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 * この一連の講義は1988年度法政大学通信教育スクーリング講座(於:市ヶ谷校舎)の一環として行われたものの録音テープを編集したものです。


哲学講義 (1)

1989.4.24
芦田宏直

 えーと先週はですね、皆さんに突然、哲学とは何かということを書いていただいたんですが、まだ二回ひととおり、ひととおり二回読ませていただきましたが、まだデータの集積ができておりません。で、やっと百人分くらいは、こういうふうに一行ずつまとめさせていただいて、書かせてもらっているんですが、年齢の分布では、百人の範囲内ではだいたい百人中六十人くらいが二十歳代の人です。あと十代と三十代と四十代が十五人くらいずつ、あと五十代以上のかたが三、四名くらいの割合いです、百人に対してね。ここの教室は三百五十人ですか。だからだいたい三・五倍してもらえば、だいたいこの授業の年齢層というのが見えてくるわけですが、そんな話は哲学の話とは何の関係もないんで、ただ私の年齢が何歳かと書かれた方もおられるんですが、私は三十四歳で、私より年上のかたもかなりおられます。

 したがって、僕なんかも、哲学の本を読むときに、自分より年齢が若い研究者が本を出したりしてくるわけですね。そうすると、とても読む気になりません、ばかくさくてですね(笑)。自分より年齢が若いやつがまともなことを書くわけがない、というふうに思いまして、読む気がおこりません。そういうところで考えてみますと、私より年齢の上のかたが、私の授業を聞いてくださるという話は、たいへんありがたいとともに、気はずかしい気持ちがしまして、そういう意味でも年齢を書いていただいたんですが、若い人間が、一体何を考えているのかということを理解していただくつもりで聞いていただけたらありがたいと思います。

 で、書いてもらったので、一応まとめた範囲では、四百人近い方に哲学とは何かというのを書いてもらいますと、だいたいほとんどのことは出尽くしてしまうわけで、これはおそらく哲学が、だいたい二千五百年くらいの歴史が−−さしあたってギリシアから始まって二千五百年くらいの歴史が−−あって、その歴史の累積のなかでみなさんが突然、哲学とは何か、というふうに聞かれても書けることの累積というのは必ずあるわけですね。それは、われわれが何を言ったかとか、何年ごろどんなことが起こったかということではなくて、歴史の累積というのは、そんなことあたりまえでしょみたいな形で受入れられていること自体が、実は長い歴史のなかで始めてあたりまえになった、そういったことがらとして存在しているわけで、そういう意味では、書いてもらったことの全ては、約二千五百年間歴史の成果なわけですね。いい意味でも悪い意味でも成果なわけで、それは無視するこはできないわけです。

 それで今日から授業をやっていくわけですが、その前に非常に事務的なことで−−書いていただいたことで−−気になることが二、三ありましたので、そのことについて先に触れます。ひとつは、この教室は、教員免許をとるかたがある程度おられまして、あるかたなどは、教員免許取得のため法学と哲学はとったほうが良いからとった、と書いておられるかたがありまして、この傾向はけっこうあったわけですね。つまり、この教室のなかには、将来先生になられるかたがいる。つまり僕のように、こういうふうに前に立って、授業をされるかたがいる。そのことは、ちょっと押えてきたいというふうに思います。

 もうひとつ。仕事上、全回分出席できないかたがおられる。つまり仕事上夜勤の関係とか、あるいは出張も含めていろんな仕事で、ここに来られないかたがいる。そうすると前回お話した、出席を重視しますという話との関連で、気にしておられるかたがおられる。これは全然予想していなかったことでありまして、どうしようかと思ったんですが、こういうふうにしましょう。一週間前にですね、来週の月曜日来れないと、それこそ会社の仕事の関係で一週間後の月曜日は夜勤があるとか、あるいは出張があるとかということが計画として分っている場合は、今日の段階、つまり一週間前の月曜日の授業の最後に私に申し出てください。そうすると私が代わりに、出席調査票を書かせていただきます(笑)。それは、だから、仕事の関係できちんとスケジュールが組まれていて、それが分っている場合だけです。したがって、そういうかたは、申告してください。出席扱いにさせていただきます。その二点です。

 〔今の〕二点目の方は事務的なことなんですが、〔前の〕先生になられるかたがおられるということを押さえておきたたいというのは、私、教師という職業をたいへん嫌悪しておりまして、ひとにものを教えるというのは、どうしようもないことだというふうに思っております。だいたい教えるということをやっている人間は、その分野の最前線で働いている人間ではないわけです。たとえば、僕はゴルフはやりませんが、ゴルフのレッスン・プロといいますと、これはゴルフのできない連中なわけです。つまりゴルフを教えるやつというのは、競技の最前線で自分の能力を最大限に発揮して仕事している連中じゃないんです。

 僕も今、こうやって教えるというところにいるわけですが、しかしやっぱり最前線に立っていない。つまり哲学というのは、先程もお話しましたように、ギリシアに始まってだいたい二千五百年くらいの歴史を持っているわけでずが−−さっき「累積」と言いましたが−−、二千五百年かけて人類というのは一体どこまでものを考えられるところまで来ているかということが、やっぱり前提としてあるわけです。で、いま僕が−−今平成何年かしりませんが−−、ここに立ってお話していることは、この二千五百年の最も最先端の場面の思考というものをみなさんにご紹介したい、そのことをお話ししたいということなわけです。

 したがって教えるという段の話になりますと、だいたいわれわれは、たとえば高校で倫理社会を習ったり、あるいは哲学の大教室で哲学史みたいなものを習う場合は、だいたいおおざっぱに言って、五十年から百年遅れたところでまとまっている哲学史であったり、哲学的思考の現在であるわけで、ほとんど最前線で活躍している思想家たちの業績というものは、なかに入ってこないわけです。で、それはその、教壇に立つ人間が怠けているということではなくて、教えるという段になると、知識(知られたもの)というものをみなさんに与えていくというふうになっていきますから、それは、教えるということ自体が持っている問題なんだと思うんです。

 そういう意味では、私は、いわゆる教師のようにしてみなさんの前に立って教えるという気は、ある意味では、ないんであって、先週書いていただいた話のなかに、やはりそういうことを感じられているかたがおられまして、たとえば、哲学史は知識をつめこむだけだ、そんなことをやるんであれば、一、二の哲学者をとりあげて深くやっていただきたい、というふうに書いているかたがありましたし、哲学史のつめこみではない授業をやりたい、というふうに書いておられるかたもある。これはもちろん、哲学史をやっていただきたいというふうに言われている方もおられるわけであって、その場合は、歴史というものそのものに自分は関心がある、したがって哲学史の授業をやっていただきたい、ということで言われているんであって、主旨としてはぜんぜんはずれてない。

 つまり哲学とは何かということを答えるときに、ソクラテスはどういうことを言ったとか、プラトンはどういうことを言ったとかなんて話してもぜんぜん意味がないのであって、むしろ、もちろんそういう話をしなくてはいけないわけだけれど、そのー、言ったということは一体どういうことなのかということを話していかないかぎり、話にならないわけですね。それはやはり、現代というものが、ずっと何千年も続いてきた思考の歴史に対してどんなところにいるのかみたいなことと無視しきれない関係にあるわけで、そのお話をしたいというふうに思っています。

