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255 re(1):追悼・永坂田津子
2001/1/27(土)15:55 - 芦田 - 6568 hit(s)


今から、お通夜に行って来ます。なぜか、私だけの「お別れの言葉」でお通夜を終わるそうです。青土社の社長が急遽出られなくなったということで、大任を仰せつかりました。でもどうしましょう。とりあえず、原稿は書きましたが、書きながら涙が出てきて止まりませんでした。家内にその涙を隠すのが大変で。無事読み上げられるか心配です。

お別れの言葉

 山田先生、外は雪化粧です。メアリー・カーの『うそつきくらぶ』の翻訳がやっと完成したと大喜びで電話されてきたのが、私との最後でした。いつも遅筆で、鶴が羽を一枚一枚むしり取るように、ひとつひとつ言葉をえらびながら作業される先生にしては、すこし出来が速すぎる仕事だな、と心配していました。今日の雪化粧も、そういった先生の、生死をかけた言葉との格闘のあとをうっすらと隠すかのようです。

 私が先生とはじめてお会いしたのは、早稲田の学部時代の英語の授業でのこと。高校での英語の講読にあきあきしていた私には先生の授業はとても新鮮でした。この先生は、本当に〈言葉〉が好きなんだということが、京都の田舎から出てきた学生の私でも手に取るようにわかりました。私が、英語を好きになったのも、〈言葉〉に命を吹き込むかのように、そして〈言葉〉に命を読み込むかのように、まるで言葉で酔ったように振る舞う先生の授業以来のことです。ロレンスやエリオットの講読を進める先生の授業は、散文を解析すると言うよりは、一つの歌のようなものだったのです。それは、今この会場に来ている、先生の授業を受けてきた多くの学生たちの一致した印象でしょう。そういえば、先生は、本当にお酒を飲んだときには、よく踊りはじめる癖がありました。私は、なんどそれに付き合わされたことか。酒が飲めない私にはそれが一番の苦痛でした。

 なによりも先生は、弟子思いの先生でした。雑誌『群像』で連載されていた柄谷行人氏の「マルクスその可能性の中心」に衝撃を受けながら東京に出てきた私を柄谷氏に直接会わせてくださったのも先生です。しかも当時ではまだ手書きの私の卒論の「へーグル論」を柄谷氏に読ませて、市ヶ谷のルノアールで柄谷氏と話せたときのことは今でもよくおぼえています。「柄谷が他人の生原稿読むなんて、そんなにあることじゃないわよ」と私をおだてるのがうまい山田先生。

当時私は、京都に帰るか、大学院に進学して東京にとどまるか思い悩んでいました。自分に仕事に自信がなかったのです。柄谷が「よくできている」と言ってれたことが、その後の私の創作の大きなモチベーションの一つになっていました。もちろんこの柄谷の言葉の背後には山田先生の配慮があったのでしょう。そうやって、山田先生は、私を三枝和子氏、蟻二郎氏など、私にとっては雲の上のような人たちと次々と会わせてくれました。山田先生の交友関係の豊かさは、圧倒的でした。20代30代の審美社時代からの精力的な活動力がそうさせていたのでしょう。

大学院進学を決めたのは、その頃でした。私の人生の方向性は、ここで大きく一歩を踏み出したのです。山田先生の陰に陽にの配慮がなければ、私の今は全く考えられません。

そうやって、山田先生の暖かい配慮の中で、人生の転機を救われた学生はたくさんいると思います。雪の今日にもかかわらず多くの弟子達がここに集まっています。何よりも自分の創作を優先させる先生でしたが、そしてそういったエゴイズムがかわいくも見える先生でしたが、ときには、そんなことまでしなくてもいいのにとおもえるほどに世話好きの先生でもあったのです。

そして、何よりも先生は一生現役でした。身体(からだ)が悪いことを承知の上で引き受けられた「うそつきくらぶ」の翻訳。私が「やめたほうがいい」と言っても聞いてはくれませんでした。今年の一月に入ってからもやっと戻って来られた自宅マンションの日当たりのいい南向きの和室の部屋で、「隅田川をテーマにして詩を書きたい」などと言われたりしていた先生。長女の千果さんによれば、最後の一週間は「はやすぎる」「はやすぎる」という言葉の繰り返しだったそうです。「痛み止めの薬の濃度をうすめてほしい」と付添人に千果さんが頼まなければならないほどだったそうです。痛みを犠牲にしてでも意識を覚醒させて、きちんとしゃべらせたいと千果さんは思ったのでしょう。千果さんの気持ちも複雑だったと思います。〈言葉〉を大切にした山田先生らしい、山田先生のご家族らしい最後の闘病と最後の看病だったと思います。

まだやり残した仕事は多かったと思います。というよりやりたい仕事や創作がいっぱいあったのだと思います。最後まで引き際など、先生の頭の中には全くなかったのです。このお通夜やお別れ会の会場の選定や設定もすべて先生ご自身の指示だと聞いていまが、それは先生が自らの人生や仕事をあきらめたのではなく、先生の、ある種の、永続革命に向かっての美学であったのでしょう。

先生、お別れです。先生のお仕事の仕方は、ご自身の死のみがピリオドを打つことができるというほどに壮烈なものでした。やっと言うことを聞いてくれましたね。私は内心ほっとしています。悲しくはありません。死は、最大の共通言語、最も力のある言語です。私にも必ず訪れます。しばしの別れです。昨年は、ジャックデリダを日本にはじめて紹介した高橋允昭先生が亡くなりました。私も山田先生も早稲田の同窓として親しく頼っていた先生です。きっと休む間もなく、高橋先生と仕事の続きの話しをされているでしょう。私の悪口について2人で盛り上がっているかもしれません。

では山田先生、これで、本当にお別れです。どちらにしてもまた天国で私にヘーゲルやハイデガーやデリダの話を、私の大好きなネギトロまきを用意しながら、させるに決まっているのですから、ここではこのくらいにしておきます。私も先生に少しでもお役に立てるよう、思想的な体力を充分蓄えてからそちらへ行きますから、今しばらくはゆっくりと休んでおいてください。

2001年1月27日
弟子を代表して
芦田宏直




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