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75 re(6):情報化社会とローン社会と終末論と |
2000/11/10(金)13:33 - 芦田 - 15340 hit(s)
「潜在的ニーズ」というのも、商品が売れてから(あとから)生じるているものです。
たとえば、「ウォークマン」なんて最初売れるわけがないと思われていました。それ以前(今から約20年前)は、「テープ」メディアは「テープレコーダー」という概念しかなく(つまり音を録音するということにしか関心がなく)、録音できない再生専用のメディアに関心は全くなかったのです。新しいモノ好きの私もさすがに(最初)買いませんでした(何でも発売日に買うのが私の悪趣味なのですが)。ソニー内部でも賛成したのは社長の盛田だけだったといわれています。またカップヌードルのアメリカ進出もアメリカでかなり念入りにテストマーケティングを行い、結果、アメリカ進出は意味がない(成功しない)、との調査結果を得た社長は、「そうか、それでは進出しましょう」と決断したと伝えられています(どこまで本当かどうかは別にして)。
しかし、両者の「ニーズ」は今では歴然としています。どちらも、潜在的ニーズすら予想がつかない状態で出発したのです。売れてから(売れた後で)、そういった「潜在的ニーズ」があった(ニーズが顕在化した)、というわけです。「ニーズ」はいつでも過去形です。
アサヒビールや日立の静御前(洗濯機)でも、マーケティングの成功例のように語られていますが、神戸大の石井淳三が『マーケティングの神話』で明らかにしたように(この左翼崩れの学者は『マーケティングの神話』でシャープな論陣をはりましたが、最近の『ブランド』(岩波新書)で、結果論を整理するだけの従来のマーケティング論者になりさがりました)、それらの開発過程はジグザグで、成功した後に脈絡がたどられているだけだということです。
後から見れば、どんな試行錯誤も一本道です。それは、人の人生に似ています。たとえば、黒柳徹子は、『窓際のトットちゃん』というベストセラーの“自伝”の中で自らの就学時代の、むちゃくちゃないたずらをして育った様子をあけすけに語っています。そして、そういった自由な気風が今の自分を作ったということが言いたいのでしょう。こういうことが自伝(他人様の前)で書けるには、ひとつの前提が必要です。それは、今の自分を肯定しているということです。今の自分は自他共に認められている存在だということです。だから、欠点も美化されるのです(つまり「自伝」を書いたとき、その人の人生=成長は終わったということです)。それは数学でノーベル賞をもらった人が「自分はむかし算数の成績はさんざんだった」と言えるのと同じです。あるいは、(野球選手の)落合は生まれたとき(物心つかない頃から)からバットを握っていた、と「母の談話」がもっともそうに伝えられるのと同じです。
それらは、〈結果〉の方から(=あとから)たどられる〈原因〉です。そして“失敗”は、成功したときにしか語られないものなのです。誰が、失敗した人の失敗話を聞くでしょうか。
そうやって、数々の「潜在」性が作られていくのです。黒柳徹子の今は、自由な気風の学校の中に「潜在」していたとかいうふうに。
もちろん、こんなものは幻想です。もっときちんとした教育を受けていれば、黒柳徹子は、もっとまともなタレントになっていたかもしれません。つまり、こういった幻想の物語が真剣に語られうるのは(そういった人の話を真剣に聞く人がいるのは)、その人やその商品の現在の威力や勢力を肯定しているときにだけなのです。黒柳や落合の今を否定している人にとっては、何の意味も持ちません。
それは、どういうことか。要するにマーケティングというのは根本的に保守的なもの(現状肯定的)だということです。それは、マーケティング関係者が有名人や有名なものばかりにすり寄っていくプロセスを見ていればわかります。つまり、彼らを信じて商品開発をする企業に〈新しい〉ものは作れないということです。
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