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 「社会人市場をいかに取り込むか」連載? 「e-ラーニング」の意味(2) 2003年10月12日

●リクルートカレッジマネジメント「社会人市場をいかに取り込むか」連載? 「e-ラーニング」の意味(2)

社会人教育と学生教育の一番大きな違いの一つは、学生教育は体系的だが、社会人教育は必ずしも体系的とは限らないということである。その意味は、社会人は主には仕事上の経験の必要から学ぶべき課題をあらかじめわかっている、ということである。したがって、場合によっては、その学習は、極めて部分的、断片的であったりもする(それゆえにこそ重要だというように)。一言で言えば、学生教育は受容的だが、社会人教育は目的的なのである。

だとすると、社会人教育を供給する側の課題ははっきりしている。まず、何が学べるかを明示すること。何が学べるかだけではなく、どの程度に学べるか(内容のレベル)、どういった方法で学ぶのか(学び方)、どれくらいの日程・時間で学べるのか(スケジュール)、そういったことが、学生教育よりははるかに正確に提示されていなければならない。

社会人教育が安定して広がらない最大の課題は、たとえシラバス(講座概要)が詳細化して提示されていても、実際に受講してみると無駄が多かった、難しすぎた、易しすぎたということはいくらでもある。テラハウスの場合も、それを避けるために一コマ単位(昼間の講座は一コマ90分、夜間の講座は一コマ2時間40分)で講義概要を作り、一コマ単位で講座選択(講座契約)ができるように細分化したカリキュラム体制を敷いてきた。しかし、それでさえも、まだ無駄な時間があるというのが実情だ。

目標が細分化された90分の講座(テラハウス昼間講座の一コマ分の授業時間)でさえも必要な知識と技術は「15分間だった」。まして2時間40分の講座(テラハウス夜間講座の一コマ分の授業時間)であれば、もっと無駄な(必要でない)内容は増えることになる。社会人学習が目的的、というのは、一講座の中にではなく、その中の一コマの時間の中にさえも無駄があるということを意味している。

そういった無駄は、しかも実際に講座を契約して実際に受講しなければ分からない無駄だ。「シラバス(講義概要)」からでは絶対に分からない。「シラバス(講義概要)」通りの講座を実際に正確に実行している場合でさえも生じる無駄なのである。

こういった無駄への不安感が、社会人教育市場が安定的に広がらない要因の一つをなしている。受講料も損する、時間も損する。社会人講座を受けた人の大半が、この失望感を持っている。

逆に目的的に学ぶ、というのは相当難しいことだということである。シラバスの厳密さや詳細度とは別のことだからだ。経験と目標のある社会人では、たとえエクセルの講座であれ、会計学の講座であれ、100人いれば、100の目的があると思った方がよい。

〈教室講座〉では、細分化は一コマ止まりだ。これ以上に細分化はできない。一方、〈フリータイムレッスン〉では、教材(コンテンツ)があらかじめメディア化(CD−ROM化、DVD化、サーバー化など)されているため、受講者が自分の学習目的に適う箇所を見出しやすい。しかしその分学習が個人的になり、教育の本来的な効果(教育の共同性:前回のカレッジマネジメント当該記事を参照のこと)が薄い。

要するに、〈教室講座〉では、メディア化されたコンテンツに伴う検索機能が働かないのだ。受講生同志の口コミだけが頼りというのが実情。これでは、教室講座にどんなに教育力があっても、あてにならない。それ自体が受講後の評価に過ぎないからだ。

この問題を解決するためには、教室講座自体をメディアに載せるしかない。メディア化の最大の利点は、「いつでも」、「どこでも」学べるということにあるのではなく、学びの必要な箇所が時間を超えて(時間に制限されることなく)見いだせることにある。テラハウスでは昨年の秋から、まず昼間講座の全300講座(300講座×90分)を、生きた授業のままビデオ収録した(講座のライブビデオ化)。

こうすると、「早送り」「巻き戻し」で、必要な箇所だけを集中的に学ぶことができる。知っているところは「早送り」、初めて学ぶところは「巻き戻し」。これらを繰り返すことによって、講座の(受講者にとっての)意味を確定することができる。これは、場合によっては教室講座受講のシミュレーションを行っていることにもなる。どんな受講カウンセリングよりも、“親身”で“正直”なカウンセリングである。これは、必要な講座だと思えば、実際に受講すればいい。ビデオ程度で済ませられる内容だと思えば、それで済ませればいい。いずれにしても教室受講の手前で“判断”が可能になったのである。

