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 * この一連の講義は1988年度法政大学通信教育スクーリング講座(於:市ヶ谷校舎)の一環として行われたものの録音テープを編集したものです。


哲学講義 (2)

1989.5.1
芦田宏直

 (…)究極を追うということが「無限の全体性」なんだ。つまり、あのときは物理学を援用させていただきまして、物理学がやっていることというのは、物質というものの究極の問題についてだ−−これは哲学でもギリシアではですね、原子論というのが出てきます。万物のアルケーにはアトムというものがある。つまり原子から世界は成立っているんだという考えかたです。もちろん、それとある場面では共通する場面なわけですが、しかし本質的には全然別なんですけども、哲学のなかでの原子論というのはまたお話ししていきます。

 で、先週話してた物質の究極ということをつきつめていくんだと、これは実は、物をどんどんどんどん極限にまで微分化していくと、たとえば地球と月というような違いというものはなくなっていく。もともと地球と月というものが、地球と月というふうに分節されているのはなぜかというと、やっぱりこれが分節されるレベルでその物を見ているからですね。見ているからです。まあ、先週の話でいいますと、たとえば地上から高さ一・五メートルあるいは二メートルという範囲で物を見ていると、人間というのは違ったように見える。でもそれをもっともっと別な遠近法で見ていくと、私とあなたというのは全然違うにもかかわらず全く同じだというレベルが必ず出てくる。で、それはパースペクティブの問題であって、どのレベルで見ていくかということによって、物が、違って見えている物が、同じに見えてくる場面がある。

 そうすると、どんな物も同じに見えるようなところまで微分化していこう、というのが素粒子をやっている連中の考えていることですね。そうするとそのぉ、究極のところまで行けば、おそらく、たとえば一・五とか二メートルというレベルの問題ではなくて、地球と月というレベルもですね、全く同じものに見えてくる。あるいは太陽系と、他の系との違いというものも、全く同じものに見えてくる。そうするとそれは、逆にいうと、宇宙の広さそのものが問題になるようなところまで来るんだというお話をしたんです。

 そのときに私は、まぁ、自分でも注意しながら喋ったわけですが、つまり物質の究極というのを問いたずねるということは、思わず無限の全体性だというふうに言ってしまったんですが、無限の全体性って一体何だっていって言われた方がありまして、そのとおりですね。それは非常にいい質問であってですね、こんないい加減な言葉はありません(笑い)。

 で、私が無限の全体性と言ったのは、つまり物理学がやっていることというのは結構まともなことをやっているというふうに思っているのはですね、どういうことかというと、通常われわれはですね、微分した世界が、微分されたひとつの原子っていいますか、哲学でいうと原子ですね、原子というものがある。そして、それをこうやって超えてどんどん大きくしていくと、核みたいなものがあって、そのまわりに宇宙というものがある。もちろんこの、こういうふうに線を引けるものかどうかは分りませんよ。つまり、宇宙がたとえば有限か無限かみたいな議論はしょっちゅうなされているわけです。だからそういった意味では、もう線を引けるようなものではないかも分らない。あるいは、もっといろんな(…)言い方があって、絶えず膨脹し続けている。

 膨脹し続けているということを言うためには、でも、膨脹という概念がおかしいんであって、膨脹ということが起こる場所がまた必要になってきますね。つまり哲学で言えばですね、膨脹なんて言葉はぜんぜん満足しない言葉なわけです。つまりものが膨脹するためには、たとえば風船が膨脹するというふうに考えた場合ですね、風船が膨脹する空間がまた必要になってきますね。たとえばここで風船をふくらましていく。で、そういうふうに宇宙がもし、どんどんどんどん膨脹し続けているとした場合、その風船が膨脹していく空間というものをですね、それとして与えている空間というのがさらに必要になりますね。たとえば、ここで風船をふくらます場合はここの教室という空間であったりですね、あるいはもっと、もっと大きく広げる場合は市ヶ谷という場所であったりですね、つまり、その膨脹という概念にもさらにそれを支えているメタの空間というのが必要になってくるわけです。

 で、まあだから、これさしあたり、便宜的にこう書いたとした場合ですね、あのぉ、素粒子論をやっている連中はこういった仕方で宇宙の全体ということを考えているわけじゃないわけですね。つまり全体という−−ここが大事なところですが−−全体というのは、実は内部にあるんだ、ということです。

 いいですか。まだ「全体」という言葉にこだわりますが、要するに、全体というのは、この原子の、まあなんて言うんですか、こう外側に広がるっていうんじゃなくて、全体は内部なんだ、ということです、つまり、仮に僕なら僕をどんどんどんどん微分化していきます。そうするとそれは、おそらく宇宙の起源であるような、究極の微分化された、まあ原子といっておきましょうか、原子というものに出会う。しかしそれは、出会うとか出会わないという問題ではなくて、私がここにこういった形状でもって存在しているということ自体がですね、その内部、究極の微分化された原子によって成り立っているということそのものなんですね。

 つまり私はいちいちそのぉ、宇宙船に乗ってですね、宇宙の極限まで行かないとそれが見えないというんじゃなくて、おそらく宇宙の極限を、そこまで微分化していけば、私自身の体内、あるいは、まあ体内という言い方はおかしいですが、まあ体内に宿っている原子と、同じものでできているからこそ微分化してるわけですから、つまり、宇宙というのは別に、このチョークのなかにでも宿っているわけですね。つまり、このチョークというものそのものがですね、チョークそのものを構成している原子そのものが、宇宙なみの大きさを持っているということなわけですね。

 つまりそのぉ、先週も少しは話したんですが、どんどんどんどん微分化していくということは同時に、それは極限が広がっていくということだ。この広がっていくということは、ただそのぉ、宇宙船でもってどんどんどんどん果てのほうまで走っていくということじゃなくて、それはすでにここにある。つまり全体というのは、ここにあるということが重要なんです。−−ここにあるという言い方は…。このチョークのここにですね、これ自身を構成しているものが、その、素粒子、あるいはもっと小さいいろんな単位のもの−−いちおう哲学的にいって原子としておきましょう−−、原子というものによってこれが成り立っているということは、で、その原子というのが原子である限りは、宇宙の果てのある物質そのものも構成しているものでもあるとすれば、実はこのチョークの、これは物理空間的に大変小さなものですが、これ自身が、これ自身に宇宙を内包しているんだということが、重要なことなんです。

