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家内の症状報告(89) ― 「病人の余命は短い」というのはウソ[家内の症状報告]
(2007-10-08 00:30:31) by 芦田 宏直


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家内(http://www.ashida.info/blog/cat8/)は、ただいま自宅療養中ですが、現在の症状は以下の通り。

?胸から下の強いしばり(全身を締め付けるような)
?膝から下のしびれが強い
?足の深部感覚が極めて弱い(筋肉と骨の接合部の感覚が弱いため歩けない)
?(付録)あまりにもしばりとしびれが強いため、口がへの字に曲がりがち

こんな状態だから、自宅にいてもほとんど寝たきり。普通に椅子に座っていても、足のしびれが強くなるため、ベッドへの回帰能力を最後の体力として残さなくてはならないことを考えると30分が限界。行き帰りの体力測定を自宅という小さな空間でやり続けている。

普通の人にとっては、自宅内での移動は単なる〈内部〉移動だが、家内にとっては大空間移動であって、小さな距離が絶えず外部化するように存在している。

私からすれば、1日2日で飽きてしまうような自宅内が家内にとっては〈世界〉である。家内は小刻みに人生を割り算しながら、〈生〉を延長させている。

病人は人生を割り算する。病人の方が余命が短そうに見えるが、それは病人の内的時間としては嘘。1日を1年のようにして生きているのが病人だ。 だからこそ病人は早死にすることもできる。人の人生に長短などないのだ。

家内の行き帰りの割り算は、洗濯と衣類干し、食器類の片づけ、自らの朝食、昼食、トイレ、入浴(浴槽には入れない)などであるが、これらを命がけでやっているのが家内の時間。

今度はいつベッドから立てるか、椅子からはいつまでには立たないとまずいことになるのか、忘れ物はないのか、これらの自問自答が続く。

歩く感覚は、先の?項目に関わっているが再発の度に深部感覚が弱まるため、ほとんどアクロバットのようなもの。足が自分の足という感覚ではない。歩き始めて数秒経たないと足が動いている、足を動かしているという感覚が生じてこない。

家内にとって歩くことは、筋肉感覚で歩くと言うよりは、極めて視覚的な出来事だ。目で見ていないと足がどちら(前、後ろ、右、左)を向いているのか全くわからないからだ。だから、暗いところでの歩行はできない。これは障害物に弱いから(それは健常者でもそうだろう)という理由ではなく、歩行そのものが視覚に依存しているからだ。

要するに、身体の下に足が伸びているというよりは、神経の走らない無機質化した足(=骨)の上に身体が乗っており、一歩、一歩身体をその上に(いちかばちかで)投げながら歩いているというのが、家内の歩行感覚のすべてだ。これでは歩けない。

そもそも脊髄がやられているため、体感温度もまばら。時々、「今熱い?」「今寒い?」と私に聞いてきたりもする。だから身体が冷えてきているのに、その対応を遅らせると血行の停滞で(いつのまにか)しびれが強くなり、一層歩けなくなってしまう。

今年は、すでに3回再発。入院している。

一回目:3月5日〜3月30日入院 パルス2クール、免疫吸着2クール
二回目:6月5日〜6月13日入院 パルス1クール、免疫吸着1クール

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