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 世界史とは何か? 2001年04月22日

本格的に理論的な意味での「世界史」という概念が成立したのは、19世紀中葉、ヘーゲルという哲学者を待ってのことです。

 

「世界史」と単純に言いますが、この言葉は、対立した二つの概念から成り立っています。ひとつは、〈世界〉という空間概念。ひとつは、〈歴史〉という時間概念。〈世界史〉は、空間と時間が融合した、あるいは時間と空間を統一的に考え得る立場が登場したとき、はじめて、可能になったわけです。

 猿から人間が進化論的に展開したということは、進化論の言うように単に時間的なことでしょうか。猿が進化して人間が誕生したにもかかわらず、猿は、現在でも存在している。ということは、先祖という時間概念は、現に存在してもいるという意味で、空間に転化してもいるということです。つまり人間も(その人間の過去の)猿も同時に並存して空間的に(現在に)存在している。これはどういうことだろうか、とヘーゲルは考えたわけです。

 結局、それは、人間の中に、猿的な人間と非猿的な(=人間的な)人間が存在するということ、あるいは猿の中に、人間的な猿と非人間的な(=猿的な)猿が存在するということと同じことだ、とヘーゲルは考えました。

 〈われわれ〉が、上野動物園で、猿を見るとき、同時に〈われわれ〉は、人間に似た猿を見ているわけです。あるいは同時に人間の中に、猿に似た人間を見ているわけです。つまり、この“似る”というのは単なる比喩ではないということです。人間の方でも、猿の方でも人間対猿、猿対人間という分割が行われているのですから、この関係性は、人間は猿「である」、猿は人間「である」ということです。所詮、人間から見た他者(猿)だから、それは人間的な他者だ、人間的に変質された他者だということではなくて、他者の中にも人間的な他者と他者的な他者が分割されているのですから、人間は人間「である」、他者は他者「である」というその規定そのものの中に、他者や人間が入り込んでいるということです。つまり、猿にとどまらず犬に似た人や猫に似た人、魚に似た人や鳥に似た人をよく見かけますが、彼ら(彼女ら)は、実際に犬や猫、魚や鳥「である」のです。それが、犬や猫、魚や鳥と並んで人間が〈世界〉(の〈中〉)に「ある」ことの意味です。

 これを個人(私)のレベルで考えれば、私の現在(空間)には、いろいろな他者が並存していますが、それらは、中学時代の私であったり、大学時代の私であったりもするわけです。あるいは、テラハウスICAにかかわる前の私でもあるわけです。たとえば、テラハウスICAに関わる前の私というのは、社会人教育、リカレント教育、学校教育以後の職業教育、パソコン・IT革命などというものについて知らない、関心のない私であったと言えるかもしれない。それは、今現在、テラハウスに来て学ぼうとする(テラハウスの〈外〉の)受講者と同じ立場であるわけです。現在の私とその他者である受講生との関係は、私の(私の現在の)、私の過去に対する関係でもあるわけです。私の時系列(=時間)は、私の現在における他者の実在そのもの(=空間)でもあるわけです。私が他者と対話が〈できる〉ということは、私の想起でもあるのです。テラハウスICAがマーケットに受け入れられるかどうかは、私がカリキュラムを作るときに、現在の私を(私の過去に向かって)否定できるかどうかに関わっています。どんな(現在における、現在の他者との、あるいは現在のマーケットに対する)対話も過去への自己対話であり、この自己対話の中に〈世界〉が存在しています。つまり、私の〈現在〉は〈世界史〉なのです。〈世界〉とは、私が自らの過去を解釈する、その仕方であるわけです。それが〈世界史〉の意味です。

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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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