 したがって私は、教えるというよりは、自分がいま何に関心をもっていて、どういうことを哲学をやっている者として考えているのか、で、そういうことを考えているやつがここにいるということだけを中心に授業をやっていきたいと思うわけです。したがって、この、私とみなさんとの関係は、教師と生徒の関係というよりは、みなさんも先週いろんなことを考えてもらって書いていただいた、その話と私の考えをなんとか交換させたいというふうに思っています。ところが問題がありまして、交換させたいと言いましてもですね、三百人以上、四百人近い生徒さんがおられるわけで、一人一人のゼミのようにして、ひとつのテキストを丹念に読んでいったりすることはできないわけですね。もしよければ、私が一時間話したなかで、何かご意見とかご質問があれば、授業が終わった後で、いつまででもつきあいますので、何がご意見がれば来ていただければけっこうです。

 私は学生時代に、哲学の教師に何度も裏切られまして、授業の後いつも質問にいくんてすが、立ち止まってくれませんね(笑)。研究室まで帰るまでですね、質問して答えてくれない。あるいは来週までに考えてきますと言って、一週間待っても何も言ってくれない。そういう先生ばかりに裏切られてきましたから、私だけはそういうことをやりたくない、そういうふうに思っています。だからもし何かあれば、全部に答えられるかどうか分りませんが、その場で答えられない場合は、あの一週間勉強させてもらって、必ずご報告したいと思いますので、よろしくお願いします。

 だから、ちょっと話がずれてますが、教職の免許をとられているかたは−−私も教職の免許をっておりますが−−、先生になられるかたも、必ず授業のなかで教えるとはどういうことか、あるいは影響って一体何なのか、影響という概念はですね、今もドイツに生きていますが、ガダマーという思想家がおりまして、この人は、ハイデガーという実存主義の思想家の高弟、非常に身近にいる弟子ですが−−ハイデガーはもう十年以上前に死にましたが−−、この人が影響ということを非常に真剣に考えている。影響ということを真剣に考えた人です。で、哲学的には影響という問題は、カントという思想家が、これもドイツの思想家ですが、カントは触発という−−これは別に書いてもらわなくて結構ですが−−概念、アフェクツィオンというのですが−−、アフェクツィオンという概念を、哲学のなかで初めてとりだしたのはカントなんですね。

 つまりある一人の人間が、一人の人間と出会って触発する。もちろんカント自身は、そこまで問題を広げて考えてなくて、感性と悟性との関係、あるいはそういった人間の認識と物そのものとの関係−−話がちょっと急に専門的な話になますが、ごく簡単に考えているわけですが、まあそれはおいておいて−−、少なくともあるものとあるものが触れあうときに生じる出来事といいますか、そういったものを触発という概念でとらえたわけです。これはたいへん難しい問題で、ガダマーはそのことを意識してですね、影響ということを言うんですね。つまり歴史というのは、現在と過去が何らかのしかたで影響しあう出来事だというふうに考えています。つまり影響というのはたいへん難しいんですね。

 われわれは通常、ある人間がある人間に影響を与えたと言いますが、分っているようで分っていない話ですね。つまり、A という人間が B という人間に影響を与えた。そうしたらこの人〔B〕はやっぱりA なんですね。つまりこの B という人は、A の 範囲内で−−いってみればまあこれは小文字のa で、小文字の b だとしますと−−、大文字のA というものがやはりそこに存在しているわけで、すると影響を与えたということのなかには、A と B が同じたという問題と、でも依然としてこれは違うからこそ、この人〔B〕は、この人〔A〕から影響を受けたということが言えるわけですね。そうするとこれは、差異がそこに存在する。そうすると、その同じ、つまり A という人が B という人に影響を受けた。そうするとそれは同じでありながら、なおかつ違う人格において同じということが起こっているという問題がでてきます。で、これは、哲学のなかではですね、カントという人間がですね、いちばん最初に、触発っていう概念のなかで考えはじめたことですね。

 それをもっと一般化させていけば、影響って言葉になっていくわけでが、哲学の場面ではですね、影響という問題はいまだに解決してないわけです。つまりある人間がある人間から影響をうけて偉大な人間になったとかですね、ある人間がある人間から影響をうけてだめな人間になってしまった。それはどちらでもいいわけですが、それは、あることが同じであるとはどういうことか、あるいはあることが違うということはどういうことかという話をですね、前もって解決しないかぎり、決して問題にならないんですね。問題にならない、わけで、これは教育という場面で問題にした場合、もっと深刻な問題になってきます。もっと深刻な問題になってくる。

 つまりある教師がですね、ある生徒を教えていて、その生徒が自分の影響を受ける、そして自分と同じような考えかたをしていくっていうのは、一応、影響なわけですね。そしてもし、その教師が偉大な教師だ、偉大な影響を与えた人間だという話になっていった場合ですね、その教育者っていうふうになった場合は、教育者というのは非常に悲しいものでですね、その、自分が教えようとしていることを生徒がそのまま理解して、なるほど先生そうですねって言ってもらっていたら、喜べるかというと、喜べないということがあるわけですね。つまり自分を蹴落としてですね、自分より立派な仕事をしていってもらいたいという気持ちが、一方でまたあるわけです。それはまさにここの問題なわけです。

 つまり生徒というのは自分と同じことを考えていてほしいという局面と、やっぱり自分を蹴落として、自分より違う人間になっていってほしいという気持ちが、真理のうえでは同在しているわけです。そうしたら、そのもし、自分がですね、自分以上のものを与える影響力というのは、どこに根拠があるのかという話を考えていったときに、それは少なくとも、真理的にはありえないわけです。ありえない。つまり同じでありながら、かつ違う生徒を育てあげなければいけないという場面に、教育者が面するとき、これは解決できないわけですね。みんなそれは偶然に任せちゃってるわけです。あるいはある場面では、おまえよく頑張ったなあと言ってほめておいてですね、そしてそいつがある場面で自分を蹴落としていって、離れていったら、なんてやつだあいつは、恩知らずだみたいな話になっていって、それの繰返しをですね、学校の教師ってやっているわけですね。

 これはたいへん難しい問題で、僕も他人ごとじゃないわけで、僕にも、あのー、その、哲学上の師匠というのはいるわけだし、影響を与えてもらった先生もいるわけですね。そしてその先生のもとにいろいろなことを書いていく。そうすると一応こちらは勉強しているわけですから、少しずつは先生に近付いていくし、ある局面ではですね、もうこの先生はいらないよ、と思う場面も出てくるわけですね。でも、もう先生はいりませんなんてことを書いてしまったらたいへんなことが起こりますから、そのあたりは、その、哲学上、同じと差異は何かみたいな話とはべつの段階でですね、教育するものと教育されるものとの関係で様々な葛藤が生じてきますね。それはあのー、みなさんの職場でですね、上司のかたと自分自身の立場を考えてみたときに、いろんな問題が生じてくる。それは、哲学の場面で考えると、やはりここの問題なわけです。

