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 2004年度入学式式辞 ― かけ算の思考、割り算の思考 2004年04月08日

今日はわが学園グループの入学式だった(於:中野サンプラザ)。4校を代表して私が式辞を話したが、式辞というものは、卒業式にしても入学式にしても、終わった後の達成感が全くない。私は原稿もなしでしゃべり続ける方だが(今回は20分から30分しゃべり続けていたらしい)、しかし原稿はフルテキストでまず書き下ろす(しかし書き終えたのは今日の朝11:00だった)。そしてストーリーを頭の中にINPUTするために、MS-Wordのアウトラインモードでそのフルテキストを見ずに書き直す。それを何度か繰り返す。そうやってストーリーをたたき込む。

トークの場合は、「レベル1」(MS-Wordのアウトラインモード)の水準をたたき込めばほとんど大丈夫だが、それが本番ではたまに飛ぶ場合がある。きわめて平板なトークに終始する場合がある。今回はその失敗はなかったが、しかし失敗はなくても式辞というのはその形式性故に手応えがない。それがむなしい。以下は、そのフルテキストです。もちろん早稲田の総長の式辞(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=285)よりははるかにまともな式辞だと思いますが。

●みなさん入学おめでとうございます。お忙しい中お越しいただいた来賓の方々、保護者の方々、ありがとうございます。教職員も含め入学生諸君も多数の方に列席いただいて喜んでいると思います。

今日のこの入学式は、学校とみなさんの最初の出会いの場であると共に、最初の一コマ目の授業の場でもあります。校長の式辞はその最初のメッセージだと思って下さい。

みなさんは、ほとんどの方が、この学校を最後の学びの場として卒業されていくかと思います。学校で学ぶということは、いったいどういう意味なのでしょうか。世間では「生涯学習時代」などと言って、社会人であろうと学生であろうと、その垣根はないもののように思われていますが本当にそうなのでしょうか。

学生時代と社会人になってからの勉強の一番の違いは、〈必要〉かどうか、ということが最大の目安になります。

〈社会人〉になると、毎日毎日「必要な」勉強に迫られます。勉強しないと「上司」からは怒られるし、「仲間」にも迷惑をかけるし、「お客様」にも満足してもらえない、そんな「必要」から勉強をすることが日常的になります。言い換えれば、「生活がかかっている」勉強というもののほとんどはそういうものです。「必要」に迫られて他人との関係を無視できない勉強。これが社会人の学習の特質です。「必要」「必要」の連続を通常「経験を積む」といいます。経験を積みながら、その道の〈専門家〉になる。これが職業人の学習の傾向です。

それに反して、学校の勉強はそういった意味で特に誰かに迷惑をかけるというものではありません。赤点を取って卒業できないのなら、親に迷惑をかけることはあっても、ほとんどは自業自得という程度。自分(か家族)で責任をとればよいというものになります。いずれにしても内輪話にすぎません。

これは、学校教育の甘さ(自己満足的な甘さ)、のようにも見えますが、私はそうは思いません。

先月、企業人材マネジメントの「第一人者」と言われている人と会う機会がありました。その人は、こんなことを言っていました。企業の人材を配置する上で重要なことはその人が学んだ専門よりも少しずれた部署に(その人を)置くことだ、と彼は言っていました。

面白いことを言う人だな、と私は思いました。

たぶんその人が言いたいことはこういうことです。自分の専門で得意なことは自信があるからいつも同じ仕方で仕事をしてしまう。それは好きなことであっても同じです。自信がない、好きではない仕事に向かうときには色々と試行錯誤して新しいことを発見したりする。専門的な仕事には或る意味で“発見”がない。それに専門家は専門家であるが故に他人の言うことを聞かない。「素人」だと言って専門家がバカにするような発言や行動の中に新しい価値やマーケットが存在する可能性があるにもかかわらず、専門家は他人の言うことをきかない。

だから専門家には専門的な仕事を任せないほうがいい。専門とは少しずれた仕事をさせるところに本来の専門家活用の道がある。それがその人の言いたかったことなのだと思います。

i-modeを作った元リクルートの松永真理さんもパソコンなど全くできなかった人です。インターネットもやったことがない。携帯電話をもったこともない、そんな人でした。だからこそi-modeはパソコンを使えない人でもインターネットを使えるようになったのです。そして文明を変えるような爆発的なヒットを生み出しました。

