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439 re(4):〈生〉〈社会〉〈世界〉〈自己〉〈時間〉、さて? |
2001/10/14(日)19:42 - 芦田宏直 - 18295 hit(s)
伊地知勝美> またまた質問します。よろしくお願いします。
伊地知勝美>
伊地知勝美>
伊地知勝美> つまり、
伊地知勝美>
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、はじめようと思う瞬間が、始まり。生。
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、進もうとすることが、生きている。
伊地知勝美> 自分が社会の中にいて、立ち止まろうと思った瞬間が、終わり。死。
伊地知勝美>
伊地知勝美> ということですか?
伊地知勝美>
まず、「社会」は存在しないということ、まして「社会の中」なんて存在しないということ。まして、まして、「社会の中」で何かが始まったり、何かが終わったりすることなんてありえないということ。そして、「社会の中」に「自分」が存在することなどありえないということ。そして、そして、「始まり」や「終わり」という概念は、意志(あるいは現在、あるいは思想)が介在しない限り、存在しない概念だということ。
伊地知勝美> 社会のなかでは
伊地知勝美> 生物学的な生と死や、
伊地知勝美> 個人的な感情の起伏は
伊地知勝美> 意味がないことなんですか?
伊地知勝美>
「生物学的な生と死」「個人的な感情の起伏」なんてものは、存在しない。それは〈生〉そのものであるという意味で、存在したりしない。それは在るように在る(始まりも終わりもない)という意味で、存在しない。存在しないという意味で、「意味がない」。
伊地知勝美> 芦田先生と以前よく話題になった、
伊地知勝美> <個人><他者><世界>と<社会>はどう違うのですか。
伊地知勝美> <人間>の<フレームワーク>が<社会>なんですか。
伊地知勝美>
その問題は、私の論文「フレーム問題と世界 ― 人工知能・哲学・ハイデガー」http://www.terahouse-ica.ac.jp/staff/ashida03.htmの全体を参照してください。
その中で、私は次のように言っていました。(ほんの)一部を抜粋します。
人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからといって、死を避けることができるわけではない。また自殺をしたからといって、それは人がコーヒーを飲んだというふうに、或ることの行為者になるわけではない。人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(コーヒーを飲むことが完了した後も生きていなければならない)が、死後の時間を生きるわけにはいかないからである。それは“生きる”という語の乱用にすぎない。
死後の世界を語る人間は、死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。つまり死は、世界「の中に」存在しない。「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない」(ヴィトゲンシュタイン)。つまり、人間は自分の力で死ぬことができない。
しかし自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。おそらく、どんなに個性的なことであっても、それと同じ個性を持つ他人は存在しうるだろう。つまり、その個性は代理され得るだろう。しかし死ぬことだけは、私の死であり得る。私は「一人で」死んでいくのである。逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が、代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が私の死であることからきている。〈私〉が存在することと〈死〉が存在することとは同じことである。しかし、そのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことなのである。つまり、私の〈根拠〉としての私の死は、私にとって常に「非力な(ニヒティッヒ)」根拠、「有限な(エントリッヒ)」根拠でしかない。
私は私の死であるが、しかし私は(ヴィトゲンシュタインが「人は死を体験しない」といった意味で)死ねない。とすれば、私は私ではない。私とは私の他者である。世界「の中で」一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。
というより、世界という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠(「非力な根拠」)である。なるほど、世界は私の世界ではない。世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。私が「その中にいる」世界は、私が「いない」世界(私の死)と同じものなのである。しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)であることの意味である。レヴィナスは、ハイデガーの「死への存在」をレヴィナスの言う「死ねないことの恐怖」(イリヤ)に対立させているが、それはハイデガーにとって同じことを意味しているのである。私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは「外部」(ヴィトゲンシュタイン)である ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部であることからきている。
私の死が世界の中で起こる「出来事」でないのは、そのためである。私の死は、世界の境界で生じる。厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は境界そのもの、世界そのものなのである。人間が驚いたり、無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。それというのも、人間の死が世界を時-間化する可能性そのものであるからである。ヴィトゲンシュタインが〈私〉と〈世界〉の問題を類比的に語るのとは別にハイデガーはこの問題を時間性のなかで統一的に解釈しようとしたのである ― むろん類比の根拠を考えるというのは危険な企てではあるにしても。(「フレーム問題と世界 ― 人工知能・哲学・ハイデガー」後半結部より)
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┣【439】 re(4):〈生〉〈社会〉〈世界〉〈自己〉〈時間〉、さて? 2001/10/14(日)19:42 芦田宏直 (5019) |
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