 で、これはギリシア以来、ずっと問われてきている問題ですが、同じものであると同時に違いがあるもの、という場面なわけですね。で、これは難しいわけです。で、もちろんこの問題を、この授業でやっていくわけですが、ひとつ教えるということをとってもですね、たいへん難しい問題がそこに潜んでいるということですね。で、そういう意味で言うとですね、先生になられるかたがたいへん多いということは、影響の問題とか触発の問題っていうのがですね、必ず教育の現場で問題になってくる。切実な問題になってくる場面が、必ずあると思うんですね。どういうふうに処理すればいいかみたいなものも、少しそういうかたがおられるということを念頭に置きながらですね、授業をやっていきたいと思います。

 で、あとですね、先週授業が終わった段階で問われたかたがいたんですが、テキストの資料候補についてですが、いちおう、あのー、講義要項ではですね、ヘーゲルの『哲学史序論』というのを買っておいてただきたい、というふうに書いていたんですが、もうひとつ『歴史哲学』というのはですね、私ちょっと不注意で、岩波文庫で出ていることは出ている、私も持っているわけですが、もう絶版になっているらしくてですね、古本屋さんに行かないとなということで、そんなテキストを使うわけにはいかないので、さしあたり岩波文庫のですね、この『哲学史序論』というものだけを買ってください。でこれは、あのー、この人数ですので、みなさんと一緒に読んでいくというわけにはいきません。ただしあのー、授業のところどころで参照したりするというかたちで使いたいと思いますので、よろしくお願いします。えー、まだ買われてないかたおられますか。あ、かなりいますね。

 えーとこれはなんか、生協で取り寄せられるという話をきいたんですが、生協にまだ来てませんか。来てる? あ、来てるらしいんで、えーとこれは星は幾つ? 三つ星、おいくらでした、今ひとつ星いくらかな? 四百五十円らしいですので、買ってください。これは、あのー、ヘーゲルの講義録みたいなものです。理論的な著作というよりは、ドイツの、これはどこでやったのかな、大学の講義としてしゃべり言葉で、弟子がですね、講義を記録したものがここに載っているわけです。確か、買って読んだけれどもさっぱりわからないから、やっぱり哲学は難しい、と書かれていたかたがおられたと思うのですが、なんとかこれをですね、すらすら読めるようなところまでもっていきたいと思っております。

 それで、えー、それで一応、先週のですね、百枚ぐらいをまとめてみた段階での話は、そういうことですね。あとまあ、個々のことでいろいろいろまあ例えば、哲学と心理学との区別がなかなかつかないと言われているかたもおられましたし、いろいろあるんですが、授業をやっていくなかでですね、答えていきたいと思います。まあ一応、これまでは前置きなんですが。

 それで一応、哲学とは何かということを言って、先週私はなんか不用意に、答えはあるんだみたいなことを言ったみたいなんで、そういうふうに書いておられるかたがいたんですが、哲学とは何かというとですね、これはおそらく単純な答えだと思います。いろいろな問題があるにしてもですね、それはその、始まりとは何かということが−−ノートを持っておられるかたは、このあたりから書いてください(笑)−−、始まりの開示性というふうに、さしあたり答えればいいんだというふうに思います。もちろんそういうふうに本に書いておられるかたもいますから。で、始まり、これはギリシアの哲学が始まった段階ですでに言われていたわけですね。

 アナクシマンドロスというギリシアの思想家がいまして−−ギリシアのソクラテスの以前の思想家ですが−−、この人が最初に始まりということばを使ったというふうに言われています。どこまで本当か知りませんが。というのは、その、前ソクラテス期の人間というのは、まだ紀元前五百年ぐらいのところの人間達なわけですが、直接に書いた人っていうのはいませんから、伝聞とか歴史家の叙述に従うしかないわけですね。だからあのー、このあたりの話は、一種の物語だと思ってもらって聞いてもらったほうがいいわけですが、その物語のなかでもアナクシマンドロスという人間が、始まりという言葉を使った。つまり哲学というのは、始まりを探究する、つまり始まりとは何かということを問い尋ねる学問だというふうに言ったといわれています。で、その言葉だけでもせめて、ギリシア語の原語で覚えておいてください。アルケー(arche)、ギリシア語でアルケーといいます。アルケーを問うということです。

 アルケーを問うことの意味は何なのかということですが、このアルケーはですね、次にラテン語の中世の世界になるとプリンキピウム(principium)という言葉に変わっていきます。プリンキピウムで、英語でプリンシプル(principle)なんですね。この関係を見てもらうと、ここ、原理ということですね。通常、原理あるいは規則というふうになっていきます。(板書が)ちょっと見にくいかな。

 始まりというのはですね、中世になるとこれは原理、 あるいは規則、でこれが英語でそのまま同じ意味になって使われてきます。で、すでに中世にですね、たいへんな変容が起こっている。つまり始まりという概念と、原理とか規則というふうな概念とはですね、これは少し違う。ここですでに、ギリシア的な精神というのはですね、失われてしまって、それで近代になっていくわけですが、ここでもう変質が起こっているわけですね。変質、まあ、いい意味でも悪い意味でも変質が起こっているわけです。

 ま、それは置いておきますが、一応こういう形でですね、哲学というものの規定が生じてきているわけです。で、いまここの歴史的な変質の問題は置いておきます。もともとギリシア的な精神としての、つまりソクラテス以前の段階で出て来た−−ソクラテスにおいて、あるいはプラトンにおいてもですね−−、このアルケーという概念はすでに変質しています。つまり、前ソクラテス期のですね、人間達が、哲学というのは始まりの学だと、学とまではいかないにしても、始まりを探究するものだというふうに言ったときに、その始まりって一体何なのか、つまりそこにこめる意味は何だったのかという問題がですね、すでにソクラテス・プラトンのところで、ここ〔中世〕から大きな変動が起こるのと同じようにして、変質してきているわけです。

 で、始まりっていうことの意味は何なのかといいますと、たとえばみなさんは、哲学っていうのは、いろんなことを書いてもらっているわけですが、たとえば人生観の問題なんだ、どうやって生ていくかっていう問題、どうやってよりよく生きるかという問題なんだとかあるいは、その、世界とは何かとか自己とは何かとか社会とは何かということを根本的に問い尋ねる学なんだとか、いろんな言い方されてます。

 こういった問題を考えていくと、必ず、始まりの問題になっていきます。たとえば、非常に分りやすい例で言いますが、物理学でですね、素粒子の世界ってありますね。で素粒子の世界っていうのは、その何て言うんですか、僕は理系の人間じゃないから分りませんが、遠心分離器みたいなでかいやつでですね、物質を−−非常に簡単に(粗雑に)言いますよ−−、物質をぶち当ててですね、どれだけ力強い力で、物をぶち当てるかという問題なわけですね、極端に言うとですよ。そうすると、力強い力でぶち当てればですね、力強いほどですね、物質っていうのは細かくなっていきますね。細かくなっていく。まあこれくらいの物というのはかなり大きいわけですが、素粒子的に言うとですね、もっと考えられないくらいの力で、さらにこの小さなたとえばチョーク片をですね、ぶち当てます。そうするとこのチョーク片、もっと細かくなっていきます。でその極限までやっていくとですね、物質の元のアルケー、始まりって何なのかという問題になっていきます。

