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 「知的生産の技術」研究会講演会に招かれて ― ほっとしました 2005年04月23日

昨日金曜日は、「知的生産の技術」研究会(http://tiken.org/top.php)に招かれて、「新しい教育評価の試み〜コマシラバスと授業評価指標の形成〜」(http://tiken.org/modules/piCal/index.php?smode=Monthly&action=View&event_id=00000190&caldate=2005-4-23)というテーマで2時間話してきた。

場所は、霞が関の商工会館8階ラウンジ(http://www.jade.dti.ne.jp/~shoko-on/)。

8階ラウンジというのが、この集まりのミソ。このセミナーは、会の副理事長:小石雄一(http://homepage2.nifty.com/weekendmaster/index3.htm)さんの「週末の達人」(http://homepage2.nifty.com/weekendmaster/index3.htm)シリーズの一環で開催。講師も参加者も多種多彩な人たちが、参加して週末(金曜日)を「知的」に過ごそうというもの。10名から20名の人がラウンジに集まって自由に情報交換するのが趣旨。

最初、会長の八木哲郎さん(30年以上に渡る、この会の活動は、この人の“人徳”なしにはありえないものだった)と、こんなテーマでは誰も集まらないよね、と不安一杯だった。資料作成(用意する部数)の件があるので、先週末メールで参加人数を聞いたら、案の定、「芦田校長どの 22日はいまのところまだ10人未満です。ただし申し込みしないでくる人がいますからプラスアルファがあります。小石からの連絡でもう一度メールを同報して見ます 知研八木」という返信が来た。

これは、相当“覚悟”する必要がある。悲壮な感じになってきた。講演会でいつも難しいのは、講師を呼ぶことよりは(八木会長と組めば、どんなに有名な人でも日本で呼べない人はいない)、人を集めること。いつもいつも八木会長と私は、この人集めで苦労してきた。有名な人に頭を下げて、“低価格”で呼んでも人が来ない。

最近話題の養老孟司(http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2002/yourou.html)などは、私が初期の頃から呼びましょう、と頼んでいて、(『バカの壁』http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106100037/249-5273364-8272331大ヒット以前に)実際何度か東京工科専門学校にお越しいただいたが、「知的生産の技術」研究会会員、中野地域の人たち含めて、50人以下ということもあった(今ではそんなことはないが)。

私と八木会長で主催したテラハウス東京工科専門学校での講演会講師たちだけでも(96年の西和彦から02年の大岩教授までだけでも)ざっと以下のようなものがある。

大岩元(慶応大学教授)

「IT革命に乗るための自己開発」2002/3/26

寺島実郎(三井物産戦略研究所)

「NPOの歴史的使命」2002/1/24

田近伸和(ルポライター)

「ヒューマノイド(人間型ロボット)の未来」2001/11/27

米本昌平(社会生命科学研究室長)

「ヒトゲノムとは何か ― 先端医療の現在」2001/4/25

月嶋紫乃(劇作家)

「もっとパフォーマンスを」2001/6/56

黒川伊保子(ユニット花音)

「ビジネスプロデューシングをしよう」2001/8/22

西和彦(元アスキー社社長)

「僕が21世紀に目差すもの」2000/3/17

久恒啓一(宮城大学教授)

「宮城大学における知的生産の技術教育の成果」2000/1/29

笠木恵司(ライター)

「ためになる国際資格取得ノウハウ早わかり」1999/11/19

江口雄次郎(国際評論家)

「登山技術はあらゆる技術の源泉」1999/9/21

桝井一仁(国士舘大学教授)

「国際時代の情報部長」1999/8/27

鮫島達郎(TBSブリタニカ総務局部長)

「現代用語事典はこうして作られる」1999/7/23

渋谷正信(渋谷潜水工業社長)

「水底の世界」1999/6/24

大内勲(呉羽化学工業企画部長)

「能力増大の技術」1999/5/20

永田清(玉川大学教授)

「ハーバード流情報術」1999/4/23

岸裕司(習志野市「図書館について勉強する会」会長)