 で、だからそれは、いちいち行ってみなきゃ分らないんじゃないかという話じゃなくて、原子そのものが、実はその、広大な宇宙−−まあ、広大なという言い方もおかしいですが−−、ひとつの広がりを内包したものとして存在している、ということが重要だ。つまりわれわれは、宇宙の果てというのを、たとえば UFO を見たとか見てないとか訳のわからない話しをしてますが、そういう問題じゃなくて、そういう意味で言うんだったらわれわれ自身がひとりの UFO であってですね、それは、われわれ自身のなかに原子が存在しているからこそそれは原子なのですから、そうすると、そこに原子が存在しているということは、われわれの身体そのものがですね、無限の全体性というものそのものであるわけで、なにも宇宙船に乗っていってですね、宇宙のここら辺まで飛んでいこうとか、飛んでいかないと分らないということじゃなくて、その、あらゆる事物そのものが宇宙だ、それ自身宇宙なんだ、という議論につながらなきゃおかしいわけです。

 事実、哲学で原子論をとなえたデモクリトスという哲学者がいますが−−まあまた触れますが−−、デモクリトスは、宇宙というのは、複数存在している、という言い方をしてます。宇宙が複数存在しているとはどういうことかというと、こんなわっかがいっぱいあるというような言い方ではなくて、その、さっきもいったように、原子というものが物質の究極の根源だというふうにした場合ですね、私自身もそれをある意味で共有しているわけだし、チョーク片自体も、共有しているわけですね。その水準は様々であるにしても。そうすると、あのー、実は私自身が、無限の要素を持ったですね、宇宙そのものであって、それは、宇宙船で何万光年飛んでいったからやっと宇宙の縁が見えたというような話じゃないということです。だからその意味で、さしあたり、と私は言ったんですが、無限の全体性ということと、原子的な世界、つまり究極の、極小の世界というのは、イコールなんだ、という話しをさせていただいたんです。

 ただあのー、まだこれはですね、さしあたりアルケーということはこういうことなんだという話をしただけであって、そういった問題が、どういうふうに哲学者たちが具体的に言っていったのかというのは、あるいは問いたずねていったのかということはまた別の問題ですので、さしあたり先週ですね、無限の全体性って何だっていうふうに言われたんですが、だから、無限の全体性っていうのはなにも限り、まあ無限って限り無いと書きますから、そういう誤解が出てもしょうがないんですが、どんどんどんどん限りなく突き進んで広いという意味じゃなくて、私自身が、現にここにあるもの自身が無限だ、という意味で理解してもらえばですね、それほどまあ無限の全体性という言い方もおかしくはないというふうにいえると思います。

 で、これはもちろん、前期の授業のなかでアルケーって一体何なんだ、つまり始まりっていうのは何なんだという話はさせていただきますので、えー、いちおう始まりの話しはですね、そこで止どめておきたいと思うのですが、先週話が尻切れとんぼになりまして、私はまだ座談会の、『唯物論と主体性』という座談会の内容にこだわっているんですが、これはあのー、先週授業が終わった後、これどこに載っているんだという質問がありまして、書くの忘れたんですが、図書館に行けば『世界』っていう岩波の雑誌のバックナンバー揃っていると思います。一九〔四八年〕…、先週も書きましたが、ぜひ眼を通してみてください。変な本よりはよっぽど面白いです。

 えー、で、僕自身は、この論文というか座談会を読んだのは、筑摩のですね、『近代日本思想体系』の三十四巻、筑摩ですね。筑摩書房のですね『近代日本思想体系』って四六版の本で、日高六郎という元東大の社会学の教授が編集した、『近代日本思想体系』三十四巻に出ています。

 で、先週ちょっと尻切れとんぼになりましたが、この『唯物論と主体性』ということで問題になっているのは、もちろんマルクス主義の問題でもあるわけですが、そればかりではないんですね。で、ちょっとマルクス主義の話を非常に簡単にしますが、えー、有名な説明の仕方で、マルクス主義というのは、社会とか世界をですね、上部構造と下部構造に分けます。これは特に、マルクス主義というかエンゲルスが特に好きだった定式化ですが、で、下部構造はもちろん、その名のとおり下部構造であるわけで、基盤になるものです。で、これが社会なわけです。そうすると、それじゃあこの下部構造って何かというと、経済的な構造です。社会の経済的な基盤ということです。上部構造は何かというと、それは文化とか、あるいは、要するに人間が持っている観念が作る領域の全てなわけです。ものを思ったり、思想であったりですね、あるいは思想であったり、もちろん哲学も入るわけです。

 で、こういった思想とか文化とか観念というのはですね、経済的な下部構造の、たとえばマニファクチュア時代とか、あるいは産業社会とか、あるいは後期資本主義社会とか、そういったものによって、経済的な体制を反映する−−ここの線を引いているのは何かというと、反映という概念になるわけです。有名な、まあ悪名高いといえば悪名高いわけですが−−、反映という概念で、経済的な体制が、諸々の人の考えとか、人格とか、文化みたいなものをですね、経済構造の反映として成立する。したがって、ここ〔下部構造〕がひっくり返ってしまえば、ここ〔上部構造〕は同じように滅びていく、という考え方になっていきます。

 戦後文学論争のなかでもですね、まあこのなかで文学科の人もおられるみたいですが、これで問題が起こったことがあります。えー、特にこの学校の、今おられませんかね、あ、死なれたのかな、ちょっと忘れましたが、えー生きておられたら失礼ですが、小田切秀雄という教授がいまして、彼なんかも積極的に参加した論争でですね、そのー、クラッシック、古典文学というのが成立するのはなぜか〔という論争です〕。

