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 ハイビジョン記録時代と紅白歌合戦の低迷 2005年01月10日

何度も言っているが、最近騒がれている“次世代”記録メディア、ブルーレイディスク(http://www.keyman.or.jp/search/a_30000184_1.html?vos=nkeyadww00000001)やHD-DVD(http://e-words.jp/w/HD20DVD.html)には、もう一つ肩入れする気が起こらない。一番の不満は、ハイビジョン放送で流される4時間15分の『紅白歌合戦』をどちらも丸々録画できないからだ。

D-VHS(http://www.jvc-victor.co.jp/video/dvhs/hm-dhx1/index.html)なら、(安い値段でhttp://www.kakaku.com/prdsearch/detail.asp?ItemCD=203080&MakerCD=83&Product=HM%2DDHX1#ShopRanking)丸々ハイビジョンで録画できるのに(最長4時間20分のハイビジョン記録ができる!)、ブルーレイではその半分も記録できない。私の家では未だにハイビジョン生放送の画質と音のままに島倉千代子の『人生いろいろ』と前川清の『そして、神戸』が見られる。毎日が紅白歌合戦。毎日が大晦日。これは快感という他はない。

しかし、紅白の視聴率が落ちてきた最大の要因は、70年代に始まるベータvsVHSのビデオ録画時代からだ。私はそう思っている。生放送でしか見られないから、紅白は紅白だった。それは季節の風物詩そのものだった。家族のすべてが、夜の9:00にテレビの前に揃うようにして大晦日が存在していた。それは大晦日の時間そのものだったのである。

現在の視聴率競争もビデオ録画の時代では、生放送もまた再現されるものとしてしか意味がない。“生放送”というのは、それ自体が演出の(あるいはコスト削減の)手法にすぎなくなったのである。

今年の紅白の低視聴率もK1の“生放送”の迫力に負けたのだなどとありがちな批評に晒されているが、そんなことはウソだ。単に「紅白」が面白くなかっただけのこと。

なぜ、今年の紅白は面白くなかったのか。

1)カメラがよくない。「人生いろいろ」の時にも和田アキ子や小林幸子ら20人くらいが後ろを取り囲んでいたが、それを引き(クレーン画像)で映したりすれば、あの大ステージでは貧弱きわまりないカメラになる。なぜそんなアングルを選ぶのか。気が知れない。昔のようにスクールメイツが100人単位で出てくるほどお金がかけられないのだとしたら、後はカメラで勝負するしかないのに、そのカメラワーク自体が凡庸そのものだった。マツケンサンバを歌ったときが視聴率の最高地点だったらしいが、それはダンサーの物量で画面(=舞台)に迫力が出たときだったからでもある。最近は北島三郎の紙吹雪さえなくなっている。

歌番組のカメラワークでは、昔のシオノギミュージックフェア(フジテレビ)http://www.fujitv.co.jp/b_hp/mfair/ が最高だったが、紅白のカメラ陣はそう取っ替えする必要がある。

私の考えでは、一層のこと、アメリカのテレビドラマ『24』(http://www.so-net.ne.jp/24/)のカメラ陣くらいが、紅白の舞台をカメラに収めて欲しい。特にシーズン?(http://www.foxjapan.com/dvd-video/24/index_frames.html)の前半中の前半、監獄からの脱走の一連のシーンの迫力はカメラの勝利だった。あのカメラで紅白を取れば、どんなにつまらない歌手が出てきても紅白は盛り上がる。

そもそも、日本映画もそうだが、カメラで惨敗している。アメリカ映画にだけではなく、韓国映画にさえカメラに負けている。情けないくらいだ。お正月にはテレビで『踊る大捜査線 レイインボーブリッジを封鎖せよ』(http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD3050/)をやっていたが、まるで高校生の8ミリ映画並みのカメラだった。カメラ(と音楽)が悪くては、どんな脚本もまともなものにはならない。

