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532 クルマ購入法10箇条
2002/2/3(日)18:04 - 芦田宏直 - 20229 hit(s)


クルマ購入法10箇条

1)一番に〈形〉だ。いくら高性能と言ってもカタチがよくなければ納得できないだろう。他人に洗車させるのがつらいくらいにカタチに惚れ込まなければ、買っても、走っても意味がない。特にリヤビューは大切かもしれない。リヤビューは一番長い時間、じっと見られる場所だから。先々代のシルビア(http://www.carview.co.jp/Vip/UsedSingleYear/NISSAN/SILVIA/1988.asp)なんて、リヤビューの美しさでだけで売れたようなものだ。後ろに付いているクルマのドライバーや助手席の彼女に、信号待ちで止まったとき「かっこいいね、このクルマ」と言わせたら、勝ちというところだろう。

 たぶんクルマのデザインで一番難しいのはCピラー(クルマの天井をフロントで支えるのがAピラー、中間で支えるのがBピラー、後部で支えているのがCピラー)が降りているところだろう。ここは、サイドビューとリヤビューの整合を取らなければならない一番難しい造形だ。サイドから見れば美しいのに、後ろにまわったら陳腐、その逆でリヤから見ればきれいだのに、サイドビューが陳腐というのは、Cピラーの降ろし方(言い換えれば、リヤウインドウの三次元曲面の造形)を失敗しているのである。クルマというのは、全方位で見られるというのが、デザイナーの苦労のしどころだ。要するにデザイン的には、前も後ろもない。すべてが前方といってもよい。そういった緊張感が集約されているところ、そこがCピラーのラインだ。

 たとえば、96年に発表されたBMWの5シリーズ(BMWの傑作の一つhttp://www.bmw.co.jp/Library/Automobile/5series/index.html)はサイドビューは優れているのに、リヤービューにまわると、小振りで場合によっては先代の3シーリーズと区別が付かなくなる(全幅が1800もあるのに、シルビヤや新カローラより小さく感じる)。これはCピラー、つまりはリヤウインドウの造形が通俗的だからだ。

 Cピラーの天井から降りてくるラインが、サイド曲面を重視するか、リヤ曲面を重視するかでクルマの印象は決定的に異なってくる。両者の整合を取ろうとすれば、リヤウインドウを3次元的に立体化するのが一番楽な遣り方である(ガラス屋さんは技術的にいやがるが)。ポルシェ944のリヤウインドウやそれをまねたFC13BのRX−7(http://www.mazda.co.jp/history/rx7/Java/index.html)などは、リヤウインドウの3次元化(リヤガラス面をサイド面まで曲がり込ませて、Cピラーをリヤビューから隠すこと)を徹底的に押し進めて、リヤビューとサイドビューの造形に整合性を持たせていた。見事な造形だった。

 最近では、先代ホンダオデッセイがCピラーをリヤビューから見えなくすることによって、ガラス屋さんの技術に頼らないで(経済的に)、サイド−リヤの整合性をとっていた。オデッセイを乗用車のように見せるホンダらしいうまいやり方だった。

 もう一つは、タイヤハウスの美しさもポイントの一つだ。これには、日本のクルマはすべて落第。日本は官許的な規制で、冬場のチェーンを付けやすくするためにタイヤとフェンダーアーチとの間に不均整な隙間が空けてある。この間抜けた空間が美しいサイドビューを台無しにしてしまっている。そのこともあって、タイヤハウスのデザインは日本では進化が止まっている。もっとも美しいタイヤハウスのデザインはフェラーリだ。誰が見てもバカが乗っているとしか思えないフェラーリもあのタイヤハウスの美しさにはうっとりしてしまう。

2)次は、エンジンではなくて、足回り。クルマには、飛行機や船舶と同じように、ロールイング、ピッチング、ヨーイングという3方向の揺れがある。ローリングはクルマを正面から見たときの左右の揺れ(コーナーリングに影響がある)。ピッチングは、クルマを真横から見たときに前後の揺れ(発進、加速、減速、停止といった場合のクルマの挙動に影響がある)。ヨーイングはクルマを真上から見たときの左右の揺れ(主にハンドリングに影響がある)。