 でこれはただ単にですね、微分化して細かくするということが問題じゃないんです。つまり細分化していって、物質の極限の要素−−要素って言い方おかしいですが−−物質の究極っていうことを考えます。そうすると物質の究極っていうのはですね、いかにも小さいことを問題にしているようですが、物を細かくしていくとですね、何と言いますかね、たとえばわれわれを、いま二メートルとか一・五メートルという視野で見ていると、それぞれの人間は顔も違うし、形も違うわけですね。で、これを生物学的な言いかたで言ったらいいと思うんですが、心臓というところで見ちゃう、あるいは、心臓というところをもっと細かくしていって、何て言うんですかね、細胞というところまで見ていく。で細胞というところまで見ていくと、一・五メートルとか二メートルの身長の高さで見ている世界というのは、おそらくその世界で見えてくる違いというのは、なくなっていくだろう。つまり細胞まで見ていってしまえば、私とあなたという人間関係はですね、おそらく同一のものとして見えてくる。さっきの同一という問題を狙ってるんですが(笑)、同一のものに見えてくる、

 そうすると、さらに細胞というところで見ている限りはまだですね、有機体と物質との区別っていうのは依然として存在しているわけですね。だから細胞っていうのをもっともっと極限までやっていくとですね、たとえばそこらへんにある石ころと成分の同じところまで、届くことができますね。そうすると、私がここに存在しているということと、石ころが存在していることとは、手をつなぐことができるわけです。つまり、細胞というレベルをさらに超えていってですね、有機体というレベルを超えてしまう。つまり、無機物と有機物が同一になるようなところまで細分化しいく。

 で、素粒子という世界はですね、もっと細かいところまでいっているわけですね。そうするとこれ、細分化していくってどういうことかというと、われわれの眼とか触角とか味覚とかというレベルで考えている違い、差異の問題はですね、細分化していけば細分化していくほど同一の方向へ転換していきます。そうすると、物質を究極のところで細分化していくということはどういうことかというと、これは、宇宙の果て、宇宙の果てまでですね、おそらくたどることができるだろう。つまり、これはおそらく、この〔物理学に携わる〕世界のかたがおられれば、当り前のことを言っていると思われると思いますが、物質をとにかく、どんどんどんどん究極のところまでもっていく、どこまで細かくできるか分からないけれども、どんどんどんどん細かいところまでもっていけば、われわれ人間だって有機体ですから、死んでしまうし、土に戻っていくし、だからさらにその土は、いろんな物に細分化されたものを、要素にしてもっているわけですから、それをもっと細かくしていくと、地球の外のもの、あるいは、宇宙の極限のところというところまで、おそらくこの同一のもので出来ているだろう。

 つまり細かくすればするほど、それは小さな世界を問題にしているようですが、その小さくするというのを、中途半端なところで収めずにですね、どんどん細かくしていくと、あのわれわれが今日誰々とけんかして来たとかですね、今日誰々と仲良くなったとか、そういうとこ−−それをくだらないと言っちゃまずいんでしょうが−−、そういった場面というのを全くとっぱらっちゃって、みんな同じなんだよ、というところまで行ける。

 でこれは、場合によっては、宇宙の果てにまで行くことができる、ということです。つまりあのー、究極の微分化というのはですね、無限の空間を内包することができる、っていうことが、おそらく物理学者がですね、素粒子の世界、あるいはそれよりもっと細かいとこみたいな話をやっているときに、想定していることですね。つまり、彼らはただ単に、玉葱を細かくするとかっていうような話をやっているのではなくて、おそらくそのー、極限にまで細分化していけば、突然反転してですね、宇宙の果て、というもの、宇宙の限界みたいなものが見えてくる場面があるんじゃないか、っていう話です。

 で、哲学の原理が始まりだということの問題はですね、まさに物質の究極という意味の始まり、まさにアルケーですね、その、今の例−−まあ、例だけで話をすのはまずいんですが、まあ今日は導入の話ですから例だけに止どめまずが−−、つまりどんどんどんどん小さくしていって始まりは何かと問うことはですね、ただ単に何年に始まったっていう意味の始まりではなくて−−つまり、そこが歴史学的な始まりと違うんですが−−、この始まりとしての究極っていうことを問題にするということは、同時にそれがどこで終わるか、どこで終わっているかという無限の全体、無限としての全体ですね−−無限としての全体っていう言い方はまずいかもわかりませんが、まあ同じことですが−−、無限としての全体ということをそこに内包しちゃうっていうことです。

 つまりギリシアの起源に遡って、あるいは思想達が問い尋ねていた始まりを問うという思考はですね、実はその、ただ単に何年に始るという問題ではなくて、その始まりを押えてしまえば、首ねっこをつかんでしまえば、われわれが死のうと生きようと宇宙が爆発しようと無くなろうとですね、絶えずそこを参照しながら全ての存在が存在しているような始まりというのをつかむわけですから、もうこれで死んでもいいやみたいな始まり、つまりみんな分かっちゃった、もう分かった、つまり宇宙は何でできていて、それより宇宙は大でも小でもないんだみたいな、そういった始まりをつかむ、それが、まあ言ってみれば哲学のですね、野望なわけです。つまり、これをはずしてしまうと、石も人間も、もちろん有機体も、あらゆるものがですね、存在としては存在しないだよみたいなものを捕まえるということですね。それは、アルケーを問うという意味での哲学の、やろうとすることなんです。

 これは明らかに、諸科学−−たとえば物理学とか経済学とか生物学とか、何でもいいんですが−−、そういった、たとえば生物学であれば、有機体としての存在というのは、もうそこで認めちゃうわけです。つまり前提に入っている。ここから先はもう知らないという前提を、必ず諸学は持っているわけです。社会科学でもそうです。社会科学というのはですね、社会というのがないと存在しない学問ですね。そうするとそれは、始まりじゃないわけです。始まりから何歩か先に進んだところから始まっている学問ですね。そうすると社会というのは何のことなんだみたいな話をやっていったとき、もちろん社会というのを社会学は定義はしますよ、定義はするけれども、定義しなきゃならないような社会というのは存在しているのかというふうに問い始めるとですね、そんな話は知らないという話しに必ずなるわけです。

 それは、始まりから、いわゆる物理学が極限の要素と言いますか、極限の物質までたどるという意味で言うとですね、始まりから何歩か進んだ段階での始まりなんですね。これはだから、数学でいう公式とかですね、公理とかですね、あるいはその学がもっている前提ですね。たとえば生物学というのは、有機体が生命を持つという前提がなければですね、始まらない。生命とは何かという問題は、生命というものを前提したうえで問われていきますから、それは生命の定義になっていきます。

 で、こういうもの、こういう「定義」で話をしていくこと、あるいは「定義」という仕方で獲得された「真理」、つまり無数の真理を哲学は全く信じませんね。なぜかっていうと、世の中に生物学とか経済学とか物理学というのが“在る”というのはどういうことなんだろう、あるいは、諸学というのが、ばらばらに、てんでばらばらに存在するってどういうことなんだろうということ、そのこと自体を問うていくわけですから、この始まりをここのレベルから始めるんじゃなくて、それを全部一まとめにして、つまり、ある場面で見ると物理学と経済学は別だと、で、これをどこまで下ろしていけば物理学と経済学は同じだというところが見えてくるだろうという問いをやっていくわけです。