2)カメラが貧弱なだけではなく、舞台設計が貧弱。特に舞台の手前のライン(観客席と舞台との間)が貧弱なため、カメラが引いたときに余計に舞台が貧弱に見える。もっと観客席側にも介入する立体的な造形にすべきだった。わずかに立体的だったのは、波田陽区(http://www.ponycanyon.co.jp/arts/hata/)と青木さやか(http://dir.yahoo.co.jp/talent/1/w04-0537.html)の寸時のトークの時だけで(私は波田陽区がこの舞台で「実際にみんなが気になっているのは(紅白の勝敗ではなくて)格闘技の勝敗だ」と言ったとき、もうこの人はNHKに二度と出られないだろうな、とドキッとしたが)、それ以外は凡庸な(=前面に限定された)舞台に歌手たちの動きが小さく限定されていた。これがカメラの無神経な動きによってさらに舞台を貧弱に強調していたのである。貧弱なカメラ×貧弱な舞台。貧弱さの自乗。これでは紅白は盛り上がらない。

紅白出場について、歌手(たち)が辞退する最大の理由は、それが『紅白』だから、NHKだからという理由ではなくて、歌が魅力的に(舞台装置的にもカメラワークとしても)伝えられていないからだと思う。シオノギのミュージックフェアなどは、どんな無理な選曲でも歌手は喜んで引き受けてこなしていた(私は、この番組で美空ひばりが『ワインレッドの心』を歌ったのをはじめて聞いたが、ぞっとするほど魅力的だった)。カメラが歌手や歌を素敵に映し出していたからである。それが紅白にないから、“大物”歌手(本当の人気歌手)たちが出演しない。つまり紅白は「歌合戦」になっていないのだ。

3)昔は南極基地から中継や最近ではベルリンの壁からの中継など、生放送を意識した多元中継が『紅白』に於ける生放送の鍵を握っていたが、それが平板な新潟中継にとどまって迫力がなかった。同じく生放送のK1を(生放送的に)凌ぐとすれば、NHKならではの大晦日風景があってもよかったのだが、それがない。全国の大晦日の風物詩(大晦日でも働いている人たちを含めて)を集約してこそ『紅白』だのに、それがない。「そして、神戸」のときにもただ神戸の夜景が映っただけだった。これは手抜きとしか言いようがない。神戸(の人たち)と新潟(の人たち)を結んだ中継があってもよかった。出身地の新潟を意識して派手な衣装を“自粛”した小林幸子の歌の前にも新潟の人たちのインタビュー(や被災地中継)があってもよかった。私であれば、全国のNHK支局を動員した生中継を繰り広げる。

今回、そういった多元中継を阻害したのが、オリンピック選手たちの(舞台に於ける)介在だった。下手な学芸会なみのトークしかできない彼ら(彼女ら)を使うのは危険そのものだった。これもコスト安からの選択だったのかもしれないが、オリンピックはオリンピック、紅白は紅白というアイデンティティを曖昧にする演出でしかなかったのである。自社の番組(朝の連続テレビ小説の主人公や大河ドラマの出演陣)を身勝手に素材化するのも同じように“国民的歌番組”を阻害する要因でしかなかった。NHKのすべての番組は見なくても、紅白だけは見る、というのが「国民的」ということの意味だというのをなぜNHKはわからないのか。

4)したがって、私は、出場歌手の選別の不透明さや不適切について、紅白を批判する気はない。紅白でしか出会えない歌手がいてもいいかとは思うが、問題なのは、紅白で歌いたい、と(歌手自身が)思えるような演出が足りないことが最大の問題。海老沢会長の問題でもなければ不祥事の問題でもない。そういったトラブル続きを跳ね返すために今回の紅白は総力を結集したと言うが、それは全くのウソ。企画力が大幅に衰退しているとしか言いようがない。ハイビジョン記録時代に対抗しうる生放送歌番組はどうあるべきか。この課題に全く答えていない。

私は、“国民的”というのはもはや幻想だ、などとうがった見解を披露する気はない。今こそ“国民的”歌番組があってもよいと思う。今こそ大晦日くらいは、家族、親族をお茶の間に集めようではないか(スキー場や海外とかに行かせずに)、というスタッフの気概があってもよいような気がする。そのためには、NHKを超えた人材を企画会議に招集して(企画会議のみならず制作スタッフとしても)、“国民的”な演出を再度検討すべきだ。紅白のスタッフたちは、自らの敗北を他人のせいにしすぎているのである。それはどんな企画や組織の衰退にも見られる共通の兆候だ。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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