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146 re(6):ジョージクルーニ・デンゼルワシントン・ジュリアロバーツ |
2000/12/13(水)23:38 - 芦田 - 26477 hit(s)
MASASHI> 日本通ぶるな!
MASASHI> アメリカ通ぶるな!
MASASHI>
MASASHI> 結局、日本人でもなければアメリカ人でもない中途半端なところに置かれてしまう。
MASASHI> きっと、今、こうして説明していても、多くの人は、理解できない。
私は、あなたのことを「理解できない」などと言っているのではありません。異国のアメリカに行っても誰でもが理解できそうなことしか(おみやげ話程度のことしか)言わないあなたのことをダメだといっているのです。
あなたは、自分が思っているほど孤立なんかしていません。4〜5年程度アメリカにいれば、誰でもそういうことぐらいは言うだろう、ということをひたすら凡庸に語っているだけです。つまりあなたは圧倒的な多数派なのです。
MASASHI> そこに、本当に、身を置かなければ、経験できないことがあるんです。
MASASHI> あなたが道を歩いている時、誰かが誰かに銃を突きつけているところを見たことがありますか?
あなたの「経験」というのはこの程度ですか。こんな話ししたくありませんが、私は、他人が目の前で殺される恐怖感どころか、自分が殺されそうになったことが(何度か、この“平和”な日本で)あります。家族を含めて覚悟をしておけといったこともあります(この「芦田の毎日」でさえ災い多いことを書きまくっているのですから、それは想像に難くないことでしょう)。
わざわざ、アメリカまで行かなければ(あるいはわざわざアメリカ映画を見なければ)、そういった「日常」における〈亀裂〉や〈死〉を感じられない、というのはどういうことでしょうか。もちろん、私は、「経験」の優劣を競うつもりは全くありません。もともと優劣のないものが「経験」「体験」というものです。
MASASHI> あなたに、"ボストンってどんな街ですか?"と誰かが尋ねたら、
MASASHI> きっと、あなたは沢山の文学、歴史、芸術的説明ができるでしょう。
MASASHI> でも、あなたは、ボストンの夏の海辺の匂いを知らない。
MASASHI> 独立記念日のお祭り騒ぎを知らない。
MASASHI> あなたに、"スタンフォードってどんな大学ですか?"と誰かが尋ねたら、
MASASHI> きっと、あなたは沢山の文学、歴史、芸術的説明ができるでしょう。
MASASHI> でも、あなたは、スタンフォード大学内の売店を知らない。
MASASHI> 大学内のカフェテリアのコーヒーの味を知らない。
MASASHI> あなたに、"モニュメントバリーってどんなところですか?"と誰かが尋ねたら、
MASASHI> きっと、あなたは沢山の文学、歴史、芸術的説明ができるでしょう。
MASASHI> でも、あなたは、そこの朝日を知らない。
MASASHI> ナバホブレッドのおいしさを知らない。
この水準の「知らない」は、人の数だけ、一日、一秒単位であります。今日、私がテラハウスに到着するまでに起こったことをあなたは「知らない」。同じように、あなたが今日何をして過ごしたかを私は「知らない」。それだけのことです。
「体験」は、人の数だけ違います。したがって「体験」上「知った」ことを「知識」というのなら、すべての人間の「知識」は同じだけあるのです。何も私の「知識」を「尊敬」する必要はありません。その意味でなら、ガングロで遊びまくっている渋谷の女子高校生たちの「知識」も、アメリカ体験でのあなたの「知識」も、そして私の「知識」も量的にも質的にもみな同じです。
あなたの言う「知識」については、生きている人であるかぎり、みんな同じだけの知識量をもっています。あなたの言う体験上の知識に優劣や特権性などないのです。
MASASHI> 勘違いして頂きたくない。
MASASHI> 私は、アメリカ通ではありません。
MASASHI> アメリカには、まだ私の知らないことが沢山あります。
MASASHI> そして、世界には、もっと。
MASASHI> "自分の知らないことが世界には沢山ある"そう思えることが、国際化です。
なるほど、あなたは学んだわけです。そのことを私は否定するつもりは全くありません。私が言いたいのは、わざわざアメリカへ行かなければ、"自分の知らないことが世界には沢山ある"ということを言えない(理解できない)、あなたの思想的な感受性についてだったわけです。
MASASHIさん、あなたは「赤信号は止まれだ」ということを〈学んだ〉ことがありますよね。そのことを確認するためにわざわざ車にひかれたことがありますか。そういうことをしないでも赤信号で止まることができるのが、《人間》の研鑽というものです。
MASASHI> "たまたま、日本に生まれただけだ"そう思えることが、国際化です。
ここはまったく間違っています。こんなことを言っているから、「日本人でもなければアメリカ人でもない中途半端なところに置かれてしまう」のです。たった4〜5年の海外体験で、「日本人」や「アメリカ人」を相対化できると思っているのが思い上がりなのです。国際化というのは、相対化(=比較文化論)とは縁もゆかりもないものです。
"たまたま、日本に生まれただけだ"というのは、たしかに論理的にはそうですが、これは重い偶然です。
人間には様々な受動性(偶然性)が存在していますが、生まれる、という受動性がその中では最大のものでしょう。赤ちゃんが「オギャー」と叫ぶのは、偶然性の重荷に耐えきれない叫びなわけです。たぶん大人になるというのは(大人が「オギャー」と叫ばないのは)、そういった受動性をある種の必然性でもって受け止め直すという作業なのです。
たとえば、この父でよかったんだ、この母でよかったんだ、そして日本人でよかったんだ(同じように黒人でよかったんだ)と考えられるかどうかです。これは父、母、日本(あるいはアメリカ)を肯定する(好きだ)とか否定する(イヤだ)とかを超えた(大人の)認識です。
ものを考える(大人になる)、ということの最大の課題は自分にふりかかる偶然性をどう受け止めるかにかかわっています。「経験」主義は、個別的な差異に紛れてこの普遍的な課題を隠蔽してしまうのです。
MASASHIさん、大人になりなさい。私が言いたいのはそれだけのことです。
ところで、マットディモンの『グッドウイルハンティング』、私も好きな映画の一つです。
ただし、ロビンウイリアムスは大嫌いです。正義面している奴にろくなやつはいません。
あの映画でいいのは、マットディモン演じる主人公が〈大人〉になって、家を巣立っていったとき、それまでの“悪友”がその家に立ち寄って、彼がいないことを知って、“これでよかったんだ”という感じで薄笑いを浮かべながら「いない」と言って、ラストシーンにつながっていく、あそこが感動的でした。あの映画は、あのラストシーンのためだけにあるのです。教師と幼稚な天才との師弟愛にあるのではなくて、〈知識〉を超えた友達のための、そして〈大人〉になるための映画なのです。
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