しかしビデオ化は、圧縮、短縮された形であれ、これもまた実際にテープを回さなければならないという意味では、教室授業に似ている。一度は、すべてに目を通さなければならないという意味では、やはり面倒な作業が伴う。結局、講座検索は、このやり方では,人間が人間的に行っていることになる。シラバス(講義概要)を読んでいる以上に詳細な仕方でではあるにしても。

次の段階は、この収録されたデータをデジタル化することである。テラハウスでは、富士ゼロックスの「メディアラボ」というアプリケーションを採用して(http://elearning.nikkei.co.jp/report/report004.cfm)、画像解析と音声検索が可能な状態にした。と同時に、ストリーミングデータ化も可能になった。これでインターネットに繋がったパソコンであれば、24時間いつでも受講できることになる。「いつでも、どこでも」の“ユビキタス”状態が可能になったのである。

もちろん、「いつでも、どこでも」が、このデジタル化の最大の目的なのではない。最大の目的は、検索性が格段に進展したということである。このデジタル化では、講師が講座の中で実際に話した言葉をフルテキストで検索できる。たとえば、「プログラミング」という言葉を検索語として指定すれば、全300講座(300講座×90分=27000分)の中で講師が「プログラミング」という言葉を使っている講座やそのシーンを取り出すことができる。“そこから”、講座を横断して受講することができる。全300講座を実際に受講しなくても、自分に必要な講座の内容を捜し出すことができる。これは、講座名やシラバスからでは、決して捜し得ない講座の特定の仕方だ。場合によっては全300講座を一講座にまとめ上げることもできるかもしれない。27000分を1時間で済ませることもできるかもしれない。インターネットで、世界をフルテキスト検索できるGOOGLEのようにして、講座を自分ふうに再編集できる可能性が開けたのである。

テラハウスの実際に開講されている300講座の中に、講師が話したキータームが何千、何万と潜んでいる。その体系化は、カリキュラムを作っているわれわれの立場からすると「講座名」の中に、「シラバス」の言葉の中に存在しているわけだが、しかし、それは場合によっては“一つの”体系化にすぎない。決して絶対的なものではない。別の人が見れば、もっと別の分節化があってもいいかもしれない。言い換えれば、その分節化は講座を提供するわれわれが行うものではなくて、受講者自身が決めるのが本来の形であるのかもしれない。経験や目的を有した社会人が受講生である場合には、講座の提供側が考えているよりははるかに多様な講座解釈が存在しうるのであって、その機会を与えるのが、このフルテキストデータベース化である。

たとえば従来のアナログ的な辞書検索は、インデックス検索だった。「織田信長」を知りたいと思えば、「お」の項目を辿って、「織田信長」に至るという検索の仕方だった。しかし、最近の辞書(事典)はすべてフルテキストデータベース化されている。「織田信長」と検索してすれば、「戦国時代」というインデックスの中にも、「豊臣秀吉」というインデックスの中にも「織田信長」は出てくる。そして、そういった派生情報の方が場合によっては、重要な場合もある。それを決めるのは、「織田信長」について何を知りたいのか、という調べ手の「目的」である。100人いれば、100人の目的があるようにして、講座群の意味は、100の目的によって、100の意味を持つようになる。そのようにして、講座の選択も、インデックス選択、つまり「講座名」や「シラバス」によって選択されるべきではなく、講座で実際に話されたフルテキストに従って選択されるべきなのである。「講座名」や「シラバス」からは、一見、関係ないかのように見える講座も講師が実際に話している内容から関心をもてることはいくらでもある。そもそもそれが「(教室で)受講する」ということの本来の意味だったのである。

