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322 生活苦とは何か?
2001/4/1(日)23:40 - 芦田宏直 - 21120 hit(s)


 私事にわたって恐縮だが、桜の花の季節になると、2年前の家内の緊急入院を思い出す。2年前の3月初旬頃から、「カゼ気味」ということで、食欲がなくなり、頭痛がひどくなり、食事ものどを通らなくなり、だんだん動けなって、それでも「カゼ」と“セカンドオピニオン”も含めていくつかの町医者に「診断」され(サードオピニオンまで)、気づいたら一歩も歩けなくなっていた。こういうとき、息子と私という男所帯(子供は太郎一人しかいない)は、(心配しながらも)むしろだんだん家内を敬遠し、近づかなくなっていた(何と冷たい男たちだろうか)。会社も5日間連続休むことになってしまいそうこうする内に春分の日を超えてもますます動けなくなって、知人の紹介で松戸の新東京病院(の「名医」)を紹介され、家内を毛布にくるんで首都高を世田谷から飛ばして40分。「点滴を打ちましょう」。「念のため一晩様子を見ましょう。家にいるよりは安心でしょう」ということで、そのまま家内をおいて帰ってきた。

ところが、次の日も衰退状態から脱皮できない。「緊急に精密検査をしないと…」ということになる(CTスキャンからはじまって、ほとんどカラダすべての極限の精密検査をすることになってしまったが、脳も含めて器官的、外科的には何も異常がないことがわかる)。結果、「塩分が身体に残っていない(血液中のナトリユウムが減っている)、その分、脳がむくんで頭痛がひどくなり…」なんて説明され、「とにもかくにも、体内(血中)の塩分濃度を上げなければたいへんなことになる」。「あらら…。だれだ。カゼだなんていった奴は…」。でもどうすれば、塩分濃度を上げられるのか、いろいろ試みても3、4日は、濃度上昇はまったく期待できず、ほとんど絶望的な状況が続いた(162センチの身長のある家内の体重が36キロまでに落ちたというからやはり極限の状況だった)。利尿剤投与をしはじめてやっと持ち直しはじめ、1ヶ月半ほどの入院治療でなんとか退院できるまでになり、現在では以前と同じ生活(や仕事)が出来るようになっている。しかしいまだに原因はわからずじまいだ。「名医」も今頃になって、「あと一日遅れたら危なかったですね」だって。

 しかし、言いたいことはそのことではない。この入院の間、私と息子の太郎(当時中1の春休み)は、2人くらし。食事も炊事も掃除もすべて自分たちでまかなうしかない。テラハウスからすこし早めに帰り、私が夕食を作る。学生時代以来の自炊だ(フライパン料理なら誰にも負けない)。こういうとき、男同士というのはなんともなさけない。お互い何も話さない。後かたづけをどちらがやるか、あうんの呼吸とまではいかず、なんともいえない緊張感。家庭が“暗い”。ゴミ捨ても、いつが可燃ゴミか不燃ゴミかさえわからない。それに洗濯。干すのが面倒くさくて、乾燥機に頼る。下着のシャツも乾燥機で乾かすといつもと白さが違う。不健全で後ろめたい乾き方だ。食事、炊事、掃除、洗濯だけではない。買い物。買い物もおもしろくない。食べ物の買い物がおもしろくないのは、必ず得なければならないものの買い物だからだ。スーパーマーケットに「ショッピング」に行くとは言わないのはそのためだ。

 なんだか、生活が息苦しい。こういうのを「生活苦」というんだな、と思いかけた。生活は、なぜ苦しいのか。〈生活〉とは、避けられないものの総称のことだ。避けられないこと、必ずしなければならないものをなすことは、とてもつらい。普通、仕事をするということは、選択の連続だが、生活は、不可避の連続だ。作らなければ食べれない。食べるとかたづけねばならない。ゴミを処分しなければならない。しかし仕事にはそういった必然性はない。必然性がある仕事というのは、倒産しかかった会社の仕事以外にはない。あるいはこう言い換えてもよい。不可避な作業の多い仕事が蔓延している会社(あるいは人材)は将来のない会社(あるいは人材)、まもなくつぶれる会社(あるいはダメになる人材)なのだ。仕事上の決断とは、いつでも別のやり方や別の選択もあり得たという決断である。だから「決断」なのである。つまり「決断」とは、いつでも間違いでもあるのだ。「決断」とは悪なのである。〈経営者〉とはしたがって、いつでも〈悪〉をなし得る者のことを言う。経営学などで、「意志決定論」などというふざけた組織論の分野があるが、これは一言で言えば、“できるだけ間違ったことをしないように”と言っているだけのことである。何もわかってはいない。

 ところが、〈生活〉には、こういった選択の緊張感がない。むしろ避けられなさの緊張感があるだけなのである。エンゲル係数とは、不可避なものの係数なのだ。「生活が苦しい」というのは、不可避なものに追われる苦しさなのであって、“お金がない”ということと必ずしも同じことなのではない。「生活が苦しい」というのは、単に経済的なことだけではないのである。

 生きるということは、だからこそ、つまらないことだ。だからといって、避けられない仕方で死ぬというのはもっとつまらないことだ。人間の死は、不可避であるが故にいつでも自由な死でもある。現にだれも自分の死がいつ生じるか“知らない”。

 情報化社会は、選択性を増大させて、〈生活〉(生活感)をどんどん希薄なものにしてきた。避けられないものがないようにするのが、文明の“進歩”だという意味では、情報化は、“文明”を極限にまで押し進めるものであるのかもしれない。「情報化」の対立語は、〈生活〉なのである。選択にあふれている(しなくてもよいことをしている)情報化社会において、〈生活〉は全く“なり”を潜めている。そのようにして、家庭も崩壊しつつある。私もまた、家内の突然の入院によって、〈生活〉がこんなにも重いということについて鈍感になっていた自分に今さらのように気づいた。家庭崩壊とは、生活感がないが故に起こることであって(=フェミニズムの台頭)、その逆ではない。

 家庭は不可避なものの〈場所〉である。そして、多く長くは、女性が不可避なものを担ってきた。というより、女性は母であることによって不可避なもの、選択できないものの根拠だ。だれも自らの生(生活)を選んではいない。選べないものが生(生活)なのである。生活に対する不快感は、こういった出生(不出生)を選べない不快感(偶然に対する、意味のないものに対する不快感)にある。しかし一方で、母である女性は、非選択の根拠であることによって家庭を担い、男たちや子供たちからその不快感を解放している。男たちや子供たちを選択する存在に変えている。彼らの、選択する根拠になっている。

 スーパーマーケットの買い物に行って、(男が)むなしく思うのは、消尽するもの(生きるための食べ物)への消費、消費的な消費に耐えられないからである。こんなものに耐えられるのは、母親としての女性以外にあり得ない。

 若い男どもよ、ショッピング(と旅行)の好きな女たちには気をつけた方がよい。


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