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142 re(4):ジョージクルーニ・デンゼルワシントン・ジュリアロバーツ |
2000/12/13(水)00:54 - 芦田 - 25305 hit(s)
私の高校時代の同級生で、東京の大学を卒業して地方公務員になり、地元の市役所の社会体育課に配属されて、部落問題に取り組むことになった人がいます。高校時代まともに部落問題に取り組んだこともないくせに、この間、同窓会であったら、私に部落問題とは何かを(「差別はいけない」などと言いながら)切々と語り続けていました。何をいまさらと思って聞き流していました。
この彼にとっての「社会体育課」とあなたの「アメリカ」(アメリカ体験)とは全く同質のものです。こんな奴の「差別はいけない」を信じてはいけないのと同じように「ザ・ハリケーン」を見て、「差別はいけない」と思ったり、わざわざアメリカまで行かなければ、「日々の何でもない生活の中に」差別が存在することに気づかない自分をこそ反省すべきです。
「例えば、 “「ザ・ハリケーン」ってつまらなかったね?”などとは、パブリックの場で下手には言えません」とあなたは言います。言えないということは、「ザ・ハリケーン」についてあなたは批評する資格(能力)がないということです。逆にそういった歴史的事実を背後(前提)にして、なおかつ「Mr.ハリケーン」まで動員しなければ、その映画の圧倒性を表現できないような映画は映画としては三流だということです。要するに映画とは別の要素を加味しなければ何も言えないような映画は映画ではないのです。
あなたの135番の発言で「来年、公開の『パールハーバー』…。 日本人がどのようなカタチで描かれているか不安です。『パトリオット』のイギリス人のように、悪者になってなければいいなぁと…。ちょっと、ここ(アメリカ)で見に行くのが恐い感じもします。 日本人がどのようなカタチで描かれているか不安です」というのがあります。
MASASHIさん、あなたはいつから日本人の代表になったのですか。日本にいるときは、ただの日本人、つまり〈日本〉を無意識に受容しているにすぎない日本人であったのに、アメリカ(外国)へいくと、まるで日本人を代表するかのように「禅」について、「空手」について、「無宗教」について、「漢字」について答えなければならなくなる。同じように黒人差別に全く無関心であったのに、その差別のアメリカにおける日常性に驚いて、なんて自分は無頓着であったのか、と“反省”する。その自己反省ですめばいいものを挙げ句の果てに、自分の無研鑽を棚に上げて、“日本人は”なんて無頓着な、になってしまう。これは思想的な悲惨というものです。
私の専門の分野は、みんなドイツ(やフランス)へ留学します。フライブルクやハイデルブルクの大学のあこがれの研究者(教授)に会いに行くわけです。自分が学んだヘーゲルやハイデガーについての見識を世界的なレベルで検証してみたい、世界的な水準までブラッシュアップしたい。それが留学の動機です。しかし、大概のドイツの教授たちは、「日本人であるあなたはなぜヘーゲルをやってるんですか、ハイデガーをやっているんですか」と聞いてきます。この問いは、文化や伝統も深い日本からわざわざヨーロッパへ来てドイツ哲学を研究をする意味を教えてほしい、という批判的な(シニカルな)問いです。逆に言えば、ドイツ語もまともにしゃべれない極東の研究者に、ヘーゲルやハイデガーがわかってたまるか、という気持ちも幾分働いています。それならば、西田(幾多郎)について教えてほしい、禅(鈴木大拙)について教えてほしい、というのが、彼らドイツ人の素直な気持ちです。
逆にヨーロッパの哲学者が日本に来るときもそうです。私は、15年ほど前にフランス人のJ・デリダ(ポストモダンの“国際的な”思想家)が来日したとき、10日間ほど昼夜同行しました。彼は箸の持ち方が大変うまい。日本食も大好き。10日間ずーっと純日本食。もういやになって、デリダと離れてやっと10日後、“王将の餃子”屋へ飛び込んだときの安堵は忘れられません(デリダには何の恨みもありませんが)。日本人にとって、日本食はもうすでに他者なのです。
極東の日本人研究者にとっては、〈国際性〉とは、“国際的な”ヘーゲルやハイデガーについて、ヨーロッパの言葉で留保なくコミュニケーションすることであるわけですが、むしろ日本文化や日本思想についての研鑽こそが、〈国際性〉であることに遅れて気づくわけです。
そうやって、その研究者がドイツ語に堪能な場合には、ドイツの教授に対する日本文化の紹介者にならざるをえないため、比較文化論か日本文化研究者に“転向”します。あるいは、遅れてきた西田研究者になるわけです。日本の哲学研究の程度もたかがしれているといえます。むろん、こういった相対的な外国―母国論が底の浅いものであることは目に見えています。
どうか、MASASHIさん、たかだか数年のアメリカ体験で、アメリカ通ぶったり、日本通ぶらないで下さい。今時の“国際”時代、そういう“通”は捨てるくらいいます。それは、「社会体育課」の地方公務員が決まって「差別はいけない」と「差別問題」通になるのと同じことです。
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