講座をフルテキストで検索できるというのは、そういった教室受講のメリットを、実際の時間を経ることなしに享受できることを意味している。

e-ラーニングは、e-ラーニング用のコンテンツ形成がいつも取りざたされる。インタラクティブでなければならない、進捗管理が必要だ、成果評価がなければならない、というように。そのようにあれこれ議論している内に、コンテンツの内容が古くさくなって誰も使わない。むしろ、e-ラーニングの本質は、何よりもまず学習内容の検索性になければならない。すべての授業をメディア化し、自由自在に(横断的に)諸講座を再編成できる仕組みを作ることがもっとも実践的なe-ラーニングなのである。

e-ラーニングが成功しないのは、e-ラーニング専用のコンテンツを前提にした作り方にあったのである。よくよく考えれば、〈学校〉というところはコンテンツの固まりである。実際に毎日開講されている授業が、本来のコンテンツでなければならない。

なぜそんな当たり前のことに注意が行かなかったかと言えば、大学も専門学校も一つ一つの授業を計画通りに遂行することをやってこなかったからである。授業の中に突然カメラが入り込んでも、それが何の授業だかわからない授業を長年続けてきた。なんとなくシラバスに書かれているようなことをやっているな、とまでは見当が付くが、“この90分の”授業の意味は定かではない、というような授業をダラダラとやってきた。コンテンツはあるが、それをそのままメディア化しても、“商品”にはならないような杜撰な授業計画(=授業実行)が続いてきたのである。だから、“商品”化(=外部化、公開化)を前提にしたe -ラーニングコンテンツについて、授業自体のe-ラーニング化は俎上に上らなかった。いつも別枠扱いだったのである。

しかし、それは本末転倒だ。むしろ授業を厳密に計画化、実行化することが大切なことなのである。テラハウスが90分単位で講義概要を公開し、90分単位で契約(=売買)できる(受講できる)講座体制を敷いたことは、もともとから、教室にカメラ(外部からの目)を持ち込むことに耐えうる講座体制だったことを意味している。そういったコマ単位に信頼感のある講座運営が、メディア化のメリットを直に享受できる体制の基礎になっている。

現在の高等教育機関が、豊富で貴重な教育を日々実践しているにもかかわらず、それをフル公開できないのは、計画通りの授業ができていない、シラバスが教授たちの“作文”にすぎないことに最大の要因がある。“外部”の目に耐えられない授業だったからである。だから、e-ラーニングは、きわめて人工的なものになり、その人工性によって誰にも近づけないものになっていたのである。e-ラーニングが凝りに凝ったものになりがちなのは、教授たちの日ごろの授業がいかに杜撰なものであるかを自証している。

だから、まず高等教育の関係者は、自分たちの日々の教育実践をコマ単位(=90分単位)に厳密化することを目指すべきである。そうすれば、それはライブであると共に授業データベースにもなり、“公開”の基盤にもなりうる。公開の手前では、学生の予習復習の(=補習の)基盤になる。“一粒で二度おいしい”コンテンツの宝庫が高等教育の本来のあり方だったはずなのである。それを先行的に実験したのがテラハウスのコマシラバス(一時間毎のシラバス)体制だった。現にそれは多くの社会人の共感を得たのである。「自己点検・評価」や「第三者評価」のもっとも実践的な形態は、講座の社会人開放なのである。

テラハウスの母体である東京工科専門学校では、テラハウスの社会人教育の開始後3年経って(1999年)、専門課程のカリキュラム自体もコマ単位のシラバスを作り始め、現在、計画通りの授業の実行体制を形成しつつある。ここ数年のうちに、専門課程の主立った授業をビデオ収録し、ストリーミング公開できる体制(全講座のビデオサーバー化=フルテキストデータベース体制)ができるはずである。そうなっていけば、社会人教育と専門課程教育とは融合過程に入る。社会人教育と専門課程との違いは、大きくは講座管理の違いに過ぎなかったからである。専門課程(高等教育)の講座管理が杜撰すぎたのである。そういった反省のない教育関係者がe-ラーニングや社会人教育を陳腐なものにし続けている。

社会人教育と学生教育は、質的に異なる、ともっともそうにどこででも何度も言われてきたが、それは、以下の2点で間違っている。一つは、学生教育をこれからも杜撰なままに放置するつもりなのか、という反問とともに。もう一つは、授業のフルテキストデータベース化(ビデオサーバー化)が、社会人も含めた多様な受講生を産出する可能性を看過しているという点で。どちらも高等教育の新しい、避けられない課題と可能性を担っている。(この号:了)

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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