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324 re(2):生活苦とは何か?
2001/4/5(木)00:09 - 芦田宏直 - 13107 hit(s)


人は必ず死にますが、誰も自分が死ぬとは思っていません。いつか死ぬと思っているだけです。したがって、死ぬという不可避性(不可避中の不可避性)は、無関心性や偶然性に必ず転化するのです。人は死ぬことを忘れているからこそ、死ぬことができます。死ぬ用意などできるはずがないのです。というのも死ぬ用意をしている時にも死にうるからです。

たとえば、〈自殺〉は本当に自殺でしょうか。高層ビルから、遺書を残して靴をそろえて飛び降りた人は、本当に自殺したのでしょうか。飛び降りる途中で、後悔することはなかったのでしょうか。しかし落ちる途中で後悔しても死ぬしかありません。後悔したとすれば、それは自殺ではなくて事故死です。ガス栓をひねった後のようにガス栓に向けて手先が伸びて、遺書を机の上に置いて死んでいる人は本当に自殺したのでしょうか。意識が薄れていく途中で、もう一言あの人に言い残しておきたいと思って、ガス栓を止めようとおもったときには息絶えてあとすこしでガス栓をひねり直せた手先の姿だとすれば、それは自殺ではなくて事故死です。もっともこういったことはそう〈である〉ことを証明できません。

しかしはっきりしていることは、自殺の〈途中〉の後悔が生じる可能性を根絶することはできないということです。なぜ、根絶できないのか。それは、自殺という意識とその完遂との間にはかならず時間が介在するからです。私たち人間は、(自殺をしようと)思ったとたんに死ねるわけではありません。意識と存在との乖離の根拠は死と存在との差異にあります。したがって、乖離が大きい死に方ほど後悔が介在する余地(危険性)がおおきくなります。たとえば、意識的に一番楽な死に方である睡眠薬自殺などは死に至るまで時間がかかるため、後悔する可能性や、人に発見される可能性(死ねない“危険性”)が高いわけです。それとは反対にピストルで頭をぶち抜くという瞬時に死ねる方法は、かなり意識にきつい負担(“勇気”)を強います。しかも脳がちりぢりばらばらになっても意識が瞬時にゼロになるかどうかなお不安も残ります。たぶん生理学的には、脳がちりぢりバラバラになっても意識が瞬時にゼロになることなどないでしょう。いずれにしても死ぬということは、点のような瞬間ではないのです。死ぬのには時間がかかるのです。というのも時間の根拠が死であるからです。

結局、自殺(意識的に死ぬということ)などできない。もちろん結果的に多くの自殺者は、後悔せず死んでいるのでしょう。しかしそれは結果的に後悔しなかっただけのことであって、必然的に後悔しなかった訳ではありません。つまりかれらは偶然に自殺できただけのことです。もちろん、偶然な自殺を自殺と呼ぶのはおかしいわけです。つまりは自殺は存在しないということです。

その意味で、死とは永遠の延期です。誰も自分の死を死んだ者などいないのです。あるいは、あらゆる死は不可避な事故死です。意識的に死ぬことなどできないのです。意識とは根本的に〈生〉の別名であるからです。人間は知らぬ間に生まれて知らぬ間に死んでいく。〈生きること〉は、死の陰(死の結果、死がまだ来ないことの結果)であって、生の陰(生の結果、生きた結果の淵)が死なのではありません。つまり生きているということはまだ死んではいないことの結果なのであって、その逆なのではありません。生きるということは死に始めるということです。母としての女性が消尽に向かって生(生活)を遂行できるのは、そういった女性だけが死(つまりは生)を正面から受け止めることができるからです。男性は出来損ないの自殺(というより、自殺とはもともと出来損ないの自殺でしかないのですが)を本能的に遂行し続けているわけです。だから女性(妻)は男性(夫)より一日遅れて死ぬことができるのです。いつも敗北の死(死ねない死)でしかない男の死を看取ってから死ぬのです。


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【322】 生活苦とは何か? 2001/4/1(日)23:40 芦田宏直 (5772)
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