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241 re(2):今、京都駅にいます。
2001/1/22(月)02:38 - 芦田 - 4841 hit(s)


私は、女性をとんでもない存在だと考えています。妊娠と出産という出来事を経験しうるという意味でとんでもない存在だと考えています。女性は男性を生むことができます。ということは、〈性〉は既にそこで〈対〉ではないということです。男性を生むことができる女性という性を超えた性を分母にして、女性/男性という対ができあがっている。すでにそこで男性と女性は“平等”ではない。

「男の子は、幼児のとき病気になりがちだ、幼児のときは女性の方が育てやすい」と言ったりもします(イチヒメニタロウ)。これはたぶん女性(男児にとっては異性の)である母親から生まれた男児の生態的免疫的不安定性でしょう。胎児の状態でも、最初はすべて女児だったという報告(専門的には「イヴ原則」と言われたりしています)がなされていることからもそれは明らかです。これを生む側から言うと、出産は、一つの超越です。宗教や哲学もある種の超越を主題にしていますが、女性が男性を生むこと、生みうることほど端的な超越はあり得ないじゃないですか。女性のみが他者を許容しうるのです(だから男が女を理解することなんてありえないのです)。そして、究極の他者は、自らの死だということです。少しでも男より後に死ぬことができる、そのように死を許容できるのが女性だということです。むろん、これは勝手な期待でしょう。そんな勝手なことを期待されても困る、ということも(個人としての女性の側からは)あるでしょう。私は、それを個人として否定する気は全くないですよ。

なお、この妊娠と出産とをめぐる性差の問題に関しては、「芦田の毎日」55番に一部言及した箇所があります。その55番を抜粋しておきます。

女性の“問題”(女性の社会的進出という問題)は、根本的には、妊娠と出産に関して自らの身体を介在させるかどうかどうかという問題に絡んでいます。もちろん、妊娠と出産は、男性と女性との根本的差異を形成しています。

たぶん、「女性差別」と言われているものは、妊娠と出産という機能が女性の身体から解放されたときにすべて消滅するでしょう。仕事上の差別は、女性の妊娠(いつ妊娠するかわからない=いつ、誰を愛することになるのかわからない愛の本姓)という雇用不安定要素から来ていると言えなくもありません。会社の中で重要な仕事が与えられるということは、その人にしかできない仕事を与えられるということと同じです。その人がいなければ仕事が進まないという状態に置かれるのが“重要な”仕事につくことの意味です。したがって、妊娠や出産(による長期休暇)というのは、経営者の側からみれば、雇用上の不安定要因にしか見えないのです。この長期休暇が通常の長期休暇と根本的に異なるのは、単純な計画的休暇ではないからです。いつ人を好きになるかわからないし、いつまでも延期できるものでもない。どうしても“自然的な”要素を排除できない。そのうえ、妊娠や出産は人権中の人権ですから、そんなものを(経済原則的な会社ごときが)否定することなどできるわけがありません。よほど大きな会社でもないかぎり(あるいはよほど余人をもって代え難い能力を有していない限り)、妊娠や出産という〈自然〉を乗り越えることは不可能なのです。それ以外に経営者が女性を差別する理由などありえないのです。

女性にだけ適齢期があるのも、妊娠の適齢期という生理的な要因から来ているし、男性の性的な積極性も、男性には妊娠の恐怖がないことが最大の理由です。

これは、女性差別の生理的要因説に私が立つことを意味していません(大概のフェミニズムは、社会的歴史的要因を挙げたがりますが)。むしろ妊娠と出産が社会的なものの起源なのですから(あるいは生理中の生理なのですから)、すべての社会や歴史のあり方は、妊娠や出産(という女性の身体性)をどう解釈するかにかかわってできてきたものだと言ってもよいのです。

しかし試験管ベイビーはもはや夢の技術ではないし、出産の代理もすでに行われている。人工子宮の開発も夢ではありません。こういった女性の身体から妊娠と出産を解放する技術や社会性が育ちはじめると、従来の“女性差別”は、たぶん解体するのです。“女性差別”がなくなるということは、女性(女性/男性)がなくなるということです。もちろん、情報化によるSOHOの進展などは、女性と高齢者の社会参加を加速させるでしょう。

もはや自立的な個人しか存在しない。性的な差異は存在しない。したがって家族も存在しない。自立した個人の自由な連合しか存在しない。子どもはイスラエルのキブツのように最初から社会的な存在であって、社会的にのみ(性的な両親によってではなく)育成されうる。これは、〈近代的なもの〉の極限のイメージであるような気がします。そして、近代的な社会運動のすべては、〈技術〉の問題でしかなかったということです。その意味で、フェミニズムは、単なる科学反動でしかなかったのです(昨今で言えば、エコロジー思想がそうであるように)。

さてしかし、あの東京ドームの男同士の親子の寂しさ(「芦田の毎日」49番で言及した)は、個人として自立化していない、その自立性のなんらかの欠如状態なのでしょうか。家族における寂しさは、個人の自立性と天秤に掛けることができるのでしょうか。
(「芦田の毎日」55番より)


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