 そうすると、マルクス主義の議論だと、古典というのが、なぜいまだなお存在しているのかという理由が説明ができない。つまり、もし経済的な下部構造が変化するにしたがって、これ〔上部構造〕も下部構造に乗っかっているものですから、これが変わっていけば、文化とか思想とか観念というものそのものも変わっていくのであればですね、たとえば源氏物語というのが、いまだなお読まれている。ところが源氏物語が生れた社会とですね、現在のまあ後期資本主義社会、あるいはまあ高度資本主義社会というものを想定した場合ですね、全く経済体制が違う。全く経済体制が違うのにですね、そういったものを、まあある意味で超越して、様々な古典が、なお人々に愛好され、読まれ、研究され続けている。たとえばその週刊誌なんかはたいへんな人に読まれますが、あのー、源氏物語に比べれば、おそらくそのー、たいへんな人に読まれている漫画にしても、何にしてもですね、やっぱり劣っちゃう面があると思うんですね。あるいは聖書にしたってそうですね。そういうふうに考えてくるとですね、下部構造というものの前提に、はじめて文化や観念や思想が生れるんだという考えかたは、古典がなぜ生き残っているのかという問いをたずねたときにですね、たいへん説明しにくい問題になってくるんです。たいへん説明しにくい問題になる。

 それでもう、様々な論争があって、ここの大学の小田切さんは何といわれたかというと、ちょっといま、そのことを今日お話しするつもりはないんですが、たしか「人類学的等価」ということを言われたと思うんですね。小田切さんっていうのは、ある意味でいうと、左派の論客ですから、共産党の活動にも関わっていた人ですから、人類学的等価というのはですね、わけのわからない概念を出されてきたわけです。わけのわからないと言ってはまずいですが。えー、まずいですね、本当にまずいですが(笑)、ここだけの話にしてください。人類学的等価っていうんです。

 つまり、そういう下部構造とか上部構造ということにかかわりなくね、あるいはそのー、労働者階級とかブルジョアジーとか、ブルジョア階級とかっていうことにかかわりなく、あるいは、ユダヤ人だとか、何ていうんです、えー、何ていいますかね、まあ様々な民族がいますね、そういった民族にかかわりなく、人間が人間であれば、必ず共有するものであるようなある種の感受性といますか、ある種の本質みたいなものがあるんだ、と。で、この人類学的等価としてのある人類学的な感受性みたいなものに触れたものが、古典として残るんだ。だからそれは、世界が変わろうと、国が変わろうと、民族が変わろうとどこまでも貫きとおすことができるような−−だからまさに「等価」ということですが−−人類学的等価性みたいなものがあるんだ。だから古典はいまでも読まれている。これは解答にも何にもなってないわけですが、なってないという理由は後から分らせますが、そういう言い方で、古典が生き残こるみたいな話しをされたわけですね。

 これは何も小田切さんだけの問題じゃなくて、当時ですね、文学は上部構造かっていうような論文もあったわけですが、そういった議論に参加した人みんながですね、何ひとつまともな解答を出せずにですね、今に繋がっているわけですね。で、こういった混乱は、いろんなところで起こってきてたわけです。それで今日、というか先週から取り上げている、この『唯物論と主体性』という問題も、その問題のひとつなわけです。

 で、それはやはり、当時ですね、知識人というのは、日本では不思議なことに知識人というのはみんな左派を前提にしているわけですね。左派を前提にしている。で右翼って言っちゃうとすぐ何ていうんですか、暴力団だとかですね、スピーカーの音が大きいとかですね、そういうふうにわれわれは何か、変にイメージするところがありまして、知識人イコール左派知識人、つまり革新的、あるいは反体制的知識人というのが蔓延してて、いまでも基本的には変わらないと思うんですが、こういうマルクス主義というものの洗礼は、みんな、右翼のイデオローグであっても受けてきてたわけですね。で、この議論の枠組みのなかで話しし始めると、たいへん難しいことがいろいろ起こってくるわけです。

 そのなかで、先週お話しした、えー、七人のですね、当時あるいは今でも活躍している人もいますが、代表的な人たちが、議論し始めている。

 で、ここで、先週お話ししたように問題になっているのは何かというと、ひとつは、科学−−今日は科学と哲学の違いをお話ししたいと思うのですが−−、ひとつは科学と世界観という対立系があったわけですね。これは科学ということを宮城音弥という心理学者がいいまして、つまり主体性を扱うのはあくまでも科学でなくてはいけない。それに対して真下信一という、共産党系の、まあ実存主義の影響を少しは受けた思想家が、いやそれは世界観というものなしに主体というのは扱うことはできない。世界観というのは別のいいかたで言うとイデオロギーでもあったわけです。イデオロギーと科学との対立ということですね。イデオロギーということはさらに拡大して別のの言い方をすれば思想と言ってもいいんですね。科学と思想は違う、ということです。

 で、次の対立系は、科学と主体が対立する。つまりこれは宮城音弥が言ってたように、科学というのは道具だ。だからそれは、どう使うかという問題は主体の問題だ。だから、先週お話したように、原子爆弾の作り方を科学は教えるけども、それをどう使ったらいいかという問題は、ここからはいくらやってみたところで出てくる問題ではない。それは、科学はやはり道具であるからだ、という議論があったわけです。そうするとそれは、そうすると科学を何の目的のために、どんな意味で扱うかという、そこに科学を支配する主体としての人間がいるという対立系なわけですね。

 でさらに、この座談会では、同じひとつの問題がいろんな言葉で対立してきます。科学と価値の問題です。あるいは意味の問題ですね。まあこの場合、これ〔価値・意味〕に対立するものとして科学って考えるときは事実ということですね。事実があるということと、その事実に価値があるかないかということは別の問題になってくる。それは事実というのはいくら積み重ねていったところで、価値とか意味の問題には転化しない、ということです。