 この中でもっとも不快なのが、ピッチング。(たとえば信号で)クルマが止まるときにクルマのノーズが沈む、ふたたび発進(あるいは加速)するときに今度はノーズが浮き上がる(リヤが沈む)。これが日常的なピッチング。ダメなクルマほど、浮いたり、沈んだりの度合いが大きい。車酔いの原因の一つだ。ホンダの“高級車”レジェンドが、高級車でもなんでもないのは、ピッチングがひどすぎるからだ。急ブレーキを踏んでフロントがおおきく沈むクルマを高級車とは言わない。250万円以上のクルマを買うとき(試乗したとき)は、まず、急ブレーキを踏む。ノーズがおおきく沈めば、買うのを止めましょう。

 ローリングは、特に高速でコーナーに飛び込んだときに、ノーズの内側がふくれあがる現象。優れたクルマほど、このふくれ上がりを制御してくれる。左へ曲がろうとしたらノーズの左側が自然に沈んでくれる(浮かばずに)、右へ曲がろうとしたらノーズの右側が自然に沈んでくれる(浮かばずに)、これがローリングに強いクルマの快適さ。

 ヨーイングは、クルマの向きを変えるときに、クルマの前方が重すぎたり、後ろが重すぎたりすると、左右に降られる動きの収束が悪くなり、自在なハンドリングが阻害される動きを言う。フロントが重いクルマはハンドリングが鈍重だし、リヤが重いクルマ(ポルシェ911)は加重移動の影響が大きくて下手なドライバーはすぐにスピンさせてしまう。

 これら三つの動きを不快感なく制御するのがクルマの足回り(サスペンション)。“乗り心地がいい”というのは、単にふわふわしているクルマではない。単に柔らかいクルマは先の3つの動きが複雑に増幅されて、危険なクルマ、酔いやすいクルマでさえある(ローリングは危険、ピッチングは不快、ヨーイングは鈍重な感じをクルマに与える)。単に足回りが堅いクルマもダメだ。堅い足回りが活きてくるのは、非日常域。通常の走り全体の10%もない、そのためだけにがちがちな足回りでは、意味がない。不快なだけ。とばさないと面白くないクルマも決していいクルマとは言えない。まともなスポーツカーを除いて、この三つの動きを上手に制御しているクルマといえば、(日本では)レガシィ(http://www.fujisubaru.co.jp/subaru/new_legacy/default.htm)ぐらいだろう。最近のクルマで最悪の足回りといえば、ニューソアラ(http://www.toyota.co.jp/Showroom/All_toyota_lineup/Soarer/)。トヨタの高級車はすべて足回りがダメ。フランスのシトロエンなんか、ふにゃふにゃのように見えますが、なかなかどうしてしっかりしています。ドイツ車ではベンツの足回りが一番ダメ。あんなクルマで時速200キロオーバーで走るドイツ人の気が知れない。ベンツに乗る人は、よく「安全性能をとった」といいますが、ボディの安全性ならば、ボルボの方がはるかに安全。ボルボも、乗っている人は安全だが、当たった方は粉々になるから、何が安全だかわからない。ボルボは乗っていない人には危険だ。自分勝手なクルマなのである。

3)次は、エンジン。運転がうまい人ならば、私があげた2番目のポイントの足回りよりも、このエンジン性能がすべてだろう。足回りはドライビングテクニックで何とかなるが、力そのもの(エンジン)は、テクニックではどうにもならないからである。しかし、私も含めてほとんどの人は、運転がへただ。だから足回りに頼らざるを得ない。

 しかし下手な人でもエンジン性能は大切だ。クルマはアクセルオン、つまり加速し続けているときが一番挙動が安定している(特にFR:リヤドライブ車の場合)。特にコーナーリングでアクセルコントロールできる容量は、エンジンの高回転容量に依存している。気持ちよく高回転がまわるエンジン。2速、3速でも100キロ、200キロ出せるエンジン。これは限りなく安全なクルマなのである。ホンダのV-TECKエンジンなんて8000回転が難なくまわる最高のエンジンだ。

 高回転エンジンで気を付けることは、オイルクーラーの装備だ。日本車にはエンジンオイルクーラー(http://www.hks-power.co.jp/products/cooling/oil_index.html)が付いていない。スカイラインGT−R(http://www.nissan.co.jp/GT-R/R34/0105/DATA/EXTERIOR/index.html)でさえついていない(イギリス用の輸出仕様車にはついているが)。要するに8000回転が楽々まわるエンジンであっても、10分間も回すことができない。オイルの湯温が140度を超えてエンジンが焼き付いてしまうからである。たとえば、ポルシェの最高速度表示はかつて「巡航最高速度280km/h」という表示がしてあった。つまり時速280キロで(=高回転を維持しながら)、ずーっと走り続けることのできる速度がポルシェの最高速である。エンジンの冷却技術に優れているということだ。

