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88 re(1):情報化社会とローン社会と終末論と |
2000/11/16(木)16:26 - 芦田 - 14741 hit(s)
選択性の増大というのは、自己が肥大化するということと同じことを意味しています。自己が肥大するというのは、どういうことか?
たとえば、多チャンネルでインタラクティブなTV時代(CS放送やBSデジタル放送など)を迎えたということは、まさにチャンネルの選択性が増大したということです。
しかし多チャンネル時代というのは、たくさんの番組が見られるということではありません(この点がよく誤解されています)。多チャンネルということで、選択する主体の可能性が広く広がったような気にさせますが、そうではありません。多チャンネルになるということの本質は、人は見たくないものを見ないですむようになったということだけのことです。たとえばリモコン操作によって、見たくないシーンがでてくるとすぐにチャンネルを変えてしまう、という状況を考えれば、それはすぐにわかります。テレビ操作のリモコン化も、たくさんのチャンネルを見る可能性を広げたというよりは、見たくないものを見ないですむようになったというだけのことなのです。
携帯電話もそうです。携帯電話で「いつでもだれとでも」連絡が取れることによって、他人との出会いが広がっているわけではなく、すでに特定化された個人との出会いが緊密になっているだけ、つまり話したくない人とは話さないだけのことだということです。
選択性の増大 ― それを私たちは〈自由〉と呼んだりもしてきたわけですが ― における自己の肥大というのは、したがって、何をやってもただただ自己を再認することの反復だということです。つまり、選択性の増大は、知見の増大や経験の増大を意味しない。むしろ選択性は、自己を無菌化しながら、衰退させるということです。
知見を広げるという意味では、チャンネルを変えるためにこたつからでるのがいやで我慢して見ていたテレビ番組の方がよほど適しているわけです。知見や経験を広げるというのは、現状の自己を〈否定〉するものに出会うということを意味しているわけですから、極端にいえば嫌いなテレビ番組をみることの方が意味があるわけです。情報化における情報量の拡大は、その意味で〈自己〉を貧弱化させるものでしかない。情報は多いが、自己を再認する情報でしかなく、情報化が拡大すればするほど、自己は(ひ弱に)縮小していく。選択的な「私」の増大はむしろ再認的な「私」の縮小を意味しているのです。
そのように、選択性の増大は主体性(=私)を強化するように見えますが、〈否定〉的なものを回避する仕方で、〈私〉が衰弱していくということ。はて、さて、〈私〉はどこへ。
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┣【88】 re(1):情報化社会とローン社会と終末論と 2000/11/16(木)16:26 芦田 (2153) |
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