 これはもう少し考えるとここの問題とも絡んできますね。つまり、原子爆弾を作る作り方を科学が教える。しかしその原子爆弾が、人間にとってどんな価値があったり意味があったりするのかという問題は、いくら科学、あるいは科学的な事実を積み重ねていったところで別の問題だ、ということです。たとえばいま原子力発電の問題がありますが、原子力発電で、いろんな原子力発電には問題がある、ということを科学的に明らかにしていく。で、科学的に明らかにして、仮に欠陥があったとします。でも欠陥があるという事実自体はですね、それ自体を取り出してみても、だから原子力を止めようとか、だから原子力はやろうという話しには絶対になりません。たとえば、反対派の人にとっては、だから止めようという話しになり、推進派の人からいうと、いや、だからそれを直そう、何ていうんですか、きちんと処理していく技術こそがまた求めなきゃいけないから、それを科学的に解明していかなきゃいけないんだみたいな話しになっていきますから、その、欠陥があるということだけで、だめだとかいいという話しにはなかなかならない。

 つまりそれは、科学的な事実を積み重ねていくということのなかにはですね、それをいくら重ねたところで、その集積の結果自体が、ふたたび、一つの事実でしかない、つまり、それは、意味でも価値でもないということが出てきて、なかなかここの部分の折り合いがうまくいきませんよ。あることを見てですね、その事実だけでもってだめだ、或いはよいことだというふうにはならないわけです。つまり、事実そのものが、価値とか意味を含むというふうにはなかなかならない問題がある、というふうなことがひとつあるわけです。

 さらに、出ていた問題は、理論と実践の問題があります。これは先週煙草を吸うという話しでお話ししたんですが、理論と実践の問題。つまり理論というものをいくら積み重ねていって、その理論が真理性を持っている、つまり正しいというふうになったからといって、じゃその理論に基づいて人が行動し始めるかという話しになると、それは全く別の問題だ、という問題がでてくる。

 さらに、最後は、存在と当為の問題がある。ドイツ語でいうと Sein と Sollen ですね。当為という言葉にあまりなじみのないかたは、これは「べき」ということです。「〜すべし」ということで、これは「在る」、つまり、ある科学的な事実が「在る」、まあ、全部これは同じ、ずーっとこの全部、この対立というのは、全部同じなんですが、上と下、全部同じ問題としてこの『唯物論と主体性』のなかで扱われているわけですが、そのー、「在る」、「在る」もの、「在る」っていうことと、「あるべき」だという問題とは全然別の問題だという問題です。

 それは、この座談会のなかでは、経済的、資本主義っていうのがどんどんどんどん進展していくと、労働者階級とブルジョア階級の乖離っていうのがもっとどんどんどんどん広がっていって、金持ちはどんどん金持ちになっていくし、貧乏な人はどんどん貧乏になっていく、それを窮乏化というんですが、どんどんどんどん労働者階級は窮乏化していく。そうすると、その止むに止まれぬ窮乏感から、労働者階級は立ち上がるんだ、という話が、ひとつの話としてあるわけですね。でその場合、資本主義がどんどんどんどん成熟していくと、労働者階級とブルジョア階級がどんどんどんどん乖離していくという問題はですね、それは Sein の問題−−それが正しいとしてですね。正しいとして。それ・・にけちつけるけちつけかたは幾らでもあるんですが、それはいいんです。別に正しかったっていいわけです、それは話としてね。で、正しいとします。

 (…)ている人が、これぐらいの数字、出てくるわけですね。出てくる。そうすると、もし民主主義という問題を考えた場合に、たとえば小選挙区制に反対しているスタンスで、民主主義ということを考えた場合、民意っていうのができるだけ直接に反映する仕方で選挙が行われるべきだというふうに言っているわけですから、そうしたら、この数字の前で倒れざるをえないですね。安保条約破棄っていう理念は。倒れざるをえない。で、それを丸山さんはですね、「経験的な人民の意思というものを問題にするかぎり、今日マルクス主義は形式的民主主義の前に頭が上がらないわけです。かりに何らかのテクニックによって現在の人民の意思をそのまま模範的に反映するような機構を作っても、そこに反映したものはあるべき人民の意思とはやはりくい違ったもので、マルクス主義の人々はそれをそのまま人民の意思とはしないと思う」というふうに、丸山さんはすでに言っているわけです。

 つまり、私が言った、何らかの仕方で二十歳以上の人が、イエスかノーを言う、たとえば安保条約に対してあなたはイエスかノーかという装置をですね、全部集計するところに持っていってやった場合、これを丸山さんは形式的民主主義という言い方をしたわけですが−−、この形式的民主主義の前に、おそらく崩れていく−−もちろん自民党にもそういうとこありますよ。もちろん社共がどうだという話ではなくて−−、形式的民主主義というものを持っていったときにですね、いま、たとえばわれわれは民主主義政党だとか、民主主義を守ろうと言っている連中はですね、じゃあ自分達の要求がことごとく民主主義的ものかというと、そうではないという問題にぶち当たらざるをえないわけです。

 そうすると、この場合、民意って何なのかという問題になってきます。そうすると、この社会党や共産党が言う安保条約廃棄っていう問題は、「在る」−−先週も書きましたが−−、「在る」民意、つまり丸山真男の言葉でいうと、経験的な人民の意思、現に、経験的っていうのはこの場合は、現にある−−まあ人民っていう言葉を使っているのは 1948 年らしいことですが−−、経験的な人民の意思っていうことです。これは、要するに、「ある」−−「在る」ってこっちですよ−−、「在る」民意ですね。

 ところが、安保条約廃棄という要求に関しては、そうではなくて、きちんと事情を話せば、国民は分かってくれるはずだという、そういう民意なんですね。つまり、いわば自民党が支配している政権のなかで、アメリカ的なイデオロギーが輸入されて、あるいはテレビとか大量のマスメディアによって、様々な仕方で、民衆はブルジョア・イデオロギーに染まっている。だから、それをわれわれは取り除いて、きちんとした事実を、まさにきちんとした事実を露呈させて、きちんとやっていけば、絶対に民意は、安保条約廃棄という方向に向かうはずだ。「はず」というのもドイツ語では sollen というのですが、これは英語で言うと should ですね。「あるべき」ということは「はず」だということですから、そうするとこれは、「あるべき」民意に寄りかかった要求だということになってきます。つまり、たとえば安保条約という問題について言うと、それは、「在る」民意としては、つまり形式的民主主義の前では挫折するかも分からないけれども、形式的ということに対していえば、内容的な、あるいは実質的な民主主義の前では、かならず勝利するはずだというふうに思っているわけです。

