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217 re(19):エイリアン、あるいはUFOの存在について |
2001/1/10(水)02:32 - 芦田 - 27084 hit(s)
MASASHI> ヒット数を見ると明らかにかなりの人たちが、この「芦田の毎日」を見ています。
MASASHI> しかし、発言する人はそのうちの僅かです。
MASASHI> しかも、発言する人のほとんどが“あぁ、そうですねー、芦田さん”的です。
MASASHI>
MASASHI> 私みたいな人を大事にしないと、
MASASHI> 結局みなさん“あぁ、そうですねー、芦田さん”的ノリになってしまってます。
MASASHI> しかし、それでいいんでしょうか?
MASASHI> 相づちすることが理解していることとは言えません。
そのとおり。私はしたがって、あなたの相づちを認めませんでした。私は、この「芦田の毎日」でなんらかの“合意”や“反対意見”を集めようとしたわけではありません。ましてやそれらを組織しようとしたわけではありません。
“合意”や“反対意見”なんて、本当に存在しているのでしょうか?
あなたの言うように、「相づちすることが理解していることは言えません」。現にあなたの「相づち」がそうだったわけですから。同じように“反対意見”を本人が述べているつもりでも“合意”している場合もいくらでもあります。
したがって、意見や思想というものについて、説得する、納得させる、合意を得る、相手の立場を斟酌するといったコミュニケーションの諸次元はほとんどアクシデンタルな出来事に過ぎません。
一つの思想にとって、誰が語ったか、何人が同意し、何人が反対したかなどということはどうでもいいものなのです。エイリアンやUFOのことを論じている時には、そのことそのものについてしゃべりつづければいいだけのことで、合意や反対という人間と人間との関係は、何の意味もありません。なぜ、あなたは、急に事柄を論じることをやめて、「それは芦田の意見」というように話を相対化するのですか、そのときに「芦田の」という形容をつけることは何かの限定を意味するのですか。もし限定を意味するとすれば、そういうことがいったいどんな限定を意味するのですか? 話は振り出しに戻ります。つまり、「芦田は何を言ったのか」と。つまり、芦田ではなくて、芦田が話したことについて集中すべき(集中しつづけるべき)なのです。現に私はあなたの意見に集中しつづけました。あなたに、ではなくて、あなたの意見に集中しつづけました。つまり人間など問題ではないのです。
私の30代の仕事はほとんどその問題についやされていました。その総決算である『書物の時間』(行路社・1989)の後書きには次のように書いていました。
●累積について(『書物の時間』後書きより)
(1)同意の現在高
自分が当然のことだと思っていることでも、他人にとってはそうではないことがある。感情的なこと、価値に関すること、あるいは経験的なことについては、そういうことは、日常的にありふれたことであるにしても、だからといって理性的なことでは、それが例外的なことだとは言いきれない。むしろ、経験的な類いのことについては、初めから他人の趣向や、環境と合わせること(一致させること)など諦めきっているところがあるから、かえって、他人と違うことが問題になることなどないのである。
しかし、仮に理性が、あるいは理性と言われているものが、感情や価値や経験性と区別されるところが、後者の相対的な性格を脱するところにあるとすれば、理性的なことについて「他人にとってはそうではない」という事情は放置できることではないであろうし、なかなかあきらめきれるものではない。
ひとは、「証明」「論証」「妥当性」などという理性の言葉が、対立の和解のためというよりも、その対立の組織化のために用いられもすることをよく知っている。
むろん、このことは、「そうではない」他人を説得することの問題、「説得の技術」にかかわる問題に横滑りさせるべきではない。理性的な事情は、だれにでも、それとして理解されることであるはずなのに(自分と違って)「他人にとってはそうではない」ということは、理性的なことが、承認(納得)を待って初めてそれであるということではないだろう。個人が、或る事柄を承認するかしないかは、どのように事柄の内容を制限しようとも ― たとえば、ここまでは理性、ここからは感情、またここまでは事実、ここからは価値というふうに ― 心理的な問題に帰趨するはずである。個体的(身体を有した)個人ということでいえば、ひとは、心の底では承認していても「否」と言うことができるし、またわかっていなくても、わかったふりをすることができるからである。
