〔前の画面〕
〔クリックポイント〕 〔最新の一覧〕
〔全て読んだことにする〕〔全て読んだことにして終了〕 〔終了〕
2001/4/23(月)00:03 - 芦田宏直 - 36703 hit(s)
あなたの質問は、最初から、自分は人間「である」、動物は動物「である」という前提に立っています。それは、あなたの自分の大学は「三流である」という断定と同じくらいに通俗的です。
もう一度おなじことを繰り返しますが、人間〈対〉動物というのは、あなたが考えるほど自明ですか? もっと別の言い方をしましょうか。世の中にはバカなひととバカでない人がいるというのは本当だと思いますか? でも、もし世の中にはバカなひととバカでない人がいるということが本当のことなら、世の中にバカな人はいなくなるはずです。だれも好んでバカでありたいとは思っていないのですから、みんなバカでない人を目指しているという意味で、彗星のオッポのように、バカな人はいなくなるはずです(バカの進化論)。しかしにもかかわらず、どこにいても、どこまでいってもバカな人はいます。
これはどういうことでしょうか。たぶん、バカな(あるいはバカでない)人の中で〈分割〉が起きているのです。バカな人の〈中〉でバカな人とバカでない人との分割が起こっているのです。つまり、バカな人もその日常の中で「バカだなあ、おまえ」とか、「あいつはすごいよ」なんて、言い続けているのです(それは、猿の〈中〉で、猿に似た猿と人間に似た猿がいるのと同じです)。だから、間違った人を尊敬している人、間違った人を目標にしている人を「バカな人」と呼んだ方がより正確なのです。だから、永遠に、バカな人とバカでない人との垣根を超えることはできません。簡単に「間違った人」と書きましたが、そんなことを言っても、そう思えないのが“間違う”ということの意味ですから、ほとんど絶望的な分割がそこで起こっているのです。バカとかバカでないとかは、認識の問題ではなくて、存在の問題だということです。もっとも、この絶望性は、暗い、倫理的な絶望性ではありません。そうやって、世の中にはバカな人とバカでない人とが(平和に)共存しているのです。そのように、猿と人間も時系列的でありながら、共存しています。〈世界〉、そして〈世界史〉とはそういうものです。
そして、最も重要なことは、自らがバカな人であるのか、バカな人でないのかを決定する自明な基準などどこにもないということです。バカの〈中〉での、あるいは、非バカの〈中〉での、バカだ、とかバカでないとかの分割の中に、当初の線引き(バカ/非バカ)のすべてが存在しているということです(あるいはあなたの言う「三流の大学」か三流の大学「でない」かの)。結局、自らがバカであるか、バカでないかは、偶然なことです。これが、〈現在〉が〈世界史〉であることの意味です。
〔ツリー構成〕
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
┣【344】 re(6):世界史とは何か? 2001/4/23(月)00:03 芦田宏直 (2198) |
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
〔前の画面〕
〔クリックポイント〕 〔最新の一覧〕
〔全て読んだことにする〕〔全て読んだことにして終了〕 〔終了〕
※ 『クリックポイント』とは一覧上から読み始めた地点を指し、ツリー上の記事を巡回しても、その位置に戻ることができます.