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321 re(6):続続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない。 |
2001/3/26(月)00:57 - 芦田 - 13840 hit(s)
この議論は、少しすれ違っています。私の言う会話や対話の「傾斜」というのは、身体の露呈ということと同じことを意味しています。人は不快な場所へ足を踏み入れたりはしません。「ソクラテス」の活躍した“場所”(ギリシャ語で「アゴラ」:公共広場と通常訳されています)もそれ自体階級的な場所でした(あなたの言う「ソクラテス」は、特には初期のプラトンの作品の中でしか実在していません)。
たとえば、MASASHIは、「芦田の毎日」297番で「気にしません」と「返信」しました。これは限りなく話体に近い「返信」です。つまり身体が露呈しているわけです。人間はどんな迷妄の中にあっても、“生きる”ことができます。生きていられます。正しい、真理だ、意味がある、といった次元とは別に身体の次元というものが二重に存在していて、〈身体〉がある限り、人間は“迷妄の自由”の中に身を置くことができるといってもいいと思います(もちろん、私はこの「迷妄」という言葉にどんな道徳的なニュアンスも込めていません)。つまり、身体を介在させざるをえない会話(対話、対談)のすべては、迷妄の共同体、自己肯定の共同体、身体の共同体、そして同意の共同体の中にあるといってよいと思います。簡単に言えば、(もとから)いやな奴にわざわざ会いに行く人はいない、ということです。あるいはいやな人だな、と(本当に)思っている人と会話(対話、対談)を続ける人はいないということです。すべての会話(対話、対談)は、すでに身体的に選択された結果なのです。これが私の言う会話の「傾斜」です。あなたの受ける「カウンセリング」もまた“先生と患者”という関係によって作られた会話(傾斜した会話)、作られた沈黙(傾斜した沈黙)なのです(もちろん、だからといって、私の言う沈黙は、本当の沈黙だと言うつもりはまったくありません。“本当の沈黙”などというものはもとから実在しないものです。ただ私は、あなたのようには「現代人の心的世界」を「歪んでいる」というように避難する気はまったくありません)。
情報化社会における情報の特質は、私的な情報化という点にあります。情報化による選択性の増大、たとえば、CS放送における多チャンネル化は、たくさんのチャンネルが見られるという意味での多チャンネル化ではなく、自分の好きなチャンネルを見るための多チャンネル化にすぎないわけです。テレビもリモコン操作によって、秒単位でチャンネルを選択していますが、それはたくさんのチャンネルを見るためではなく、見たくないものは見ないという排外主義によってのことです。つまり情報化は、自己を(他者へ向かって)拡大するのではなく、ひたすら自己を肯定するための情報化でしかないわけです。同じように携帯電話も知っている人との対話(あるいはまったく知らない人との偶然な出会いと偶然な離別)を強化しているだけです。つまり、これらの情報化はMASASHIの「気にしません」という話体的で身体的な自己逃亡を助長しているだけなのです。
したがって、あなたの命題(「問題は、現代人が、“対話”を行えないほどに忙しい、という点にあります」)は、むしろ逆転させるべきなのです。現代人が忙しいのは、「対話」をおこなうが故なのであって、その逆ではありません。
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┣【321】 re(6):続続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない。 2001/3/26(月)00:57 芦田 (2711) |
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