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 キムタクの人気と信仰について 2002年01月27日

キムタクは、どうも気にくわない。先週、8chの「スマスマ」の稲垣吾郎復帰を見ていたが、キムタクはどうも気にくわない。たしかにきれいな顔をしていると思うが、“かっこよさ”というものが、他人の視線の中でしか形成されていない。彼の人となりのよさもよく耳にするが、それも、そう振る舞うのがかっこいいというイメージを実際に振る舞っているだけのことだ。実際にそうするのが難しいという意味ではほめられることかもしれないが、かっこよさの内容そのものは通俗的だ。

私がキムタクがいいと思った最初で最後は、『あすなろ白書』 http://www.ponycanyon.co.jp/shop/tv/mon/p10205.html の取手治クン役の演技だった。このときは、他人の視線を気にしない(脚本をよく理解した)むき出しの取り組みがあった。

 こういった、他人に見られること、他人の表象に合わせることは、人気者(アイドル、芸能人)の条件なのだろうが、そういった人たちも、何年か経つと“自分自身”を見出したり、その“自分自身”を認めてくれるファンを見出したりし始める。もっとも前者と後者との区別を截然とするのは難しいことだが。

 他人に見られることを存在の条件とするという意味では、ほとんどの宗教がそうだ。この場合、他人とは〈神〉のことである。神様は何でも見ていらっしゃるのよ、とクリスチャンの母親が娘に教えたら、神様ってエッチな人ね、と娘が答えるエピソードを伝えていたのは、ニーチエだ。その通り、クリスチャンはみんなエッチなのである。神なしにはセックスすらできない(というより神への不倫なしにはクリスチャンのセックスは存在しない)。キルケゴール(クリスチャンの“実存”主義者)の言う「不安」なんて、神が見ている中の宗教的「不安」にすぎない。しかし、本当の不安や孤独は、神さえも見ていないという(自分は世界の、あるいは世界を超えたも誰からも見られていないという)不安、孤独だろう。宗教者の不安なんてたかがしれている。キムタクの人気がたかがしれているように、宗教者(信仰者)はすべて三流の芸能人にすぎないのである。その意味で、信仰者とは、一人になれない者のことを言う。あるいは厳密に言い換えれば、一人になるために神の(もう一人の他人の)力を借りる者のことをいうのである。

 もちろん、本当の不安、孤独は、自分が本当に一人でしかないことに気づくことの中にしかない。自己というものがあるとすれば、それは単独で(社会的にでもなく、宗教的にでもなく)自分に向かうことの中にしかない。

 会社の仕事でも、人が見ていないと仕事をしない人は、管理職になれない。社長が見ていないと仕事をしない人は、会社を大きくできない。マスコミが見ていないと会社を大きくできない人は、“社会”や“世界”を変えることができない。云々。こういった拡大の契機は、実は、すべて孤独や不安の契機である。〈経営者〉や〈リーダー〉が真に孤独「である」ことが、こういった拡大の諸段階を決めている。あなたは、孤独に仕事をしていますか?

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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