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2001/3/24(土)12:22 - きゅう - 13752 hit(s)
カウンセリングの話は、先生のおっしゃっている事は必ずしも正しくないと、経験上、判断します。
ただし、先生のカウンセリングの知識が何を媒介にしたものなのか私が知らない以上、確信をもって言えることではありませんが。
そもそも、私がカウンセリングの話を、明確な定義の含まれる状態で使わなかった事が、あるいは、その言葉自体を使った事が間違いだったようにも思いますが、話のひとつの点がここにあるので、私なりの考えを書いておきます。
カウンセリングについて先生が書かれている事は、必ずしも正しい事とは思えません。もしその記述の当てはまる症例があったとしても、全体からみれば少数の症例だと思います。カウンセリングがもたらすもっとも大きな効果は、自問自答を引き出す事による、認識に生じる変化なのです。
自問自答、と書きましたが、その空間には他人が同席しているわけであるので、言葉の定義からするとおかしなことになりますが、もたらされる結果は、自問自答のもたらすものと同一なのです。
ひと(特に病む人)は“考える”だけでは十分ではないのです。といって、紙への記述が必要だ、というのでもありません。そうではなく、“他人”の中に言葉を記述していく事により、“言葉”を“社会化”する必要がある、ということなのです。“社会”の中に、自分の“言葉”を投げ出す事により、その言葉への責任を負うこと、それがカウンセリングが目指すところなのです。
私が“他者”と呼んだのは、自分の内側に芽生えた“言葉”を、一人相撲から開放するために必要な存在のことなのです。
カウンセリングにおいて、人は自分の発した“言葉”が果たして正しかったのか?という疑問に、常にまとわりつかれるようになります。そしてそれにより、自分自身の“言葉”を、立ち止まって反芻するようになるのです。カウンセリングという場は、“沈黙”に満たされたところなのです。
つまり、ある種の“プラットホーム”が、そこに現出するのです。
カウンセリングによって、病む者は沈黙の時間を押し付けられるのです。
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