 カローラとゴルフ。100キロ以下では、燃費は、断然カローラの方がいいが、100キロを超え始めるとゴルフが断然よくなってくる。エンジンルームの空気の回し方(エンジンの冷し方)に独自のノウハウがあるのが理由らしい(カローラ設計者の話)。それもこれも巡航最高速という目標がドイツ車にはあるからだ。日本車の最高速は、瞬間の最高速(何の意味もない最高速)にすぎない。役立たずの男みたいなものだ。

4)次は、色。色も大切だ。濃い色は、飽きが早い。それに手入れも難しい。一般に色が濃いほど、塗装面は柔らなくなると言われている。黒い色なんて、拭いただけで傷が付く。クルマの塗装面が一番傷むときというのは、実は洗車の時だ。いくら強い雨が降っても拭くときほど強く雨が降る(雨が当たる)ということはない。ワックスがけなんて塗装面を傷つけることなしにはあり得ない。もともと磨くというのは、傷をつけるということなのだから。かといって、もっとも硬質な白色も面白くない色だ。一番むなしいのは、白はどんなに磨いても光らないということ(あたりまえの話だが)。手入れも簡単、適度に光沢もある色というのは、結局シルバーになるが、ここから先は好みの問題。

5)次は、ブレーキ。止まれないクルマは、飛ばせない。スピードと制動は、速さの裏表。どんなにエンジンと足回りがよくてもブレーキがダメなクルマは、ドレッシングがダメなサラダのように、はがゆいものだ。ブレーキはききがいいとか悪いとかいうより、踏んだら踏んだ度合いだけきくという感じがすべて。少し踏むだけできくとか突然きき始めるとかではなくききのリニア感が重要。コーナーリングでは、リニアな制動の有無が決定的だ。俗に言う「カックンブレーキ」だけは避けよう。

6)次は、価格。これは難しい。たとえば、オーディオとクルマという趣味の一番違うところは、オーディオは家庭内に隠せるが(人目に付かないが)、クルマは隠れて走ることができないということ。クリーニング屋もその家庭から預かる衣類によって、その家庭の暮らし向きの“グレード”を極め尽くしているが、クルマもその家庭の“グレード”を“表現”することになってしまう。個人的な趣味にとどまらないところが、要注意。好きな車だからといって、せっせとお金を貯めて1000万円以上のクルマを買ってしまったりしたら、その後が大変。それより安いクルマ(ほとんどがそれより安いクルマだと思うが)が好きになったときに、素直に乗り換えても、“世間”は、許してくれない。“勢いがなくなった(暮らしが傾いた)”ということになる。

 特に、戸建てに住んでいる人は注意。30坪くらいの家で、フェラーリが小さな自宅駐車場にあったりすると(開口間口の半分以上が駐車場という悲しい戸建て住宅)、他にやることあるんじゃないの? と知らない人にまで思われてしまう。

 クルマが趣味の人は、マンション住まいの方が無難。マンションの方が“暮らし向き”が間接的にしか出ない分、クルマ選びの自由度が高まるからだ。戸建ては、それに比べて、暮らし向きが直接的に露呈してしまう。

 30坪くらいなら、洗濯物まで露呈してしまう。クリーニング屋の分析を待つまでもなく、〈生活〉が露呈する。これはきつい。逆に言うと、マンションで、テラスの天井に物干し竿を設置するステイが付いていたり(本来は手すりの下方で、洗濯物が外部下方から見えない位置に設置すべきだ)、布団をテラスの手すりに掛けているようなマンションは、非生活的な生活を志向するマンション族の精神に反したマンションなのである(最近のマンションの乾し竿のステイは、普及型のマンションでさえ、天井には付かなくなっている)。だからマンション暮らしでもテラスに布団や洗濯物が干してあるマンションでは、400万円以上のクルマは買うのに勇気がいるかもしれない。

 もともと都市生活では、その人の“家”が見えないことと〈自由〉とは同じことを意味していた。都市化とは生活(=家)を隠すことだったのである。そして、クルマとは、その家から自由に遠ざかることだった。都市化とモータリゼーションは軌を一にしている。そして、その家とクルマが交差する〈駐車場〉は、もっとも矛盾した場所なのである。最高に自由なオープンカーを買ったのに、野ざらし駐車場しかない。これは喜劇ではなくて悲劇だ。家に合わせたらクルマを買う意味がない。クルマに合わせたら、それを保管する場所がない。

 いろいろと考え始めると好きとか嫌いということだけで選べないことが出てくるのが、クルマ選びの難しいところ。トヨタ的に整序された階層・階級的なランキングに従うのも面白くないが、社長よりいいクルマ(高いクルマ)に乗るのも気が引ける。それに、そもそもそういった右肩上がりの階級的なクルマ購入(トヨタ的な階級主義)も幻想に近いものになってきた。自由にクルマを選ぶとすれば、自らが、そういった〈社会〉や〈生活〉から自由でなくてはならない。でも、そんなこともともと不可能なことだ。さて、どうする?