 で、それは、ちょうど先ほども言いましたように、有機体でも、細胞というレベルで有機体は存在しているわけですが、それは、細胞を構成している、まあ物質的なものといっておきましょうか、物質的なものまで、どんどんどんどん降りていくと、ある場面でさっきも言いましたように、有機物と無機物の区別はなくなっていきますね。そういった、ある場面で別々になっているものと思われてるものが、実は同じ基盤を持っているんだ、みたいなところを、どんどんどんどん問題にしていく。でだから、そうしない限りはですね、たとえば経済学というのがなくても人間生きられるじゃないかとか、あるいは、生物学というのがなくったって生物は存在しているじゃないか、みたいなことが絶対でてきますね。絶対でてくる。

 哲学が問う意味でのアルケーというのは、それがなければどんな存在者も存在しないようなアルケーというのが問題なわけです。でそれをまさに、まさに新鮮な言葉なんですが、始まりというふうに、ギリシアのですね、前ソクラテス期の思想家が名付けたわけですね。でこのとき、その、つまり哲学はアルケーを問うんだというふうにアナクシマンドロスが言ったとされているわけですが、そのときの始まりというのは、まさに、先なるもの、それよりも先は絶対ないような先なるもの−−これはア・プリオリということですね−−先なるものとしての始まりが、哲学にとって最も重要な問題だということですね。

 えー、まあ、経済学とか物理学をされているかたは怒られているかもわかりませんが(笑)、えー哲学がですね、もし自分のプライオリティを−−というか優先性ですね−−持っているとすれば、どんな始まりも、それが実は、本当の始まりから二、三歩進んだところで始まっているということを指摘することが重要なわけですね。つまり、人々が、これこそ人間の前提(先なる第一歩)だろうと思っているようなものも、実はそれは、少し遅れていてですね、二、三歩われわれがつかんでいる始まりのほうが先なんだ−−まあ、そういう相対的な言い方をしたらおかしいですが(笑)−−、絶対的に先なるもの、というものをわれわれは問題にしているんだ、という意味での先なるものとしての始まりが、哲学という、何というんですかね、学問というわけじゃないんですが、哲学というものが、もっている使命というふうに言いましょうか、そういったものなんだ、というふうに思います。

 で、もし“定義”をするとするならですね、まあ、通常定義といわれているものを信じる必要はまったくないんですが、アルケーを問う、アルケーを探究するというのが、哲学の最も基本的な意識だ、ということですね。そういうふうに考えればいいと思うわけです。いい意味でも、悪い意味でも。で、この問題を巡ってですね、二千五百年間、およそ二千五百年ほどですね、われわれの先輩は考え続けてきている、ということです。これは、そう単純な問題ではない問題が、たいへん含まれているわけです。つまり、ただ単に物理学のようにでね、ぶつけて小さくなって、小さくなればなるほど、いろんな違いが同じに見えてくる、というようなやりかたをすればですね、そういった世界の始まりと終わりが見えてくるかというと、そうではないわけですね。そうではない。そうじゃないからこそ、たいへん諸々の意見が哲学史のなかで出てきているわけだし、諸々の困難がこの絶対的に先なるものを問う思考のなかでですね、出てくるというふうに考えてもらえばいいと思います。

 これは、そうするとですね、一体何の役に立つのかという問題が出てきます。それは、もうかなり先週みなさんが書いてもらったなかでも出てきているわけですが、ひとつ例を出したいと思います。急に具体的な話をします。具体的というか、歴史的に具体的な話をします。戦後ですね、ちょっとここ、ちょうどここの段階で、これ〔絶対的に先なるものを問うことが一体何の役に立つのかという問題〕は言いっぱなしの状態にしておきます。でこれはあのー、ギリシアの思想家を取上げたときとかにも話をさせていただきますし、このことを中心に私は話していくつもりですから、決して逃げるつもりでも何でもないんで、少し話を置いといてください。

 で、今日後半はですね、戦後の日本の思想というのが、どういう仕方で動いてきたかということを少しお話したいと思います。でちょうどいい材料がありまして、一九四八年二月にですね、雑誌、岩波の『世界』という教養雑誌がありますが、そのなかで「唯物論と主体性」という座談会があったわけですね。で当時ですね、出席者は、錚々たるメンバーが出席しておりまして、まず東大の丸山真男です。この人は今も現役で活動してて、五、六年まえは『戦中と戦後のあいだ』という本が、あれはみすずでしたっけ、出まして、ベストセラーになっていますね。この人は一応、政治思想の専門家なんですが、政治思想専門の論考を書いた事は一度もないわけですね。でも、たいへん影響力の強い思想家になってます。この人は当時、三十四歳でした。

 で、次は、これは、この人は死んだのかな、清水幾太郎という人がいます。娘さんは、確か学習院か何かでスピノザを研究していますが、この人も戦後のリベラル左派といいますか、六十年安保のときに指導的な役割を果たした知識人ですね。このひとは当時は−−今あげる人は、だいたいですね、ひとつくらいは論文を読んでおいて決して後悔しない人たちです−−、この人は当時、四十一歳ですね。もう活動がいちばん(・・・)。あと、松村一人という、当時、四十三歳ですね。えー、この人は、もう生粋の、ばりばりのマルクス主義者で、毛沢東、特に中国共産党系の左派の論客ですね。この人も、左派の人にはたいへんなじみ深い人のひとりです。ヘーゲル論理学の注釈なんかを書いています。

 あとは真下信一。真下信一は当時四十二歳。えーこれは、日本共産党系の哲学者で、当時からわりと、実存哲学に関心を持っている共産党の思想家のなかでもわりと良心的に実存哲学を解釈する思想家のひとりですね。この方もまさに有名なかたです。出身は私と同じ京都なんですが。えー次は、林健太郎。林健太郎はご存じのように参議院議員か何かになっちゃってますが、当時三十五歳ですね。この人は東大の総長もされて、当時、東大の西洋史学の代表的な先生のひとりですね。林健太郎さん、今は自民党で参議院議員されていますね。

 あと宮城音弥さん、宮城音弥というのは、この人もわりと哲学には造詣深いんですが、当時は社会学と、フロイト、フロイトの研究家、心理学の研究家として有名なかたで、その社会的な革命運動みたいなものをですね、フロイトの分析装置を使って議論していこうという立場をとられています。このかたも日本のですね、精神医学あるいは心理学の草分け的な存在です。あと最後は、古在由重といいまして、これはもう代表的な日本共産党の哲学者ですね。日本共産党の、いわゆるまあ公認マルクス主義を代表的する思想家ですね。日本共産党には、共産党の思想を代表する哲学者というのは何人もいますが、−−古在由重さんはもう死なれたのか、ちょっとその辺りは分りませんが−−、最近私マルクス主義と疎遠な関係になってまして(笑)、その辺りの人たちの動向は、ちょっと丸山真男くらいしか分りませんが、その総元締みたいな存在ですね、古在由重さんは。したがって、古在さんが言うことはですね、だいたい日本共産党の哲学思想がですね、どの辺りのレベルにあるかということのある種の基準になるわけですが。