 そうするとここでですね、たいへん問題があるのは、この野党にしても与党にしてもですね、彼らが民主主義ということを口にするときには、都合のいいときは、国民というのは頭がいい人達で、都合の悪いときは、国民というのは教育されるべき対象だというふうになってきます。つまり、民意っていうのは、一方ではそれ自体尊敬されるべきもので、一方ではそれ自体教育されるべきものだという両方の意義を持ってきます。そうすると、あるときは教育されるべきであって、あるときは先導的な役割をはたすべきだというときの、その判断の基準はどこにあるのかということが最大の問題になります。

 つまり、別にいいんですよ、安保条約反対というのは「あるべき」民意の姿なんだといったっていいけれども、問題なのは、ここに区別が生じているわけですが、そうすると区別の基準は一体何に置かれるのかというと、これは絶対、これ自体客観性はないんですよ。これは論理的に明らかだ。どういうときに「在る」民意はそれ自体、直接的に従うべきであって、どういうときに「在る」民意が教育されるべきかという問題はですね、そのどういう場合っていう区別の基準というのは、論理的な整合性を絶対に持たないということははっきりしているんじゃないか、ということです。というより、そういった区別の基準こそ、「在る」民意におくというのが民主主義なのであって、その意味では民主主義とは「形式的」にしかありえないわけです。

 だから、たとえばいまみたいな政治情況の実際は、要するにもっとひどい言葉でいうとそれは、御都合主義ですよね。御都合主義でしか絶対に動かないわけです。それはなぜかというと、結局民主主義という問題も、ここの問題になってくるわけですね。結局ここは、僕は存在と当為の問題だというふうに思うわけですが、当為と存在との関係がぜんぜんはっきりしないわけです。

 たとえば、『朝まで生テレビ』の話ばっかりして悪いですが、アメリカのテレビディレクターで、訳の分らない駄洒落を言い続ける男がいますが、誰だっけ、デイブ・スペクターとかってやつがですね、西部さん、西部さんもこういうことを考えているわけですが、西部さんが言ったことに対して、いやまだ日本国民は、まだ民主主義というのが何かっていうことを分っていない。リクルートの問題にしても何にしても全然いい加減なまま済ましている。アメリカではこんなことがあったらすぐ大統領だって首になる。だから、アメリカの民主主義というのは成熟しているけれども、日本の民主主義というのは一人一人がまだ自立していなくて、村の寄合いみたいな仕方でしか、つまり個人が埋没している仕方でしか民主主義というのは成熟していない。だからまだまだ日本は駄目なんだみたいな言い方をするわけです。

 そうすると、それは割とアメリカかぶれしたですね、連中はみんなそういうことを言うわけです。でもそれは全くおかしい。たとえばですね、そういった議論をした場合、すぐはっきりしていることは、仮りに従属的な日本の国民っていうことを、つまり何かに従属して、けっして自分自体は人格を自立的な人格として見做さないというをですね、仮に従属するということ自体をそれとして意思しているとしたらどうなるという問題があるわけです。

 つまり私がたとえば、あるものに従属して生きるといことが私にとってはひとつの選択なんだ。意思っていうことは選択ということです。選択ということです。そうすると、これ民主主義の立場に立てばこれを認めなきゃいけないわけですね。認めなくてはいけない。つまり民主主義というのは、単に自立するっていうことがどうだという話ではなくて、自立するにしても従属するにしても、そのことを自分で選択したということが、もしそれとしてあるならば、それを文句言ってはいけない問題になってきます。だから、たとえば、日本人的な村社会の寄り合い的な相互依存的社会というのを、たとえば日本の国民の国民性として日本人がもし選択しているというところで起こっている事態であるとすればですね、それは、それ自体民主主義的なことだという問題になってきます。

 そうすると、民主主義の問題というのは民主主義の内部で処理できないという問題になってきますね。つまり、民主主義というのは、非常にいいかげんな原理だ。つまり、さっきも言ったように、非常に都合がいいようにしか動いていかない。つまり、自分達がやろうと思っていることで世論調査で、たいへん高い数字が出たら、われわれは国民を代表してやっているんだみたいな話しになる。で、都合が悪い数字が出る、あるいはたとえば選挙で負ける。そうすると、われわれの言っていることが御理解いただけなかったみたいな話になってしまう。御理解いただけなかったというのは、早く言えば、国民は馬鹿だったから俺等が正しいことを分かってくれなかったんだという話しですよね。分かってくれなかったんだという・・・。

 たとえば共産党なんかは、今回は自民党の非常に強烈な包囲網に包囲されて、駄目だったとか、あるいは、社公民が共産党攻撃をし始めて駄目だったとか、まあそれは社公民も同じことを言ったりしますが、それでわれわれは勝てなかったみたいな言い方をします。それは、たいへん訳の分らない言い方ですよね。つまり、負けたっていう場合に、負けたことをそれ自体で答えたっていうふうに受けとめないで、その場面では、国民に対しての働きかけなり、働きかけた結果、国民の反応が鈍かったという話をしていくわけですから、それは、民主主義ということで言うと、ここの使い分けが、そのつど勝手になされていくという・・・勝ったときは、「在る」民意に対してわれわれは勝利したという話になります。

 (…)この区別の基準ということが、それ自体としては絶対に客観性を持たないからであって、これは Sein と Sollen の問題がその根底にあるということですね。解決できていない。だから、いま、民主主義というのを哲学的に考える話をしているわけでも何でもないんであって、民主主義というのは、そこまで考えないと、何も哲学的に考えるとこうなりますよという話をしているのではなくて、まさにそれは、民主主義の問題なんです。われわれは、特に私以降の世代は、というかもっと前からですが、民主主義という教育を受けてきて、大変すばらしい制度だという話で、ずっとそういう教育を受けてきたわけですが、しかし民主主義の問題はですね、大変いいかげんなところがある。まあ、いいかげんなところがあるのがいいんだというふうに言われては、元も子もないんですが、そう手放しで任すことができるシステムでは決してないわけで、問題は、こことここに分れること自体は別にいいんですが、ここの区別の基準というところで、非常に曖昧なところがあるということです。