7)次は、自動車雑誌、自動車評論家に気を付けろということ。そもそも“自動車評論”というものはあり得ない。基本的に工業品であるのがクルマなのだから、高いクルマの方がいいに決まっている。「このクラスや価格では」などという条件文なしにはありえないのが自動車批評というものだ。自動車批評に比べれば、カメラ批評は辛らつで、こんなこと書いてもいいのかというくらいに自由なコメントが成立している。なぜか? 安いからだ。みんな(カールツァイスの交換レンズ以外)ほとんどが自分で買えるものだし、価格差も自動車ほどにはない。

 だから、もし唯一真実を語る自動車批評があるとすれば、お金を儲ける方法を紹介する批評以外にはないのである。商品開発やマーケティング担当者は、かつては目黒のミツワ(かつてのポルシェの正規代理店)にいけばよかった。その時期、その時期で調子のいい業界の関係者がポルシェを買いにきたのである。15年前は金融関係者か不動産屋、10年前はサッカー選手、5年前からはITベンチャーの若手社長などというように。

 〈自動車〉というのは、その意味では純粋な批評の対象ではないのである。単に社会的、単に反社会的なだけである。“高名な”経済学者、宇沢弘文には『自動車の社会的費用』(岩波新書)という著作(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%B1%A7%C2%F4%B9%B0%CA%B8&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=11&s1=za&dp=&kywdflag=0)があるが、この本も、単に私はクルマが嫌いだと書かれてあるだけである。「社会的」という場合の〈社会〉という概念が、狭すぎるか、広すぎるのである。全く意味のない“分析”に終始している。

 たとえば、〈文芸批評〉が存在しうるのは、夏目漱石やフォークナーの作品も、最近の新人の作家の作品も同じ値段で売っているからだ。「このクラスでは」という留保はない。〈批評〉という領域は、留保のない領域なのだ(厳密に言えば、諸々の留保を取り去っていくのが〈批評〉という行為だ)。

 クルマの批評には、数々の留保がつきまとう。そもそも、自動車評論家も、作り手であるメーカーから借りて、その車を批評する。高くて、いちいち買えないからだ。本気で悪口を書いたら、次からは貸してくれない。自動車雑誌は、そのクルマがユーザーに販売されるときにはすでに記事にしておく必要があるから、評論家がそこで文章を書くには、メーカーが販売前に開く試乗会に名指しで呼ばれなくてはならない。メーカーに(本気で)嫌われたら、雑誌も評論家稼業も成り立たないのである。奥歯にものが挟まったようなコメントが続くのはそのためだ。

 徳大寺有恒(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%C6%C1%C2%E7%BB%FB%CD%AD%B9%B1&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=11&s1=za&dp=&kywdflag=2)のように、内容ではなくて文体の妙でもたせるスタイルを取らない限り、批評になり得ないのである。小林彰太郎(http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00852341&volno=0000)に始まる『カーグラフィック』派(CG、NAVI、ENJINEなどの諸雑誌)に集まる批評家たちが特に勉強したわけでもない文明批評や社会批評に傾斜していくのは、クルマ批評では間がもたないからだ。というよりクルマ批評の陳腐さを覆い隠すためだ。

 要するに雑誌や評論家の言うこと(あるいは私の狭い素人経験)を聞く必要はない。自分で乗って、自分で納得することだ。たぶん、彼らの言うことで正しいことは、全長、全幅、車高と車重くらいだろう。私の経験では、雑誌=評論家の言うことと一致したことなど10%あるかないかだから、ほとんど意味がない。むしろ裏切られて無用な装備を追加したりすることの方が多い。

8)次は、ディーラーとガソリンスタンドとのつきあい方。ディーラーの営業マンは、買ってしまったら、ほとんど意味のない存在だということを理解しておくこと。重要なのは、そのクルマをメンテしてくれるメカサービスマンたち。買うときに自分の担当者を決めてもらって、一度は出会っておいた方がいい。ガソリンスタンドも、日常的なメンテの拠点。親しくしておけば、クルマや駐車場の中に工具や洗車用具を貯め込んでおかなくても、ガソリンスタンドのお兄さんたちがすべてやってくれる。