 えー、こうやって名前をあげたのはなぜかといいますと、この人たちというのはですね、丸山真男とか林健太郎はこの当時三十四、五ですが、戦後三年たった段階で、だいたい七十年代前半ぐらいまでの思想をですね、決定的に影響づけた、まあ七十年までですね、七十年までの戦後思想を代表する日本の思想家なんです。誰一人ですね、ローカルな思想家になった人はいないわけで、えー、みんなそれぞれ、清水幾太郎なんていうのは、かなりいろんな連中に影響を与えてきた、左派の論客で、途中でこの人は転向してしまって、保守イデオローグになりますが、まあそういう意味では東大の西部邁っていう、歴史学者っていうか社会学者がいまして、最近は「朝まで生テレビ」とかに出ていますが、最近東大辞めましたね。東京外大の中沢新一という、私はどう考えても大したことはないと思うんですが、中沢新一という若い研究者を東大の教員スタッフにしようとして問題を起こした人なんですが。元は学生運動やっていてですね、左派の代表的な論客だったんですけれども、途中で保守イデオローグに転向していきますね。で、そういったことを、日本でいちはやく、根底的なところでやっちゃったのが、この人〔清水幾太郎〕ですね。清水幾太郎さんは、そういう意味では、西部さんなんかの先どり的な動き、つまり市民社会の思想的な習熟ということですが、そういうことを、すでにこの人はやっていたわけです。

 で、この連中というのは、ちょうど僕の世代と、僕がものを考え始めるちょうど中間、僕はだいたい、昔はこういう人たちにわりとなじんでいた世代なわけですが、ちょうどこう変わっていくところですね。だから、ここの世代で、二十歳代の人が一番やっぱり多いわけですが、その人たちはたぶん、みんな知らないと思うんですね、この思想家たちを。で、知らないと思うんですが、しかしあのー、決定的な影響を与えたという点ではですね、この人たちを無視して語れない。

 この「唯物論と主体性」という座談会、これ座談会なわけですが、座談会で一体何が話し合われたかといいますと、それはこの、アルケーを問うということは何の役にたつかという話と、私は結びつけたいわけですが、ここで問われているのはですね、要するに革命的な主体の形成の問題なんです。つまり、世の中というのが存在している−−変な言い方ですが。でその存在している世の中を変えたい。そうするとその今ある世の中とか社会を変える、あるいは自分自身でもいいんですが、自分自身を変えてしまう、ということは、どうやって可能なのだろうという問いがですね、まあこの革命って何も、社会主義革命というふうに考えないでもらいたいわけです、まあ考えてもらっても結構なんですが、今、世の中を変える、あるいはこの嫌で嫌でしょうがない自分を変える、そういった変えるということは、一体何を根拠にして行いうるものかという問題があるわけです。

 で丸山真男というのはこの座談会で、まあ読んでもらえば分りますが、この座談会ではですね、絶えず中心になって、このマルクス主義者の松村一人とか、あるいは真下信一、古在由重らに食ってかかっていくわけですね。つまり、階級的意識というのが、社会がどんどんどんどん労働者階級が貧困化していって、革命が成就する、革命が間近になっていく。そうするとその革命を起こそうとする階級意識というのは、これは丸山が言うんですが、これはもともと在る意識なのか、それとも在るべき意識なのかというふうに、彼は問いを発するわけです。つまり、階級意識というのは、人々がどんどんどんどん貧乏になっていく、そして貧乏になっていくと、貧乏に耐えられなくなって、自然発生するのか、つまり貧乏で在るということが、自然発生的に革命を起こす主体を形成するのか、それとも貧乏というのは、ただ単に貧乏でしかないんであって、貧乏で在るということから、直接自然発生のようにして革命的な主体が生れるというのは、別の問題なのか。

 そこにはやはり、まあ当時の言葉で言うと、前衛党というのが存在して、無知蒙昧な大衆を指導すべき階級、いや、組織というのが存在しているんですね。この組織が、その貧乏な人たちを指導して、革命的な主体を形成しなければ、革命的な主体はですね、自然発生のようにして存在しないんだ。つまり階級意識というのは、在る意識ではなくて、在るべき意識なんだ。この問題は対立するわけですね。対立するわけです。

 で、このことを巡ってですね、この非常に、日本を当時代表した思想家たちがですね、非常に混乱する意見を、それぞれ勝手に吐いていきます。つまりこの問題はたいへん難しいんです。どういうことかと言うと、少しその議論を...。まず宮城音弥というのは、これは心理学としての、科学者としての立場からですね、発言していきます。少し読ませてもらいますと、「イデオロギーそのものを我々は客観的に科学的に処理することができる。革命を成就していくようなイデオロギー自身−−これを主体性という言葉で呼んでおけば、その主体性そのものを我々はやはり客観的に分析し、科学的に処理していかなければならない。つまり主体的なものはある。しかし、どうしても客観的に処理できない主体性というものはない」、というふうに、宮城音弥は科学者としての立場から発言します。

 つまり、宮城音弥はですね、階級意識というのは「在る」意識なんだ。つまりこれは分析できる。つまり、たとえばロシア革命ならロシア革命というのを例にとって、その当時の、貧民層と下層労働者が立ち上がっていく経過というものを、科学的に分析できるんだ。そしたら同じような状況が与えられれば、必ず労働者階級はですね、同じような行動に出る。つまりそういう意味で、階級意識というのはもともと「在る」意識であって、それは「在る」から科学的に分析するということは十分に可能なんだというのが宮城音弥の立場です。これは科学者の立場ですね。

 同じようなことは宮城音弥は他でもいくらでも言っています。「科学が世界観を生むかどうかは分らない」。つまり、宮城音弥は、科学というのは世界観を生みようがないというふうに考えています。「実践の方法として科学があると言えるのですから、世界観もどうしても科学に規定されてこなければならない」。さらに、「科学の方法と言うのは道具のようなものです。道具は使い誤るということもありましょう。だが使い方の如何にかかわらず、道具はやはり道具です」というふうに言っています。つまり宮城音弥はですね、科学っていうものをいくら科学的にある事柄を分析してもですね、同時にそれが主体の形成っていうふうに繋がるかどうかは、科学っていうのは判断できないというふうに考えるわけですね。そう考える。むろん、宮城は、主体という概念を放棄しているのではなくて、逆に言うと、宮城は、科学的対象にならないような主体は考えるべきではないと考えているわけです。

 これはもっと簡単に言うと、革命の問題でもなんでもなくて、たとえば煙草を吸う人がいる。煙草を吸うってことが科学的に大変悪いことだ。で科学者が分析していって、煙草を吸うということは体にどんなに悪いことかということを、とんどんどんどん科学的なデータを累積していって、煙草が悪い、こんなふうに悪いんだということを、もうスライドを見せていろんなことをやって、ゲロが出るほどいろんな嫌がらせをやって、科学的データをその煙草を吸っている奴の眼の前で見せつける。そしたら、それはイコール煙草を吸わない主体を形成することになるのかという問題です。いいですか。世の中にはですね、たとえば煙草を吸うということが大変悪いということを知っていても煙草を吸い続ける人はいるわけですね。いるわけです。

