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314 re(5):続続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない。 |
2001/3/24(土)12:20 - きゅう - 13837 hit(s)
読みにくい文で申し訳ありません。が、脳の構造自体が雑然としている事が原因で、こうした文章が生まれて来ているので、我慢して読んで頂くしかありません。申し訳ありませんが、ご辛抱下さい。
また、風邪により、しばらく頭が正常に動かず、遅れてしまったこともご容赦ください。“考える”という行為は、“身体”に深くかかわった行為ですので。
それにしても、先生の返信を読むと、禅宗の修行僧が、師から問答を受けている、そんな気分にさせられますね。
対話という言葉に、もう少し説明が必要でしょう。
階級的だから、傾斜を流れていくだけ、という指摘は、現代のコミュニケーション事情をじつに端的に表している言葉です。
だが、ソクラテスの行った意味での“対話”には、そもそも傾斜などは存在していなかったのではないでしょうか。
彼の行った“対話”にあって、時間は流れていなかった。彼の行う“対話”は、常に時間の制約を外れていた。
対話によって、相手を詰まらせる。すると、相手の中に流れる時間が、止まる。そこから、相手は“考える”時間の中に押し込まれる。つまり、ソクラテス的な意味での“対話”は、相手の中に流れ去る時間を止め、根源的な“沈黙”へと、相手をいざなう効果を内に含んでいるのです。
そうした意味において、“対話”は“会話”と違い、時間に、まして立場に制約されず、“沈黙”の中を手探りで進ませる、つまり“考え”させるコミュニケーション手段と言えると思います。
無論、現代にあって行われているのは、圧倒的に、先生の言われるような“同意”を前提とした、“傾斜”に追われて“ため”もなく流れ去るものばかりです。が、それは現代人の特徴的な傾向の一部をあらわしているに過ぎません。
先生の中に響いた“対話”という私の言葉は、私の中では“対談”という言葉が、最も当てはまる言葉です。先生の言われる“階級”が、そこでは必然的な前提として存在します。そして言葉が、つまりは時間が、流れ行くのです。
そうではなく、“対話”という言葉に私が設定しているのは、“沈黙”を前提として話されるカタチの会話です。
ところで、私はこの返信を、紙に書くことによってまとめています。それは、言葉を変えて言えば、書くことなしにはまとめられない、ということであり、話す事、あるいは、一人考える事によっては(本当には)まとめる事ができない、ということを意味します。
つまり、私は返信を書くことによって、“書く”という行為の重要さを再認識させられたのです。
といって、だから“話す”ことは意味のない事だ、というのは愚かな事です。それは、“書く”ことの持つ重要さは、“夜のプラットホーム”の沈黙の時間の重要さを否定するものではないのと同様の事だからです。
この掲示板で、先生と私が交わしているコミュニケーションを、話す事ではできない、とは思えません。
問題は、現代人が、“対話”を行えないほどに忙しい、という点にあります。
それほどまでに、沈黙を忌む、現代人の心的状況には歪みがある、ということなのです。
そんな状況にある人間には、“沈黙”は禁忌の一つに数えられてしまうのです。
考える事のない人間の末路には、“滅び”が口を開けて待っているのです。
そうなる前に、“立ち止ま”らなければなりません。
“同意”が前提とされているもの以外は対話ではない、という現状は、それゆえにまともに話す事が出来なくなった、ということを意味する事なのです。
ソクラテスが行った“対話”は、現代には見当たらなくなってしまったというだけの話なのです。
人間が、真理に対してのみ“同意”するようなコミュニケーション環境が、消え失せてしまったということなのです。
それが、どうすれば現代に成立しうるか、という問いには答えを持ち合わせてはおりませんが、成立しえた時代があった、ということだけは、はっきりと言えるでしょう。
真理が存在する、と信じえた時代には、存在しえたのです。
言うまでもなく、私は書くことの重要性を否定しているのではありません。逆です。書く事がいかに重要な事であるか、再認識させられたのです。
自らの論の整合性を保つためのは、よっぽどの天才でない限り、書くことなくしては成しえないのですから。
また、“身体”がやがては朽ちていく定めにあるのと同様、“記憶”もやがては忘却の淵へとフェイドアウトするのが、一般でしょうから。
私が言いたいのは、現代人が強迫的に“同意”を求めており、それゆえに“対話”が成り立つ条件が、決定的に失われている、ということ(のよう)です。それほどまでに、現代人の心的世界は歪んでいる、ということなのです。
会話というのは、おっしゃるように傾斜しており、単なる自己肯定に終始します。が、それは、現代人が、自己を肯定せずには生きられない、という傾向を、病的なまでに強く持っているという現実と深いつながりがあるのです。
ルーズソックスやガングロが流行る時代、それが現代なのです。
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