 それで何が問題なのかというと、結局のところ、こういった問題は、 Sein と Sollen の問題になります。つまり、「在る」ということが、そのままなかなか「あるべきだ」というところへ繋がらないという問題ですね。「あるべきだ」というところへ繋がらない。たとえば、一人の人間が、先週も話しましたが、たいへん困窮している。困窮しているというところから、その困窮を打ち返して、革命運動に立ち上がるか立ち上がらないかという問題をいくら Sein のレベルで議論していって、だからお前は立ち上がるんだとか、だからお前は立ち上がらないんだという話しをしてもですね、その立ち上がらないという話をしたからといって、その人が立ち上がらないとは限らないし、立ちあがるんだだからお前はという話をしたって、その人が立ち上がるとは限らないわけです。そうするとやはりここには、さっきから話しているように、断絶があるわけですね。断絶がある、という問題があります。

 それじゃあ、「あるべき」だという問題は、何なのかということです。哲学というのは、科学−−いちばん最初のときに哲学とは何かというのを書いてもらったときに、いろいろ書かれている方があったのですが、科学、サイエンスですね、科学と哲学との違いについて書かれている方もあったし、ただ単にものを深く考えるという点であれば、科学と哲学とは別に変わらないだろうしなんていうふうにして自問されている方もおりましたし、そのとおりなんで、ただ単にものを根源的に深く考えるという意味であれば、科学者も深く根源的に考えているわけですから、哲学者とその点でそんなに変わらないわけですね。

 そのことに今日は、少しは役立つ答えをしたいと思うのですが、科学というのは Sein にだけ関わるわけです。それは科学がどんなに発展しようとそうだと思います。おそらく解答としては決定版だろう・・・つまり、「在る」もの、「在る」ものに対して関わるわけです。したがって科学はいつでも過去にしか関わらない。つまり、「在る」ものというのはいつでも「在った」ものでしかないわけですね。で、在ったものだとしてもそれは反復可能なものとして現にあるものでもあるわけですが。で、ここの話しからするとお分りいただけると思うのですが、事実、存在しているもの、たとえばこのチョークの成分がどんな成分なのかみたいなものが、科学が明らかにすることができるわけです。で、それは、この存在というのがすでにあって、この存在の組成が問題になるわけです。あるいは社会学でも、社会学が科学だという場合も、社会という存在がすでにあって、その社会の組成がどうなっているのかみたいなことを問題にしていけばいいわけです。それは、広い意味で、Sein を対象にするということです。Sein 、つまり存在ですね。存在しているものを対象にする学問というか、思考が科学だというふうに考えてもらえばいい。

 それじゃあ哲学はどこで区別されるのかというと、哲学は Sein と Sollen の問題を問題にするわけです。これ自体を問題にする。Sein と Sollen の問題が、それじゃあ関係する場所って何かというと、それはアルケーなんです。そういうふうに話は繋がっているわけですが、つまり、ここで私が Sein と Sollen との間に境界線を引いた場面というのは、始まるということです。まあ、名詞で言うと始まりですね。始まりが問題になるわけです。なぜかというと、始まりというのは、無から始まらなきゃおかしいんですね。というのは、あることが始まるというときに、その始まるということが、もう少し前からあったのであれば、その始まりと言ったときの始まりは始まりじゃなくて、もうちょっと前の始まりなわけですね。つまり、たとえばゼロから何かが始まるというときに、じゃあこのゼロの手前は何かといえば、これは無じゃないとおかしいですね。まあ、ゼロの問題というのもまたあるのですが。

 仮に、ここよりももう少し手前に、何かここから始まるものの徴候があったとしたら、それは、その徴候自身が始まりなのであって、始まるっていう概念はですね、存在、つまり「在る」ものであってはいけないわけです。「在る」ものであってはいけない。そうすると何かというと、それは「あるべき」ものなわけですね。あるいは、「あるはずの」ものなのです。もうずっとドイツ語で書いていきますが。単にずっとあるものであれば、「在る」ものっていうのは無いものなわけではないのですから−−というふうに言ったのがパルメニデスというギリシアの哲学者ですが、あるものはあるし、あらぬものはあらぬ、と−−そうすると、あるものはあって、あらぬものはあらぬものであるならば、パルメニデスにとっては、始まりという概念は不可思議なものだったわけですね。

 始まりということは、全く始まって在るものが無いときというのを前提にしない限りは、始まるということは言えないわけですから、そうすると、始まるというのはどういう存在かというと、無からの存在なのですね。無からの存在なのです。これはキリスト教の神学につながっていくわけですね。つまり、神が無から世界を創造したという議論があります。で、キリスト教の議論とギリシアの議論がつながっていくのは、まさにこのアルケーという概念、始まりという概念に関わってですね、特に中世の哲学で問題になっていくわけですが、無から神が世界を創造したってどういうことかという問題になっていきます。

 それは、純粋に哲学、つまりキリスト教の教義学の問題ではなくて、純粋に哲学的な議論として考えた場合は、無と存在との関係です。無と存在との関係というのは、さっきも言いましたように、「あるべき」存在の問題になってきます。つまり、さらにまた『唯物論と主体性』の話になると、貧乏であるということから、階級闘争に立ち上がるという関係は、どう考えてもここをいくらいじくりまわしたって、階級闘争 (...) 自然法則のようにして人々が立ち上がるという契機はないわけですから、この貧乏な人はですね、あるところで自分を無にしなきゃいけない。つまり、人が変わるというときにはですね、自分のなかに自分でないものを持ってこなくてはいけないですね。

