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280 連載:グループウエアとは何か ― 反「メール」論(1)
2001/2/14(水)00:11 - 芦田 - 1056 hit(s)


 電子メールを利用することが、「グループウエア」だと勘違いしている人が多すぎる。われわれの学校でも「ノーツ」を5年前から導入し(今さら「ノーツ」でもないが、当時はノーツしかなかった)、学生もスタッフもすべて「グループウエア」環境で勉強や仕事をしているが、活発なのはメールのやりとりばかりで、もっぱら「グループウエア」の中心機能は「メール」だと言わんばかりである。

 これはおかしい。「メール」は、単にコミュニケーション(狭い意味でのコミュニケーション)の合理化にすぎない。20年前のオフィスの「OA化」レベルの情報化にすぎない。こんなものをたとえばテラハウスのノーツ講座で紹介してもほとんど「グループウエア」の意味は理解できない。現にノーツ「メール」の講座を受講した何人もの人が、この程度なら「おい」と声を出して呼び出した方が早い、という感想を持っていた。この感想は正しい。したがって、「グループウエア」は支社やフロアーをいくつも持っている大企業のためのものだ、と思われてしまったのである。今でもこの誤解の事情は変わらない。

 私は、10年ほどまえ、大学の一般教養「哲学」の講義(学生数は、少ないときで100名、多いときで400名)で、つぎのような授業を行っていた(その一端はhttp://www.terahouse-ica.ac.jp/staff/hosei001.htmで紹介している)。

 授業が終わったあとで、@講義で理解できなかったところ A講義で納得がいかなかったところ B講義でもう少し詳しく聞きたいところ C講義で印象に残ったところ D講義の感想について、という5点についてB4版の紙(縦長)に「今日の講義レポート」という仕方で、学生に毎回レポートを書かせていた(講義時間終了前10分〜15分くらい)。書かせた内容について、特に触れておかなければならない質問や意見については、抜粋し、ワープロでそれを打ち直し(学生は教場で手書きで書き込んでいるため)、A4〜B4の紙にまとめて、講義の行われた次週の講義の初頭でその用紙(「前回の講義から」という表題の元に)を配布し、それについて解説を加えながら(前回の講義の復習をしながら)その日の講義をはじめるというスタイルを取っていた。

 その抜粋プリント(「前回の講義から」)には、学生の名前もフルネーム(学生番号付き)で付記し、まず名前を呼び、立たせて彼・彼女自身がその箇所を読み上げ、それについて私が解説を加える、これが私の講義の開始時の風景だった。この「前回の講義から」プリントは、授業開始前に前もって講義室の教壇の前に置いてあり(私が授業開始5分前にはわざわざそのプリントを持っていっていた)、学生は着席する前には、そのプリントを取ってから着席するようにさせていた。私が教室に入る頃には、既に私の講義は始まっているも同然だった。ほとんどの学生達はそのプリントにいつも見入っていたからである。「前回のあの授業ではどんな感想があったのだろう?」「今日は誰が先生に怒られるのだろうか?」というように。またそういったまともな関心とは別に、そのプリントには、レポートをまじめに書いていない(=講義に集中していない)学生の名前、あるいは、まじめに聞いていても聞くポイントが間違っている学生の名前が学生番号とともに列挙してあり、その学生は教室の最前列にすわるように、という指示が書かれていたため、プリントを見ることなしに着席ができないようになっていた。

 平均して150名前後のB4版レポートを毎週読み抜くのは結構つらい仕事だが、自分の講義が学生にどう受容されているのかという点では楽しい作業でもある。それに100名を超えるとは言っても、全体を通してみると、つまずいているところは大体同じ傾向があり、2,3のポイントに絞られてくる。そのポイントの代表的なものを抜粋したものが、「前回の講義から」プリントだった。これは、したがって私の講義の反省の諸ポイントでもある。思ったより理解が進んでいないポイントは、抜粋質問などの解説とともに必ず次回の講座の冒頭で処理してから講義を進めることができたからである。私の最初の意図はそうだった。

 しかし、思った以上に「前回の講義から」プリントは、学生の好評を得た。教室に入るときには(私は始業時間とほぼ同時に教室に入るが)、すでに学生が着席しており、熱心に「前回の講義から」プリントに読み入っている。先生によっては、学生受けを狙って、変な世間話から入ったりする先生もいるが、私の場合には、このプリントのおかげで、開始時にすでに事実上、授業は始まっており、即座に講座内容に入れるというメリットもあった。

 なぜ、学生にこれだけの(予想以上の)関心が生じたのか。

 たぶん、理由の大半は、自分と同じこと(あるいは違ったこと)を考えていた人がいた、という授業感想の共有化が、「前回の講義から」プリントで可能になったからである。この共有化の最大の意味は、教員対学生(一対多数)という授業風景を一変させるということだ。たとえば、(しかじかの理由で)「よくわかった」という感想抜粋は、(しかじかの理由で)「よくわからなかった」という感想抜粋に対する教化作用を有することになる。自分(学生)が聞いていてあんなにわからない(むずかしい)と思っていたことを、同じように聞いていた別の学生は「よくわかった」なんて書いている、どういうことだ? という教化作用が生じ始める。これは、学生間に、教員対学生の疑似関係が生じているということだ。つまり、私が教員として話したことが、「前回の講義から」プリントで再度発掘され、私により近い学生、私により遠い学生に2分されることによって、学生の中で、私の言うことを疑似化(=代理化)できる体制ができあがる。この疑似性は、場合によっては、教員である私の直接的な講義作用より効果的な疑似性でもある。同じことを私が言うより学生が言う方が効果的なことはいくらでもあるからだ。教員である私は、この学生内部的な疑似性のおかげで、教員対学生という(直接的に)対立的な関係を脱することができる。(続く)


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