 でそれを、そういうことを解釈するときに、二つのやりかたがあります。ひとつは、こういうことです。それは科学主義の立場の人ですが、その人は本当に煙草が体に悪いということを、まあ、本当のところは知らないんだ。つまり、不徹底にしか知らないから、煙草を止めようとしないんだ、という言い方です。結局のところともかく知らないんだということですね。ところがこちらのほうに立つ人は、極限までそういった煙草を吸ってはいけないという知識を自分のなかに詰め込んでもらっても、そのことと、煙草を止めるということとは、全く別の問題だ。つまりどうしても、まあ言ってみれば、科学的に処理できない自分というものが存在する。まあ、変な言い方をすると、非合理なものが残る。非合理な自分。つまり自分っていうのは、自分が自分を考えるということは、科学的な成分だけ自分というのがここに、自分というのがあるんじゃなくて、それはどんなに科学的なデータを重ねていっても、そこに解消できない自分というものが残るんだ、という問題がもう一方の問題ですね。もう一方の問題です。

 でこれは『唯物論と主体性』とはたいへん物騒な題がついていますが、ここで、えーどこですかね、何ページくらいの論文だったか忘れましたが、まあとにかく議論されていることはですね、この科学っていう問題と、主体っていう問題が、どう絡み合っているのか。つまり一方で科学的な分析っていうのが必要だ。そのなかで科学的社会主義、つまりマルクス・エンゲルスが創始した科学的社会主義っていうのが存在していて、それはあくまでも科学、科学的なものをなかに内包した革命理論なわけですね。ところがそれじゃ、科学、それは科学に過ぎないのかというと、一方で階級的な主体が形成されていくと、そしてある資本主義の内的な必然性によって、必ず階級的な主体というのが形成されていって、社会主義革命が起こる、という問題が一方である。そうするとそれは単に科学の分析の問題ではなくて、主体の形成という問題にマルクス主義は関わっているわけですね。

 そうすると、マルクス主義が答えなくてはいけないのは、そういうふうに、まあたとえば煙草の例で出しますと、煙草を吸うのは体に悪いというひとつの科学的なデータと、そのデータを眼の前に見せつけられて、その見せつけられた人間が、その吸おうとしている煙草をやめるかやめないかという、非常に微妙な問題−−それは「主体の問題」ということなんですが−−、その問題なわけです。それは革命理論を例に出すと、いま資本家階級はこんな悪いことをやっている。で、こんなふうにして労働者を搾取している。この労働者を搾取しているこんな悪い資本家を前にして、君は立ち上がらないのか、というふうにしてわれわれは学生のとき何度も言われたわけですが、それは立ち上がれない。で、立ち上がりたいけれど立ち上がれない自分がいるみたいなところで、主体の問題というのは出てきたわけです。

 だからこれはもっと下世話に言うと、理屈というものと実践というものになってきます。あいつは理屈ばっかり言って何にもやれない男だ。あるいは哲学っていうのは理屈の学だというふうに書かれたかたがいましたが(笑)、理屈と行動と言いましょうか、あいつは言葉はいっぱいいろんなことを言うけれども、何にもやらない奴だ。何にもやんない奴だ。で、これは、実はここの問題なわけです。つまり、或る、或る理屈がある、でそれはそのとおりだ。そのとおりだけれども、何にもできない、っていうふうなところに、われわれはいくらでもぶち当たるわけですね。ぶち当たる。で、そういった問題をですね、当時の優秀な理論家たちが集まってすったもんだやっているわけですね。だから、宮城音弥っていうのは、科学っていうのをいくらひねくりまわしても、主体っていうのはまた別の問題なんだ。つまり科学は単に道具に過ぎないんであって、その道具をどう利用するかなんてことは、科学をひねくりまわしても出てこないんだ、という立場を宮城音弥はとるわけです。

 そうすると真下信一−−これはマルクス主義者ですね−−、真下信一はですね、次のように言います。「宮城さんは、唯物史観はマルクスの方法論だと言う。マルクス主義は科学だと言われる。つまり、世界観ではない。宮城さんと僕との違いはそこなんだ。弁証法的唯物論は、すぐれた方法論でもある。しかし、本来、一つの世界観だと僕は思う。そうでないと実践という問題が出てこない。せいぜい、行為、技術、産業、それで事がすむ。そういうこと一切は、何のために、どういう目的でできたか。それの意味は何か。この問題に答えるのがマルキシズムだと思います」というふうに言っています。つまり、この科学っていうのは確かに、原子爆弾というものを作る。で、原子爆弾を作るということ自体は、善でも悪でもない。つまりそれをどういう目的で使うかということが重要だ。そうすると、われわれがやるべきことは−−われわれって真下なんですよ−−われわれがやるべきことは、ただ単に原子爆弾をどういうふうに作るかということをやるんじゃなくて、それは作った原子爆弾をどう利用するか、何のためにそれを存在させるかということまで絡めて考えなければ、思想の問題は出てこない。で、それを真下信一は世界観という言い方をしたんですね、いまね。

 つまり、世界観というのは難しい言葉ですが、これはまあ生き様と思ってもらっていいんです。つまり、どう生きるかという生き様を含めて、科学の問題を考えないと、宮城さんのように−−宮城さんのようにというのは真下信一のセリフですよ(笑)−−宮城さんのように科学なんていくらやったって、その、原子爆弾そのものを善でも悪でもないものとして創出することができる。で、それは主体の問題としては絶対に生じない、というふうに言うわけですね。で、真下は、真下信一はそうではなくて、やはりわれわれが考えるべきことなのは、そういった科学的にできあがったものを、何の目的で存在させるか、どういうふうに利用すべきかということまで含めて考えなければ、思想の問題に答えられない、というふうに真下は考えるわけですね。真下は考える。

 で、これはなかなか解決しない問題、たいへんむつかしい問題で、もうちょっと話をしますとですね、古在由重はそのとき何と言うかといいますと、「科学的社会主義の特質は、人間の全面的解放の決定的条件が物質的条件だという点にある。解放の決定的条件も物質的なものだと認めるところに科学的社会主義の特徴がある」というふうに言います。で、これは公認マルクス主義の基本的な見解ですね。で、これは何を古在由重は言っているのかというと、やはり、マルクス主義が科学的だと言われるゆえんはね、この主体というものの形成こそを科学的に考える、というふうに考えます。主体の形成という場面こそを、科学として考える。つまり、これは宮城音弥の科学主義とはちょっと違っているわけですね。

 つまり宮城音弥は、主体と科学なんてもともと別のものだ。つまり科学というのをいくらいじったって、煙草を吸うのが体に悪いということがいくら真理であったって、そのことを教えるということと、教えてもらった人が煙草を吸うのをやめるということは全然別の問題だというふうに宮城は言います。ところが公認マルクス主義の立場ではですね、そうではなくて、煙草をやめさせるところまでを、科学の問題として考えるわけです。つまり、どうして煙草をやめさせるかということは、科学的に、あるいはいまの古在の言い方でいうと物質的なもの−−物質的なものということは科学ということです、科学の対象、自然の対象ということです−−自然の感覚の対象物のようにしてですね、その、主体の形成というところまで科学で考えなきゃいけないんだ、というふうに考えるのが、古在の、あるいは当時の、いまでもそうですが、マルクス主義の主体性論ですね。主体性論なわけです。

