合に限られています。よほど形式的なこと(超事実!)か、あてにならない心理的で受動的な要素に、〈評価〉が解体してしまっている。

たぶんわが「機構」の「一覧」評価もそうなるでしょう。こうなるとコマシラバスの「質」(コマシラバスという質)もほとんど意味がないことになります。要するに、一覧的な「質」評価は、コマシラバスの質の向上を意味しないということです。“後から説明"のコマシラバスも、カリキュラム開発と一体になったコマシラバスも、同じ「YES」で済んでしまう。これは質の向上ではなくて、むしろ後退です。この問いがあるために逆にコマシラバスの向上は阻害される。

各学校が内発的に取り組む主題を拡大させていく、強化させていく、そのうねりの中で点検項目が増加していくという形を取らないと点検評価は有益なものにならない。「第3者評価」の基本は内発的な「自己点検・評価」であって、現在のような「第3者評価」は「自己点検・評価」の棚上げに過ぎない。点検評価の取り組みの遅い学校、点検評価に内発的な動機を見出せない学校ほど「一覧」主義的な「第3者評価」に飛びついているのです。

文科省の澤川和宏氏が言うように「点検項目を絞り込み、必要十分にすることが成功の秘訣だ。目指す学校の基本的なコンセプトを明確にすることが必要で、教員間で目標定まらないまま点検・評価をして効果を挙げるのは難しい。ただ、校内で十分に議論し、目指す方向性を絞っていく過程そのものが非常に需要で、教員間の率直な意見交換によって学校がまとまる。これができれば、自己点検・評価の9割は終わったと言ってもいい」(「今後の専修学校のあり方について」2007年2月21日)ということです。


●でも文科省の澤川さんの言及は「第三者評価」のことではなくて、あくまでも「自己点検・評価」のことですよね。

そうですが、私は「第3者評価」が「自己点検・評価」と異なるものだとは考えていません。もともと「自己点検・評価」が言われたときから、その点検・評価の“公表”ということは謳われていました。「第3者評価」は“公表”の次段階にすぎません。というか“公表”は「第三者評価」の始まりです。

私は、学校が自らの教育の改善のために「第3者評価」を受け入れるとすれば、学校が内発的な目標や点検指標にしているものを巡ってでなければほとんど意味はないと思っています。

力を入れているものであれば、その課題や意味について自らがもっとも射程の広い議論を受け入れることが出来るでしょうから、「第3者」の問いかけや疑問にもっとも適した対応が出来るでしょう。学内への実地調査に入った場合でもその公開性はもっとも公開性の高い、公開性の質の高い公開性を保持出来ます。

これに引き替え、「一覧」主義的な「第3者」への公開性(“実地調査”)は、おそらくちまたの“学校見学会”のような体裁を取るに違いありません。あるいは「学校案内」パンフレットのような体裁を取るに違いありません。まずいものは見せるな、言及するなということです。これは隠すとかだますということではありません。たぶん何がまずいことなのかさえわからないでしょうから、隠すことすら出来ない。不得意なものに関しては何を見せればいいのか、何が説明のポイントなのかがわからないからそうなるのです。

「質」の低い点検・評価報告書は、質の低い「第3者」評価を招きます。


●普通は、「第三者評価」が、改善の遅れている学校を牽制的に良くする、と考えられていますが、それとは逆の考え方ですよね。

そうです。逆です。たとえば、大学の「第3者評価」は、大学評価・学位授与機構の一例を挙げれば、こんな感じです。

「教育の目的や授与される学位に照らして、授業科目が適切に配置(例えば、教養教育及び専門教育のバランス、必修科目、選択科目等の配当等が考えられる。)され、教育課程の体系性が確保されているか」(基準5-1-①の問い)。

 この問いの報告書について(この問いに対応する我が「機構」の問いは、基準3-5「学科のカリキュラムは、目標達成に向け十分な内容でかつ体系的に編成されているか」となっていますが)、大学評価・学位授与機構の「第3者評価」の評言は以下のようなものです。

「教養科目」、「外国語科目」では、基礎的な内容を1、2年次に、より高度な内容を3、4年次に段階的に履修することを可能にしている。また、専門に関する科目も、「専門基礎科目」を1、2年次に配置し、3、4年次の専門教育に円滑に繋げられるように工夫している。これらの科目配置は、高等専門学校等からの多数の3年次編入学生にも対応したものとなっている。
学部4年間全体の教育課程は、年次を追って「教養科目」及び「外国語科目」に対し、「専門基礎科目」及び「専門科目」の比率を高めている。
また、大学院修士課程への進学者に対しては、「実務訓練」が課されており、社会との密接な接触を通じて指導的な技術者として必要な人間性の陶冶を図るとともに、実践的な技術者感覚を体得させることを目的とし、当該大学の目的に沿う最重点科目となっている。
これらのことから、授業科目が適切に配置され、教育課程の体系性が確保されていると判断する。
(独立行政法人 大学評価・学位授与機構 平成17年度報告書より)。