 それを哲学者は「超越」というのですが、越えるということですね、超越ということをいいます。で、あるものが別なものになるというときにはですね、自分自身を、もう少し近代的な言葉でいうと自己否定ということですね。それで『唯物論と主体性』という座談会のなかでは、この自己否定ということが一体どこで生じるのかということが問題になっていたわけです。それは一体、Sein として、もともと自己否定というものそのものが、経済構造の、労働者階級の存在構造のなかに含まれているのか、含まれてないのかという議論をしていたわけです。それは、もし自己否定を超越という話しでいうとですね、含まれていたらおかしいのですね。含まれていたらおかしい。

 たとえばマルクスという一人の神でも何でもない人間が、19世紀に生れて、資本主義の解明の書である『資本論』を書いた。そうすると、このマルクス自身は資本主義の社会を解明する『資本論』という書物を書いた場合、マルクス自身は一体資本主義的だったのか、それとも非資本主義的だったのかという問題があります。もし資本主義的にマルクスが、資本主義社会の書物を書いたのであればですね、彼は、資本主義の落とし子として存在しているわけですから、資本主義を全体として問題にできるわけないわけです。資本主義をそれ自体として問題にするには、この外に出なければいけません。外部を見なければいけないわけです。

 資本主義の外部というのは共産主義であるわけですが、この外部というものを、資本主義の外部−−この外部、矢印(黒板を指示しつつ)はまさに超越ということなのですが−−、超越する契機を持ってないといけない。そうするとですね、その超越するバネ、つまり資本主義のなかにいながら、資本主義社会を超越して、資本主義社会を全体として問題にすることのできる能力というのは、その能力自身はどこから出てきたかという問いが、丸山の問いなのです。丸山真男が必死になって話していくなかで、丸山真男はそのとき私と同い歳ですから、松村とか古在とかという頑固者のマルクス主義者を相手にですね、どうも僕の意図がはっきり伝わっていないとか言いながら議論しているわけですが、そのある社会が変わる、それはある社会が超越しなければいけないということですね。あるいはある人間が変わる、それは、自分自身が、自分自身でないものを、少なくとも一度は、あるいは一瞬は見なければいけないわけです。俺は変わったということを言うときには、少なくとも、自分自身が自分自身を変えていく能力を問題にしなきゃいけないわけで、そのときは、自分が自分の外部に一度出なきゃいけませんね。一度出なきゃいけない。そうすると問題は次の時点で問題になるわけで、その出るという力は、一体自分の外にあるのか内にあるのかという問題になってきます、論理的にはそうなる。

 それは超越の根拠ということですね。根拠ということです。で、これを完全に自分の外にあるものだというふうにやってしまった場合は、それは神秘主義とかロマン主義になってきますね。つまりそんなものは、あるとき偶然に訪れて、まあたとえば、何ていうんですかね、悟りのように、あるとき偶然、私は啓示を受けたとかって独言のようにしゃべる人がいますが、そういう人はですね、この超越の根拠というのを外に置くわけですね。つまり外へ出ることの根拠を、それ自体外に置くわけです。

 で、(...) 逆に、こういうふうにすれば人間というのは変われるんだよといって、ハウトゥもののように自己変革を説く人がいます。それは超越の根拠を内に置いているわけですね。つまり、いま私の言っている議論はたいへん、まあある意味で複雑なんですが、外へ、外へ出る根拠ということですね。この、つまり一回目の外が問題じゃないんです。二回目の外が問題なんだ。つまり外部に出るということが、Sein と Sollen の関わりの問題なわけですが、この外へ出る根拠自体が、一体外にあるのか、それとも内にあるのかという問題をめぐってキリスト教の教義学の無からの創造という問題もそうだし、ギリシアの万物のアルケー、万物の始まりという議論もですね、そこに端を発しているわけです。

 さっきもいいましたように、もし外に出る根拠それ自体を外に持ってくるのなら、これは座談会でも言われていますが、神秘主義とかロマン主義がここで出てくるわけです。つまり、もう外に出る根拠は外にあるものだから、そんなこと理論的に説く必要はないわけですね。話として美しければいいという話になったり、自分がそれで満足してればいいという話になります。

 だから、仏教で言うと禅宗がそうですね。こんなこと言ったらまた大変怒られるかもわかりませんが、禅宗と、浄土系の宗教−−浄土宗と浄土真宗とか−−っていうのの違いはですね、禅宗というのはもしこういう整理の仕方をしたらこっちに傾いていく。なぜかっていうと、彼らは修行っていうことを言うわけですね。座禅なんかする場合ですね、自己鍛練が問題になる。あれは生きながらにして死ぬということが問題なわけですね。だから、自分の身体性というのをある意味で無の状態に−−箸の上げ下ろしといったことまで含めて−−まで持ち込んでいくわけです。この持ち込んでいくという場面は、個人的な鍛練の問題にないきます。だから滝に打たれたり、よくある話として言えばですよ、滝に打たれたり、山へ登って修行したりして、座禅しているときに蚊が刺そうが、蛇が首締めて殺しに来ようがですね、動いちやいけない...そんなことで痛いとか痛くないなんてことが問題でないようなところまで自分を持っていきます。まさに無の問題に関わってきている。

 つまり彼らは Sollen という問題を、自己鍛練の問題として考えるわけです、「あるべき」自分の状態というのを。で、これは極端に言うと、朝早く起きてジョギングしているおじさんとかおばさんがいますが、あるいはエアロビクスとかやって体を良くしようとか、野菜を食べて健康になろうとかですね、ああいう系統の動きはみんな禅宗なんですね。そんなこと言ったら怒られますが(笑)。ああいう人を見ると私もう、非常に腹が立つんですが(笑)、長く生きて何が言いたいんだと思うんですが、それはなんでそんなことに、あれはですね、禅仏教です。そんなこと言ったら禅のあれやられている方はかんかんに怒ると思いますが、エアロビクスとか、ジョギングやっている「連中」と思わず言ってしまいそうになりますが、「方々」はですね、この Sollen の問題ですね、「あるべき」状態というのを、自分の努力というところで持ってくるんです。