 で、逆に科学と切離して主体というものを考えるということは、ある意味で神秘的なものとして主体を考えていくことになりますから、つまり科学的な分析の対象にのぼらないものを主体として考えていくわけですから、それはまずいと。つまり、ここ、ここともし完全に切れてしまったら、つまりマルクス主義は何を心配しているかというと、社会を分析するということと、その社会を分析して、この社会を変えなきゃいけないんだという気持ちになって、前衛党に集結していく人々の動きというものを、同時に科学の分析の対象にならなければ、社会が悪いといったからといって、その社会が、変革されるということには何もつながらない。必要条件にはなるにしたって、必要十分条件として主体というのがそこから必ず出てくるというわけではない、というのがマルクス主義の立場なわけですね。

 これに対して、丸山真男さんは批判するわけです。たとえばですね、彼はこういうふうに言ってます。現にある人間というのが革命的な態度を持つという場合ですね、必ずある階級が貧乏になれば、その貧乏な階級はですね、金持ちの階級の連中に戦いを挑むはずだというのは、松村一人もそういうふうに言っているわけですけど、丸山真男はオプティミズムだと言っています。「そういうオプティミズムに立てれば話は別です。不満そのものから自然発生的に、松村さんのいうように動いていくかどうか。ナチスも大衆の不満を足場にして権力をとったのです。不満をいだいている大衆があるからとっいって、そう楽天的に考えられないのです」というふうに、当時丸山は言っています。

 で、これはたいへん重要な問題なんですね。で、これは民主主義の問題にもなってきます。ちょっと時間がないので、来週の話のつながりとして言っておきますが、民主主義ってわれわれはあたりまえのようにして享受していますが、これはたいへん問題の多いシステムですね。で、丸山はそのときすでにそう指摘しているわけですが、これはほとんど気づかれないと思うんですね。どういうことかといいますと、「アメリカ的な考えでは、現に人民が経験的に表明している意思が人民の意思だと解する。国会議員の選挙なら、選挙に表れた現実の結果が人民の意思だとされます。ところがこれは正確に人民の意思を表していないと批評する立場があります。これは、あらゆる逆条件が排除せられた場合に人民が到達するであろうようなそういう意思を想定しているものです」。

 これはどういうことかというと、たとえばいま、日本の野党は、リクルート問題とかで騒いでいますが、仮にこの情報化社会でですね、各家にイエス・ノーの反対を表明するスイッチがあるとします。でそれが国会のデジタル表示か何かの表示板か何かに出てきてですね、まあルソーが考えているような直接民主主義というのは、いまのメディア、メディア化された社会であれば、完全に実現されうるわけですね。何も、後楽園のようなところに集まってですね、みんなが手をあげて誰か数えるということをしなくても、電話回線か何か使ってですね、あるいはもっといろんな衛星放送がいま打ちあがっているわけですから、いろんなしかたで、一億の人間の直接意思を問うことはできるわけ。そうするとこの直接意思を問うていった場合にですね、たとえば安保条約にあなたは賛成しますか、あるいは竹下内閣をあなたは支持しますか、あるいはその、自民党内閣をあなたは支持しますか、みたいな非常に微妙な問題をですね、どんどんどんどんそのつど国民全員に聞いてですね、二十歳以上なら二十歳以上の人全員に聞いて、その全部どんなしかたであれ、国会のどこかに表示されていくことになるとします。つまり、代議員制度をなくしてしまう。いわゆる直接民主主義ですね。

 でやった場合に、それじゃ野党が、国民がいま反対しているとか、もう国民はすでに分っているんだみたいな言いかたでいつもアジをやるわけですが、現在の状態でですね、たとえば安保条約を賛成するか反対するかってやった場合にですね、それは新聞の世論調査でも分っているように、五十パーセント以下の人が賛成してない−−賛成してないじゃない−−反対だと、五十パーセント以上の人が反対かというと、そうじゃないですね。そうすると、その野党がいまの民主主義はよくないとかいっていた問題はですね、いろんな場面で崩れてくる可能性がある。つまり、単純にですね、国民の民意を問うということが、野党が考えているような民主主義を実現するということと、実は同じ問題じゃないんじゃないかという問題が、その民主主義の問題として絶対に含まれてくるわけですね。

 で、これは、それじゃ民主主義という場合の国民て何なんだという問題になってきます。あるいは国民の民意っていうのは何なんだという問題になってきます。その時にですね、民意というのは、もともと直接民主主義というしかたで、「在る」民意なのか、それとも、ひとつの理想として、「在るべき」民意、つまり、いま現在は国民はそうは思ってないんだけれども、本当だったらそう思う「べき」だ、というそういう民意、そういった民意を、たとえば野党の議員たちは言っているのか。それとも、直接にあるというものとしての民意をいっているのか。これはたいへんな問題なんです。これを、野党の人たちは、ある場合にはこちらに依存している。つまり、たとえばリクルートのように、もう九十パーセント以上が反対している。つまり、経験的な意味で、まさに経験的、直接的な意味で、九十パーセント以上の人が反対しているときには、これは直接的に決めてみよう、というふうにやるわけです。で、そうではないけども、理念として、たとえば安保条約は解消すべきだとか、そういったように考えている場合は、国民に教育運動をしてですね、やっぱりみんな無知盲昧だ、みんな勉強してないんだ。だから、「在るべき」民意というのを想定して、そこにむかって世論を誘導していく、というふうなものとしての野党勢力というのはあるわけですね。

 そうすると、ある問題については「ある」民意を問題にして、あるときには「在るべき」民意を問題にしているという仕方で民主主義という問題はですね、非常にややこしい、あいまいな問題です。つまり民主主義というのは、実はここで民が主だという問題はですね、やはりここでも、「在る」国民、「在る」民というのと、「在るべき」民という二つの状態が必ず分裂してしまうわけです。分裂してしまう。で、これはルソー以来の問題なんですが−ルソーが「一般意志」と「普遍意志」とを分けざるを得なかった問題なんですが、直接民主主義という問題を考えたときにはですね、この問題が必ず浮上してくるわけですね。これは、来週、再来週にお話ししますギリシアの直接民主制というのが滅びていく中心的な問題なわけですね。

 このあるということと、その場合あるというのは単に「在る」という問題ではなくて、「在るべき」問題なんだ、という問題との関わりあいです。でそれはいま主体性論争で問題にしているその、科学、科学的なもの、つまりあるものをこれは「在る」ことですね、在るものを分析する科学の方法論ということと、在るべき、在るべきである、在るべきであるものを問題にする主体、一人の人間が、ただ単に知識を与えたからといってそのとおりにできない、どうしてもそこで躊躇してしまう自分がそこに存在している、というそういう問題、まあこれは現在の哲学では実存、実存の問題として浮かびあがってくるわけですが、そういう問題として、その対比として問題になっているということです。

 んー、中途半端になってしまいましたが(笑)、えー来週、あ、ええとちょっとお聞きしたいんですが、来週ですね、休講にされる先生というのはおられますか。あのー、ゴールデンウィークでですね、来週の授業は中途半端な日になるんですが、この僕の授業時間の前の授業、休講だといまの段階でわかっておられるかた、お手をお挙げください。あ、少ないですね、それじゃ来週はやります。(「えー」という落胆の声)。ちゃんと休まないで来てください(笑)。(了)


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