どこの大学の点検報告について、どういった「第3者」がこの評言を報告したかはここではふれませんが(当該大学がどんな報告をしているかはこの「第三者」評言で推測がつきますが)、これは大概の大学の「第3者評価」の平均的なスタイルです。こんな評言で、「基準を満たしている」「体系性が確保されている」と言われても当該大学でさえうれしくはないでしょう。カリキュラムの体系性に日夜格闘している教務担当者が読めば笑ってしまうような評言であっても、「一覧」指標で「第3者」が介入すれば大概はこうなってしまうのです。これは当該大学と第3者とのレベルや能力が低いという問題ではなくて、当事者(大学側)に関心のないものまでをも点検評価させているという問題です。

「第3者評価」のレベル(の質)は、評価者の実体的で自立的な評価能力というよりは、当事者の、点検指標に関する関心度、取り組み度合いが決定するのであって、良い「自己点検・評価」は良い「第3者評価」を生み出すのです。

私は「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP:Good Praxis)」の審査部会委員を16年度から今年の18年度まで三年間務めていますが、何百校もの提案を書類審査し、優秀校のヒアリング、審査委員同士の議論に参加してわかったことはただ一つ、絞り込まれた提案(各大学の「特色」プログラム)の質が評価の質を高めるのであって、その逆ではないということです。ダメな提案ほど評価の意見もおざなりになる。良い提案は評価者自身がそこから学ぶ。評価者自身が評価されているわけです。学校評価、教育評価とはそういうものではないでしょうか。


●「自己点検・評価」「第三者評価」と「特色GP」などの取り組みはどういった関係にあるのですか。

大学政策は、「自己点検・評価」の不毛な「一覧」評価主義を反省して、平成14年度からの「21世紀COE(Center Of Excellence)プログラム」、平成15年度からの「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」、平成16年度からの「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」など矢継ぎ早に展開しています。

これら三つの施策(COE、特色GP、現代GP)に共通するのは、どれこれも大学を真に個性化・多様化する個別の重点課題への取り組みに積極的に支援、予算配分していこうということです。国家財政が緊縮化すれば、いつまでも一律評価や形式的な予算配分ではやっていけないのは明らかです。

それに応えて、大学も基準協会や評価機構の点検評価よりは、「特色GP」「現代GP」の採択をホームページで前面化しています(たとえば、大同工業大学http://www.daido-it.ac.jp/topics/index.htmlなど)。マーケットもYESの多さではなくて、内実のある取り組みを求めているのだと思います。

この「特色GP」の場合、申請文書はA4版15頁前後のものです。写真やグラフが入れば、文字数は全体でも8000字あるかないかです。

これは点検報告書の文字数よりははるかに少ない。10分の一、20分の一以下のボリュームです。しかしこれで「自己点検・評価」報告書や基準協会や大学評価機構の「第三者評価」よりも評価が薄くなるかというとそうではありません。少ない分、審査委員は一字一句真剣に審査が出来ますし、何よりもテーマが絞られている分、議論も的が絞られやすい。したがって評価結果に向かっても評価委員全体の評価が収斂しやすくなります。

何よりも、各大学が力を入れているものの報告書評価ですから、各委員(大概は他大学の教授たちです)はそこから学ぶことが出来る。評価をする中で評価する者も学んでいくわけです。これは「一覧」主義の評価が形式化するのとは逆の貴重な経験です。こういった経験を重ねていくことが、その学校群全体の「質」を上げていくことに実質的に貢献していくわけです。


●しかし「COE」、「特色GP」、「現代GP」などの取り組みは、「自己点検・評価」「第三者評価」の取り組みがあったからこそではないでしょうか

そう言う人もいます。しかしそれは結果論です。「自己点検・評価」「第三者評価」が時間的に先行した事実を言っているだけです。内容的なつながりなど何もありません。「自己点検・評価」「第三者評価」の経験があるからこそ、COE、特色GP、現代GPがありえたというのは、失敗の経験としてそうだということでしかありえません。多額の公的助成を得ている一条校大学・短大としては、“規制緩和“に代わる自己規制が必要という意味で必要悪のような感覚が大学関係者にあっただけのことです。

しかも“規制緩和”に代わる自己規制が現在の「自己点検・評価」「第三者評価」のようなもの(=大部の報告主義)になるとは誰も思っていなかったと思います。文科省は最初から「COE」、「特色GP」、「現代GP」のようなイメージを持っていたのですから。それは平成3年来の先に挙げた数々の答申を見ればわかることです。