これは従来の企業行動の反省でもあります。企業は利益を追求します。利益を追求するというのは、無駄を省き、合理性を追求するということです。一つのことに成功すると今度はそれをよりコストをかけずに実現する、より時間をかけずに短時間で実現する。

これは割り算をやり続けているわけです。たとえば、10のスケールをもっていた商品がヒットする。それをコストダウン、時間短縮で割っていく。しかしいくら割り続けたにしても10それ自体は変化しない。割り算して10が7になる。3の利益が上がる。また割り算して10が5になる。利益が5になる。そのようにどんどん10というスケールの城壁を作っていく。大きな企業というのは、このスケールが大きいため、ほとんど割り算だけで成り立っているとも言えます。〈ブランド〉というのは、その会社が割り算だけで済むようになった事態だと言ってもよい。そうやってどんどんその内部の専門家を生んでいきます。他のこと、城壁の外を考えなくなる。10自体(インターネット技術)を100(携帯電話)にしようと考えなくなる。専門家というのはいつも城壁の中で生じる人材のことを言います。〈新しいこと〉を考えなくなる人、壁の外で起こっている変化に目を向けない人と同じことを意味します。

「王様は裸だ」と言った子供がいました。王だけが錯覚していただけではなく、周りのおとなたちもまた、王様が華麗な衣装を身につけていると知ったかぶりをしていたわけです。企業で専門家が増えてくるというのは、知ったかぶりをしている“大人”だらけの会社になるということです。

さて、ここで「王様は裸だ」と誰が言うのでしょうか。誰がそういう役目を担っているのでしょうか。

毎日、毎日「必要」に追われて仕事をするということは、知ったかぶりの大人になるだけのことです。

学校教育の特長は、そういった「必要」とは無縁な勉強をするところにあります。エンジンの専門家になる前にサスペンションの勉強もします。設計やデザインの専門家になる前に地震に強い建物とはどんなものかという「構造」の勉強もします。データベースの専門家になる前にインターネットの勉強もします。実験の名手になる前にタンパク質の基礎理論を学びます。しかもこういった“前後”は学校においては順不同です。

こういったことを「お客様」にも媚びず、ましてや「上司」や「同僚」にも遠慮せず留保なく学ぶ、いわば純粋に、「王様は裸だ」といった子供のように勉強するのです。どれもこれもが横に並んだり、縦に並んだりしながら、けっして割り算にならない勉強をするところ、それが〈学校〉というところです。〈学校〉で学ぶということは、したがってかけ算で勉強するということです。城壁をたえず無限に外へ押し広げる、かけ算をして城壁を飛び越えていく、それが学校で学ぶということです。

最近のインターネット社会は、これまでの社会の10年を1年で実現するように進んでいます。〈変化〉が早いということがその特長です。昨日通用したことが今日は通用しない。みんなが見ていると思っているものが、大きな錯覚である。それが毎日のように起こっている、そんな時代にあなたがたは後2年、3年しない内に飛び込んでいく。

そうなると仕事が出来ることの要件は、まさに「王様は裸だ」と言える純粋性なわけです。専門的な仕事とは少しずれた仕事をさせる、という先の人材論の話も、まさにそのことを言っているわけです。

そういった純粋で無垢な勉強を徹底してやることが、生涯にわたって自分の仕事を活性化させていく原理です。そしてそういった膠着しない柔軟性のある勉強をするところが〈学校〉というところです。

学校で勉強しなかった人の特長は、

1)人から教わることしか学ばない(自分で学ぼうとしない)。 この種の人は、夕方5時過ぎになると仕事のことをまったく考えない。もちろん土日には頭の中は空っぽ。

2)見たものしか信じない。 この種の人は「幽霊を見た」という人と同じで「へぇー」と黙って聞くしかない話をする。会話にならない話が得意。知識が経験(ドグマ)に堕している。