そして、そういったそぶりを「真である」とか「偽りである」というふうに判断する材料それ自身が経験的に相対的な性格を帯びざるをえないことははっきりしている。ヘーゲルは、承認とは「承認の承認」であるとすでに言っている。承認ということの心理主義的な解釈を彼は退けているわけだし、フッサールが「表現」の、「指標」に絡みつく相対性を払拭しようとしているのも、「表現」の「純粋」性から「伝達的なレーデ」を排除するためのことである。
それゆえ、「他人にとってはそうではない」ということ、そういう事実が、― ロゴスとしての理性にかかわる西洋哲学史そのものが、たとえば、カントにとってそうであるものがヘーゲルにとってはそうではないというふうに区別されも(理性的区別とでも言うべきなのだろうか)してきたのである ― どのような留保付きであれば認められる場合、それは心理的な不満として、言いかえれば、理性的であるならば(いつかは)一致するはずだという期待の独言として語られるべきではないのである。
はっきりしていることは、理性が経験的な相対性を脱するということは、諸個人の同意(一致)をいみするものではないということである。哲学史が仮に理性の歩みとして理性史 ― もっとも理性に歩みというようなものがあるかどうかはさだかではないが ― であるとすれば、ひとりの哲学者は、時代の、その種の同意に反してまでも生まれでてきたのである。それは周知のことである。
結果的に、支持されてきた哲学者たちの王道としての理性史を語ることはできるかもしれないが、つまり、同意なしにとは言え、なお一人でも多くの支持者なしには、それが理性的であるということの伝承――同意といういみでは理性の存在とは、理性を伝えること、あるいは伝える可能性そのものであるだろうから――は問題にならなかったであろうといういみでの、王道としての歴史について語ることはできるだろうが、しかし、そのこと自体が同意の現在高にすぎないことは明らかである。
その種の歴史性(歴史的な蓄積)は、〈理性〉がわざわざ介入しなくてもいつでも自然に逆転しうる、つまり自然に増大しうるし、自然に衰退しうるものなのである。
だからこそ、ヘーゲルは〈歴史〉という概念を〈現在〉という概念の別名として、つまり拡大された現在として読みかえざるをえない。ハイデガーが「思索の歴史を思索的に経験した唯一の思想家はヘーゲルである」(『アナクシマンドロスの言葉』)というのは、自然的な蓄積とは別の仕方で、ヘーゲルが〈現在〉の或る種の拡張に寄与したからである。そして、ハイデガー自身の「初期・後期」を巡るかの「ケーレ」論は、この〈現前性〉の概念のプロブレマティクに属している。
ところで、たったひとりの、自分だけが自分の支持者にすぎないことが、世界を魅了する天文学的な支持量となって現れることの始まりであるかもしれないし、そしてその時点こそが、現在であるかもしれないことをだれも拒むことはできない。むろんこのことは憶測であり、経験的な憶測である。憶測ということで言えば、たったひとりの自分だけでの支持に終わった無数の世界性(世界的な普遍性)が、世界史のあちこちに埋もれているかもしれないということも、拒みえない憶測のもう一つである。
こういったことは、理性的なものには同意(同意的な一致)が必要だとする場合には、理性的に確定できない。それは背理である。同意的な理性といういみで言えば、すでになんらかの仕方で支持されているものだけが理性的であるだとうからである。しかし、この「すでに」ということがどこまでいっても、やはり経験的な現在高を示す時間性でしかないのは明らかである。(『書物の時間』あとがきより)。
MASASHIさん、私の本の後書きはまだまだ続きますが、あなたのシャノン的なコミュニケーション理論はほとんど意味をなしません。その間違いを指摘するためなら、私の本の後書きのこの一部分だけで充分です。
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┣【217】 re(19):エイリアン、あるいはUFOの存在について 2001/1/10(水)02:32 芦田 (7011) |
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