「かろやかで楽しいコミュニティ作り」1999/3/26

山田厚史(朝日新聞編集委員)

「1999年、日本の改革はどこまで進むか」1999/1/23

真田真音(作家)

「マイン! 自ら選び取る道」1998/9/21

守屋洋(作家・翻訳家)

「中国古典が教えるもの」1998/10/21

佐山和夫(ノンフィクション作家)

「野球の向こうに世界が広がる」1998/11/25

望月輝彦(建築家・多摩大教授)

「非線形型人生の設計」1998/12/9

岡田斗司夫(評論家)

「アニメ設定の発想」1997/12/13

久恒啓一(宮城大学教授)

「図解表現の技術」1997/7/12

横山隆壽(電力中央研究所)

「地球環境は大丈夫か」1997/5/17

石黒捷一(実用音楽研究所所長)

「耳学セミナー(音と生命の不思議に迫る)」1997/5/31

工藤由美(ルポライター)

「私の取材学」1997/6/14

豊田愛祥(日本交渉学会理事)

「交渉学」1997/8/23

養老孟司(東京大学教授)

「脳化社会の行方」1997/1/18

村松増美

「英語世界に溶け込む法」1997/1/18

紀田順一郎(作家)

「ライフワークが世に出るまで」1996/9/26

西和彦(アスキー社取締役)

「インターネット超時間術」1996/9/26

多士済々の講師陣だが、我が学園のテラホール(収容人数200名)でも20名くらいしか集まらないときがあり、講師にも挨拶せず(八木会長に任せて)逃げて帰ったときもあったくらいだ(今だからこそ話せる?)。

そんな苦労の歴史の中で、今度は(無名の)私自身が講師。八木会長の気遣いが「ただし申し込みしないでくる人がいますからプラスアルファがあります」という言葉でひしひしと伝わる。しかし余計に悲壮。間近の木曜日には「芦田校長殿 すくないですが、まことにつぶよりの人が集まります。先約があって残念という都立高校の校長がいました。明日よろしくお願いします。八木」というとどめのようなメールが来た。

やはり講演前日の確認でも「少ないですが」ということは、「10人未満」を超えないということか、と“深読み”。しかも、「まことにつぶよりの人が集まります」。これは私を励ますよりは、余計に悲壮にさせた。「まことに」がついている。ひょっとして、「10人未満」ということは、5名未満かもしれない。「つぶよりの人」なんて、そんなにたくさんいるわけがないから、「つぶより」なのだから。

そうして、金曜日がやってきた。当日は会議が17:45まで続き、会場には開始時刻19:00を少し超えた。私は、全日空ホテルにクルマをとめて、商工会館まで歩き(約10分)。印刷物は20頁のもの(+パワーポイント配付資料)を20部用意した。それでも20人くらいは“ひょっとしたら”来るかもしれない、という期待(淡い期待)が、その「20部」に込められていた。

正直、入学式も終わって、やっと少しは休めるかと思ったら、4月は怒濤のような忙しさが続き、今日も充分な準備ができないまま、霞が関の官庁街をハナキンにポツポツと歩く。

ところが、これが結構重い。商工会館に着いた時には、もう汗が噴出。しかし、それどころではない。いやだなぁ、着いたらラウンジに5人もいなかったらどうしよう、とドキドキ。すでに1階のエレベータで、緊張。10人くらい人がいた。8階を押す人はこのうちどの人? 6階を押した人がいた。「8階をお願いします」と私。6階と8階以外は誰も指示しなかった。6階で7人が降りた。私をのぞいてまだ3人が残っている。ということは、3人は、私がらみか? 