9)次は、NAVIとカーオーディオ。これは、趣味の問題。本当に車の好きな人は、エンジンの音を聞いていたり、ハンドリングを楽しんだりしているだろうから、こんなものは余分かもしれない。特にマニュアル車に乗っている人にとって、シフトチェンジをするときのエンジン音は決定的な要素。カーオーディオや車内電話は、オートマチックトランスミッションの存在や普及なしには考えられない ― ついでに言っておくと、“オートマ”は、ポルシェのティプトロニックでさえ、まだ不十分。どうしてもタイムラグがある。最近出たBMWのM3(http://goo-net.com/newcar/intro01/20151508200101.html)にはSMGUというタイムラグのないオートマ(http://www.motormagazinesha.co.jp/medialog/hotmenu/whatsnew/2001_12/011220/)が用意されているが、これも先代M3の時に装備されたときは故障だらけのオートマだった。今回もそれほど改善されているとは思えない。エンジンを楽しむならやっぱりマニュアル車だ。

 しかしながら、それほどもクルマばかりに打ち込んでいられないというのも一般的なドライバーだろう。

 まずは、カーナビですが、これは、パイオニアを買うしかない(http://www.hdd-cybernavi.com/hdd_navi/hdd_navi.html)。なんと言っても測位性能が抜群。これを超えるものはない。さらにありがたいのはメディアがハードデスクになっているため、リルート(道を間違えた場合の再探索)も一秒もかからない(他の機種であれば5秒から10秒は覚悟しなければならない)。このハードデスクは、しかも圧縮ファイルで音楽CDを20枚から150枚までファイル名(曲名、歌手名)付きで格納できるhttp://www.hdd-cybernavi.com/hdd_navi/musicserver/musicserver.html。ヘンなカーオーディオを買うより全然便利。もちろん、携帯電話のハンズフリーにも標準装備で対応。携帯の電話番号帳を読み込んで、音声で呼び出し、自動的に電話をかけてくれる。これから、買う人は、これ以外にはない。

 カーオーディオは、純正品レベルでは、なぜかトヨタが優れている。トヨタはクルマの純粋性能以外のこと(平均的なお客が喜びそうなこと)に大変熱心なメーカーだ。

 自分で組み立てるときの私のお薦めは、メインのプレイヤーは、ADDZESTのDRX9255EXL (http://www.addzest.com/audio/main_products/2001/DRX9255EXL.html)。この新製品が出ているが、こちらの方が音はいい。何でも新製品をほめたがるのが紹介雑誌の悪いところ。10万円を超えるプレイヤーは捨てるほどあるが、そんなものを買う人はセルシオ(単に静かなだけのクルマ)に乗る以外に意味がない。スピーカーは、PIONEER(carrozzeria)のKEVLARシリーズhttp://www.pioneer.co.jp/carrozzeria/av_new/av_audio/lu_sp_custom.htmlで充分。

 アンプは、ARC AUDIO(ドイツのARCUSではありません。アメリカのARC AUDIO (http://www.arcaudio.com/)のARC4050CXL(4Ω55W×4ch)くらいがおすすめです。3年前にできたアメリカの会社ですが、情報量も元気さもあるいい音が出ます。スピード(立ち上がり)感がいまいちですが、「このクラスでは」ピカイチの音が出ます(日本では「ジャンライン」という会社:03−3330−1199 が扱っています)。

 そんなにお金がないよ、という人は、SONYのチューンアップウーハーXS-AW5X (http://www.sony.co.jp/sd/products/Models/Library/XS-AW5X.html)を追加するだけでかなり音がよくなります。ウーハーは、ベイブリッジで土曜日の深夜騒ぐためにだけあるのではなく、全体に音を引き締めたり、押し出し感をヘルプしますから、下手にアンプやスピーカーを変えるより効果があります。3万円で音がよみがえります。やってみて下さい。設置場所は、助手席の足下がおすすめです。