「質」の低い大学や短大(あるいは専門学校)は、設置基準や自己規制以前に、放って置いてもつぶれるのですから、「自己点検・評価」「第三者評価」は最初から特長化への取り組み以外にあり得なかったと言えます。今更、もう一つ別の設置基準のような「一覧」評価など意味がなかったわけです。むしろ形式的なYESに満ちあふれた「自己点検・評価」「第三者評価」報告書は、「質」の低い学校の隠れ蓑になる害悪の方が大きかったと言えます。

今、専門学校関係者の中で話題になっている専門学校の“一条校”化問題をこの「自己点検・評価」「第三者評価」と結びつけていこうとする動きもあるようですが、「一覧」評価では、大学の「自己点検・評価」「第三者評価」の規模を一回り小さくした評価しかできません。報告書を“書く”ことについては、大学“教授”に勝る人たちはいないからです。その点では余計に“一条校”との格差を実感するしかないでしょう。

特に「特長」評価になると報告書が薄くなって困ると心配する関係者もいますが、そうとも言えません。われわれの学校であれば、たとえば〈コマシラバス〉という項目についてだけでも10万字くらいはすぐに書けます。〈特長〉というのは専門性の別名ですから、特長主義評価では記述が薄くなるというのは間違いなのです。「一覧」主義の多項目にわたる平板な10万字と〈コマシラバス〉作成のノウハウで詰まった10万字とのどちらが教育に貢献するのか、もはや言うまでもありません。

「シラバス」(あるいは場合によってはコマシラバス)と言えば、大学の独壇場と思われていました。しかしそれは大きな勘違いであって、科目相互の関係性の薄い講座主義的な大学に、本来の意味でシラバスを詳細化する必要などないのです。シラバスが本来の意味を持つのは科目相互の関係や体系性を、場合によってはコマシラバスのレベルにまで落とし込むほどに厳密化するときであって、それがないシラバスは単なる講座“紹介”、講座“案内”にすぎません。そして本来のシラバスのない大学に本来のカリキュラムも存在しない。カリキュラムと講座主義とは対立した概念です。カリキュラムは全体の人材像を志向するという意味で(講座主義的な)科目の独立性を認めないからです。

講座主義に汚染されていない専門学校こそが、本来のカリキュラム、本来のシラバス体制を構築できるのであって、同じ「カリキュラム」という言葉、同じ「シラバス」という言葉を使っても大学と専門学校とでは意味がまったく違うのです。

専門学校が“一条校”の仲間入りをするとすれば、高等教育全体の中で、大学教育とは異なる実質や特長を手に入れるときでしかありません。異なる実質や特長を手に入れるには、異なる点検・評価のあり方が必要なのです。

文科省の予算が緊縮財政の中で傾斜配分を余儀なくされている今、大学よりもはるかに“緊縮的な”専門学校の経営と教育の将来は、強みとなる特長の発見なしにはあり得ない。色々な特長を持った学校、それも公認された特長をもった学校がたくさんあること、それがその学校群の活性化の根拠です。

「特長」評価を先行させて、その点検項目では後発の学校がその他校経験を倣っていく。「その項目を強化したいのなら、あの学校のあの経験(実績)が勉強になる」、そういった実績のネットワークを幾重にも張ることが、学校群全体の「質」を上げていくのです。それが「自己点検・評価」「第三者評価」の根本の意義です。「第三者評価」とは、その意味で、各校の特長ある取り組みを共有化するということにあるのであって、あれこれの報告書主義、裁定主義とは無縁です。何度も言うように「一覧」的なYESが専門学校全体を活性化することなどありえない。

国家補助のある大学でさえ、「特長」ある評価へと重点を移しつつあるときに、専門学校が一周遅れて「一覧」評価をする意味はほとんどないわけです。専門学校関係者は大学全入時代の今こそ大学評価の歴史からいい意味でも悪い意味でも学ぶべきだと思います。(了)

(Version 2.0)

※Version2 は、レポート後半の「●でも「機構」の「基準」は、「コマシラバス」の「正否」が問いの「基準」ではなくて「各科目の一コマの授業について、その授業シラバスが作成されているか」というように、コマシラバスの存在の“有無”が問われているだけのことでしょ」という問いかけから以下20行くらいが増補修正されています。


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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感想欄

自動車マネージメントは楽しかったですね。

ファカルティ・ディベロップメントとかで、今、コマシラバスを書いています。そうか、芦田先生のせいだったのですね。

暇なので各授業のシートまで作ろうと思います。

倉品拝
謹言

投稿者 倉品 康夫 : 2007年12月29日 12:55
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