8階に着いた。八木会長他が迎えてくれたが、何やらたくさんの人がラウンジにいる。事務局長の秋田さんに「資料、これ。20部は用意しました」と渡したが、「先生、これじゃ足りませんよ。30人は来ています。原紙ありますか。コピーしますから」。

私は、その時、足りないことよりも、心の中で、ヤッター!!と叫んだ。「だって、八木会長が10人未満と言っていましたから」と(思わず)笑いながら応えた。

30人の中には、さすが「知的生産の技術」研究会、というメンバーが多かった。著名なジャーナリスト、著述家が数人(分野が違うが私も名前を知る人ばかり)、大学の先生2、3人、大学生協の関係者、高校の校長先生、ベネッセコーポレーションの2名、文科省のお役人らしき人2、3名など。要するに(たぶん)タイトルの内容だけで集まった人が結構いたということ。世の中捨てたものじゃない(と、急に気が大きくなって、全日空ホテルからの暗い気持ちの10分が吹き飛んだ)。

講演は、大反響をよび成功裏に終わった(という八木会長のまとめ)。「芦田先生は哲学者だからいつも難しい話で今日も心配していましたが、今日の話はわかりやすくて、とてもよかった。すごい学校を作りましたね」との八木評。たしかに終了後も好意的な中身のある名刺交換が相次ぎ、一種独特の雰囲気だった。「生涯学習」が声高に騒がれる前からのこの研究会。“文化講演会”を根付かせることなど、この日本の風土ではほとんど不可能な状況で30年間も継続的な活動を続けて来た八木会長の真骨頂を肌で実感した瞬間だった。

講演終了後も質問がいくつか出たが、横浜国立大学の教育総合センター林義樹教授(参画教育理論の第一人者http://www.isc.meiji.ac.jp/~sakai/data/book/commit.html)の質問への返答にはお互い時間がなく、またの機会に、とのことだった。ここで少しは応えておきたい。

彼の質問の骨子は次の通り。

このような組織だったコマシラバスと授業シートの体制(それの定量的な管理)― これについては『芦田の毎日』311番の記事(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=310)を参照のこと ― は、創造的な教育、自主性や個性を形成する教育、自ら考える力を形成する教育には、どこまで寄与するのでしょうか、というものだ。

私の講演にはつきものの質問だが、私は、この型の質問には以下のように答えている。

われわれの考え方の基本は、学校にしても教員にしても(要するに組織でも個人でも)、まず、教えたい、教育したいという内容があるはず。たとえ、知識提供型(教える、教育するという一方通行の型)の教育ではなく、学ぶ者の自主性の伸長を尊重する教育であっても、何をその教育の成功というのか、失敗というのか、その判断(内容)はあるはず。その評価の基準をまず教室の内外に公開することが必要。それがわれわれの考え方のすべて。

われわれが授業シートを使って授業を行うのは、「私(=教員)は、ここ(シート)に書かれたことがみなさんに伝われば、授業が成功したと思っている」ということ、つまり授業の成否の基準を授業シートに盛り込んでいるのであって、それは授業を形式化する(マニュアル的に自動化する)こととは何の関係もないこと。どんな創造的な教育も、何を「創造的」とみなすのかの基準(評価)なしには始まらない。そうでなければ、「創造的」教育は無責任な教育の別名に他ならない。

われわれは、授業シートを使ってこそ、学生が“自主的に”授業参加する体制を構築できると思っている(現に我が学生たちは、以前よりもはるかに活発に勉強するようになり、カリキュラム内だけではなく、放課後も自主的な勉強サークルが居残って勉強するケースが増えてきている)。というのも評価の基準なしには、参加の基準もないからだ(したがって「参加」「参画」もない)。そして基準の提示なしには、その基準の正否も問うことができない。成否も正否もわからない「創造」性、「自主」性教育は、単に教育側の責任を棚上げにする弁解がましい教育に過ぎない。むしろ「創造」性、「自主」性教育は、傲慢な教育の別名に他ならない。「創造」性、「自主」性教育は、むしろその趣旨の反対のものに転じてしまっているのである。

授業シート(教員の授業成否の基準を10項目で展開したもの)こそが「創造」性、「自主」性教育を真に開始するとわれわれは考えている。

林先生、またじっくり話しましょう。楽しみにしています。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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