 そうするとこれ、思想としてどうなるかといいますとですね、いい気なもんだということになります(笑)。ジョギングしてして気持ち良かった、それはいい話ですねって話になるし、禅で...私は非常に心がいま、ゆったりして、非常に、ギリシア語でアトラクシアといいますが、平穏な状態です。もう、何ていうんですかね、無の境地なんですね。それは、それは良かったですねという話で(笑)終わっちゃいます。絶対に終わります。もちろんそのことについて絶対終わってどこが悪いんだという話になれば、それはそこで議論になりますが、絶対終わっちゃうんです。

 ...なぜ終わっちゃうか...。それは、非常に下世話な言い方でいうと、禅仏教というのは結局のところ個人主義だからです。それはさらに哲学的にどうなるかというと、それは超越する根拠という問題を、自分はもちろん禅...とか Sollen の問題にぶちあたっているわけですが、外へ出る根拠というのを、それ自体外に置くからです。だから、それはまあもう少しヨーロッパの言葉でいうとロマン主義ですね。ロマン主義なんです。ある人間が、どれだけ自分を、まあ極端にいうと、気持ち良くするかといいますか、自分自身の掲げている課題に対して満足を得るかという問題に必ずなってきます。必ずなっていく。そうすると、ジョギングして気持ち良くなるやつもいるだろうし、エアロビクスして気持ちよくなるやつもいるだろうし、あるいは、座禅をして気持ち良くなるやつもいるだろうという程度の話にしか絶対にならないわけですね。ならない。それはそれじゃあどうなるかというと、それは人それぞれだなという話になって終わってしまうわけです。終わってしまう。

 で、その問題またやっていきますが、今度、じゃあ外へ出る根拠を内側にしたらどうなるかというと、これはハウトゥものの世界になります。あなたもこうすれば美しくなるるとかっていうやつは、それはお前勝手にしろよなんて話じゃなくて、こうやってこうやってこうなっていけばこうなるよという話を、どんどんどんどん内部的に、まあ言ってみれば科学的にといいますか、...かなんか知りませんが、科学的にもっていくわけですから、これは実用主義、実用のレベルの話しになっていきますね。プラグマティックな話しになります。それは、こうすればあなたは変われますよということを誰の目にも明らかなように呈示していくわけですから、外へ出る根拠を、絶えず内へ内へと持ち込んでいくわけですね。だからそれは、技術主義といってもいいし、プラグマティックな思想なんです。技術主義になります。

 『唯物論と主体性』という座談会はですね、世の中で優秀と思われている−−賢いといいますか−−思想家が集まって、何を問題に、何が露呈されているかといいますと、実はこういった問題が、何ひとつ解決されていない。それは何も、当時 1948 年のレベルで非常に程度が低かったという問題ではなくて、基本的に...なところで問題が考えられてないからですね。たとえば、丸山が民主主義の問題を呈示した場合でもですね、彼自身は、何とかそれを Sein と Sollen の問題なんだというふうに考えようとしているわけですが、たとえばわれわれが民主主義を問題にするときでも、比例代表性は民意が全体的にかなえられるから比例代表性のほうがいいんじゃないかとか、小選挙区制は死票が多いからよくないとか、そういう話しをしるわけですが、そうしたら、民意がちゃんと反映されたらどうするんだみたいな問題が一方でまたあって、さっきも言いましたように、民意っていうのは何かということが、ぜんぜん何も考えられていない。

 これは、哲学的に考えられていないという話しじゃなくて、やっぱり民主主義という言葉そのものが、ぜんぜん検討されていないということですね。それは別に哲学だから検討しなきゃいけないんじゃなくて、政治学者、また「生テレビ」の話をしますが、あの「朝まで生テレビ」の升添要一という東大の政治学をやっている教授が出ているんですが、何の役にも立ちませんね(笑)。それは、...(笑)民主主義のみの字も真剣に考えたことが一度もないということですね。一度もない。

 それは、しかし、ちゃんとした根拠はある。つまり、なぜ考えられなかったのかという根拠はあるんであって、この問題をですね、全体として視野に収める方法というのを、まだ近代といいますか、ヨーロッパ...ちゃんと考えれてきてないわけですね。考えてきてない。で、考えたと思った人も、やっぱりどっちかに寄っちゃうんですね。どっちかに寄っちゃう。つまり、済し崩し的に、内部へ内部へ入っていくか、それとも、済し崩し的にひたすら外部へ外部へと逃げていくか、どっちかなんですね。どっちかです。で、これはたとえば、山国に入って仙人か何かになるしかないし、こちらは、テレビか何かに出て、カッパブックスか何か書いて、大金持ちになって、人生けっこういけるな(笑)みたいに思って死んでいくしかないわけで、その人自体の生き方の問題にもなっていきますが、ここの関係がですね、一体どうなっているのかという問題を考えなきゃいけない。で、哲学というのは、そういった意味では、まさに...である。

 (...) 科学にはですね、こういった問題は絶対に出てこない。つまり物理学やろうと、経済学やろうと、社会学やろうとですね、それらの学問の当事者たちが、俺達のやっているのは科学だといっている限りはですね、こういった問題は絶対出てこない。それは、まあ、彼等が Sein だけを問題にしているからです。

 「あり」と「あった」の問題は、これは後期に触れようと思っているのですが、それは時間の問題になりますね。それは置いておくにしても、Sein だけを問題にしている限りは、こういった深刻な問題は出てこない。しかし、私達にとってというか少なくとも哲学の講義を取ってもらっているみなさんも含めて、私も含めてもちろん、私達にとって重要なのは、まさに外へ出る根拠というのが問題なわけです。これは、『唯物論と主体性』では変革の根拠になりますが、これは自己変革であっても、ある社会が変わっていくことであってもいいわけですね。そのことの問題を、外の問題として考えるか、あるいは内の問題として考えるか、あるいはそういった選択そのものがすでに問題であって、実はもっと別の問題を考えなきゃいけないのかというふうになっていくか、ということになる。で、この問題をですね、さらに来週以降やっていきたいと思います。

 以上、本日は終わります。(了)


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