 カーオーディオは、NAVIと違って、実際に自分の車に付けてみないとわからないという恐怖があります。他人クルマでいい音がしたからといって、自分のクルマでその音が出るとは限りません。それに「ナカミチ&レカロ」ショップのお兄さんでも、誰一人〈音〉をセッティングできる人はいません(彼らは単に成金マーケットに寄生しているだけですから)。取り付けと配線がオートバックスやオートテックのサービスより少しだけ丁寧にできるだけです。〈音〉をセッティングしたいときは、秋葉原の“高級”オーディオショップのお兄さんに頼むしかありません。しかしそもそも他人に〈音〉のセッティングを頼むようであれば、カーオーディオなんてものに金をつぎ込む意味と資格はないのです。そんなときは、先のSONYのチューンアップウーハーXS-AW5X の追加だけで充分です。

10)最後に、クルマに乗る人(車の好きな人)はバカです。どんなに会社でペイペイ(平々)として働いている人もクルマを運転し始めると急に態度が大きくなって、社会批評、文明批評、人物批評を独り言とともにぶつぶつとやり始める。クルマは、自分が、世界の中心にいるように世界を主体化します。自分が世界の中心にいることなどあり得ないことですから(そもそも世界とは中心のないことなのですから)、〈事故〉が起きる。クルマの快感に、〈事故〉は必然的です。〈事故〉とは、世界を主体化などできないという啓示(世界の真理)なのです。

 土日の散歩で犬をつれて歩いている人を見かけますが(昨日も世田谷ヤマギワ電気の近くで見てしまった)、たしかに、彼らは幸せそうには見えるけれどもスマートには見えない。おなじように、クルマに乗っている人も楽しそうには見えるけれどもスマートには見えない。散歩の幸せも主体の快感も、大人のインテリジェンスにははるかに遠い。道路がどんなに渋滞していても、それは個体の外面的な寄せ集めであって、通勤電車の共同体に比べれば、はるかに閉鎖的な空間なのです。通勤電車では、人は思考しますが、自動車の中で思考する人はいません。〈外〉に向かう契機がないからです。タクシー運転手を横山やすしが嫌ったのには少しは理由があるのです。

 クルマは外出の道具ですが、それは〈外〉に出ているのではなく、内部が延長しているだけです。だから、渋滞を予想してでもクルマで出ようとするのは、自室の延長による安心感を人が得たいからなのです。ある種の帝国主義的膨張主義がクルマによる外出の思想です。クルマに乗る人は、〈外出〉を否定しようとするのです。

 しかし、人は、どんなときでも〈外出〉しているときにだけ、考えることをする。クルマに乗り続けるというのは、バカになり続けているというのと同じことです。宇沢弘文もくだらないデータを出して“分析”などしないで、そう言えばよかったのです。

補遺)クルマを買ったときに“馴らし”にいくドライブコース、あるいは、走ることだけが目的の場合のドライブコースのおすすめ。私は、いつも用賀インターから厚木インター、厚木インターから小田原厚木道路、小田原厚木道路から箱根ターンバイク(相模湾がきれい)、大観山から箱根峠(富士山がきれい)を経由して(間違っても箱根新道を走ってはいけない)、芦ノ湖スカイライン(http://domestic.travel.yahoo.co.jp/tif/14/22/00109001.html)、芦ノ湖スカイラインを10分走ると「箱根レイクビュー(0460-3-6363)」という名前とは一致しない小さな休憩所(うどんやそば、土産物も売っているが、私は「雲助うどん」と「ポテト」をいつも食べている)がある。富士山も芦ノ湖も駿河湾側も一望できる場所だ。

 クルマを降りて、その小屋の後ろの丘に登ると無愛想なヤギが3頭ほどいる(私は、だからこの休憩所を「ヤギ小屋」と呼んで、マイNAVIに登録している)。そこが、私のドライブの終点。ここから同じ道を戻ってくる(ヤギ小屋の先の箱根スカイラインは楽しくも何ともないからだ)。世田谷南烏山の自宅まで片道100キロほど。往復200キロ(ほとんどが有料&高速道路)。ゆっくり走っても午後から出て、夕方5:00前には帰ってこられる。第三京浜から西湘バイパスを経由して(こちらの方が景色はずっといい)、箱根ターンバイク、芦ノ湖スカイラインという手もあるが、クルマを海風(潮風)にあてたくない人にはすすめない。とびっきりの美女を口説きたい人にはいいかもしれないが、いくらクルマに乗る人がバカだからと言っても、クルマを不純に使ってはいけない。


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【532】 クルマ購入法10箇条 2002/2/3(日)18:04 芦田宏直 (22070)
┣【533】 re(1):クルマ購入法10箇条 2002/2/4(月)20:07 風来坊 (276)
┣【554】 re(1):クルマ購入法10箇条 2002/2/18(月)17:35 北風小僧 (433)

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