3)権威に盲従する(有名なものしか信じない)。この種の人は、有名人の話には飛びつくが、隣の同僚が書くレポートは「長い」と言って読まない。

この3点です。どれもこれも、すでに存在しているものしか信じないという点で共通しています。要するに新しいものを自ら生み出せないのです。知ったかぶりをしているだけなのです。その原因は、学生時代に純粋な勉強、無垢な勉強をしなかったからです。時間や利益や社会性に関係のない勉強(純粋な驚きに発する勉強)というものがあるということに(学生時代に)出会わなかった人たちなのです。そういう人たちに限って歳をとってから教養書やビジネスノウハウ本(『世界』『文藝春秋』なども含めて)を読み始める。職場の休憩時間に単行本を読んでいたりもする。なんとさもしい“教養”でしょうか。

自分の一番得意なものを見つけることは大切なことです。すでにみなさんは、専門学校という具体的な職業をイメージできる学校を撰んだ。それはたしかに得意なものを勉強できるところです。しかし得意なものを活かすも殺すも、その一歩手前、その周辺の勉強の仕方次第です。そして一歩手前やその周辺をきちんと勉強する最後の段階が、この最後の学校教育の場なのです。社会人にはもはやそんなチャンスは与えられていません。30歳をすぎてMBAを取っても意味がないのです。ほとんどの場合、それは学歴コンプレックスの裏面にすぎません。単なる後悔なのです。

どうか、「学生時代、もっと勉強をしておけばよかった」なんて後悔しないようにしてください。最近の社会人は、さすがに知ったかぶりしている自分を自己嫌悪している人も多いようで学生になりたがっている人が増え始めています。しかしそれはもう遅い。「王様は裸だ」と言ったのは子供であったように、私がここで言う勉強は20代前後でもう終わりです。20才を超え始めると、恋人もでき、結婚し家庭を持ち、子供もでき、というようにだんだん他人のことを考えざるを得なくなっていく。それはすでに存在しているもの(=家族)を割り算で考えるようになっているのです。社会人になって歳を取るというのは、様々な「必要」にまみれ、もはや純粋に事柄に向かい合うことができないということです。親の元を離れる直前の年齢が純粋な勉強の出来る唯一の貴重な時間なのです。

学生時代にしっかりと(=純粋に、無垢に)勉強した人は、学校を卒業してからはもはや書物や学歴、そして教員や教授に頼ろうとはしません。その人たちにとっては、世の中そのもの、職場そのもの、仕事そのものがテキストだからです。いい年をして〈書物〉の中に、〈教育〉の中に、何らかの教えを見出すのではなく、日々の仕事や生活それ自体の中に課題を見出す純粋な能力が備わっているからです。「もっと勉強をしておけばよかった」は、したがって、後悔どころか、むしろ諸課題(と諸解決)からの逃亡を意味しているにすぎません。

これからみなさんが勉強するカリキュラムは、われわれが精魂を込めて作った「純粋な」カリキュラムであります。「必要」に面して決して摩耗しないカリキュラムの〈全体〉をしゃにむに学んでください。これからのあなたたちが、これからの職業人として、どんな既成の権威にも媚びずに自立的に仕事ができるように精魂込めて作ったものがわれわれのカリキュラムであります。

その意味で、こうやって新しいみなさん、純粋で無垢なみなさんを、今日の日に迎えることが出来ることを私は光栄に思います。〈学校〉教育のリーダーとして純粋で無垢なみなさんを迎えることを誇りに思っています。入学おめでとう。これをもって式辞に代えたいと思います(了)。

※ところで入学式が終わってまだ一時間も経っていない時間に、こんな「2チャンネル」記事が現れた。事務担当のY君が「のってますよ。早速」と教えてくれた。「2チャンネル」のゴシップネタにはいつも苦労しているが(私も時々登場するが)、くたくたに疲れていた私には、有り難い記事だった。

●名無し専門学校 :04/04/08 15:04

入学式行ってきた。

芦田宏直校長先生の祝辞には感動した。

一番得意でない事を仕事にすると新しいことが出来る。

企業での勉強は掘り下げるだけの割り算の勉強

ここでの勉強は横並びの掛け算の勉強

確りした横並びの勉強をしよう。

( … )掛け算が学べる芦田学園は最高だ。

よくもまあ、難しい話をこんな短文できれいにまとめてくれたものだ。これ、本当に学生だろうか? もし学生だったら、期末試験の点数にプラス10点をあげたい。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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