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87 re(9):情報化社会とローン社会と終末論と |
2000/11/13(月)21:57 - 芦田 - 15072 hit(s)
ところで、「ニーズ」や「共感」に基づくマーケティングが、なぜ生じてしまうのか?
それは、「個人の(としての)自由」を求めてきた「近代化」が、自由になったとたん自己を失ってしまう、という背理を背負うことになったからです。
かつて、丸山真男は、極端な自由主義は、専制主義と同じだといったことがありました。生まれ育ちに偏りがあるからこそ、われわれは、安心してコミュニティ(「国家」「地域」「集団」「友人」などの)を形成している、つまり数々の先入観とともに、われわれのコミュニティが成立しているのであって、もし、そういった先入観のない(先入観を持てない)丸裸の人間が露呈するような社会は、お互いにお互いが監視しあう(たえずゼロから認識を築しなければならない)警察国家になってしまうだろう、というのが(たしか)丸山の言いたいことだった(『現代政治における思想と行動』:私が18歳の時に読んだ本でうろ覚えだが、しかし政治学の話をこんなにおもしろく書ける人は当時も今でもいないと思う)。
丸山の言いたいことは、たとえば今日で言えば、公開メール(たとえば、この「芦田の毎日」のような)でやりとりするコミュニティを想定すればすぐに理解できることだ。そこでは内容そのものが丸裸で露呈するという環境が存在している。記名も根拠がない、どこの誰ともわからない、まして所属もわからない、つまり「自由な主体」=「近代的な自由」が実現している。そこでは、しかし「誰だ、この人は?」という警察的な視線がたえず注がれ続けている。自由であるとともに専制的であるわけだ。
というより、近代において、国民教育(教育の大衆化)が発生したということは、人が個人として自由になる分、警察的なスペキュレーションの必要性がともに生じたと言える。人々が〈思考〉を持ち始めたということは、人々が、自由になり始めたということと同じ現象だったのである。要するに、帰属性の形態が猜疑心(=近代的な思考力)にとってかわったのである。
それが、〈再認〉という事態である。自由である分、「僕って誰?」「あなたって誰?」という問いかけを経由してはじめて、自他の関係ができあがるというものだ。
そうやって、ものを買ったり、消費したりするプロセスが反復的に増強される。『DIME』や『モノマガジン』といった(カタログの集積か批評か)わけのわからない雑誌が存在したりするのも、自らの買おうとしているもののコミュニティ(自らの帰属性)を再認するためのものだ。「潜在/顕在」や「共感」といった同じ事態を二重化するマーケティングが登場する。そうやって、モノを買うことにおいて、共同体を、そして自己を再生化しているのである。モノを買う消費の主体が実体的に存在しているのではなくて、モノを買うことによって自己を後追い(=再認)しているのである。
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