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269 連載:高等教育・職業教育・生涯教育(6)
2001/2/3(土)14:40 - 芦田 - 2181 hit(s)


2−9)実習評価の問題

 授業評価会での収穫は数々あったが、特に取り出して触れておかなければならない問題がある。それは、実習評価の問題である。

 実習授業は具体的な技術や知識を身につける、専門学校教育の生命線である。これまで、実習授業の履修評価は課題物(オブジェクト)の提出という形で行われてきた。現にわれわれが見学した実習授業はいつでもオブジェクトに関わって行われていた。

 たとえば、学生が建築図面を作成するという授業では、その図面の完成物が履修評価の対象となる。授業中は、学生が図面を書いているところを先生が周りながら、ときには立ち寄り、指示を与える。「こう書きなさい」、「そんなことをしては駄目です」というように。そんな指導を繰り返しながら、授業を重ねる毎に〈作品〉は完成に近づいていく。そうして出来上がった〈作品〉を評価することが、履修評価(=試験)になっている。

 これはおかしい。この〈作品〉は、厳密に言えば、先生と学生との共同作品であって、学生の能力評価とは言えない。実習授業は、課題物さえ提出すれば全員合格になっている。なぜか。それは指導した先生の自己評価だからである。落第生を出すということは、先生の自己否定を意味することだからだ。たぶん落とされた学生も、「だって先生の言うとうりしたのに」と言うに違いない。

 能力の育成の基本は、自立的な能力の育成にある。われわれは、学生と一体になって付き添いながら卒業させるのではなくて、学生を単独で社会に送り出すのである。その課題に対して、このような実習評価は、評価ではない。実際に先生自身が“手を入れる”という形でオブジェクトに介入するため、学生の方も、先生が手を入れる〈意味〉がわからないままに終わってしまうことが多い。オブジェクトに〈意味〉が紛れ込んでしまうのである。〈作品〉は出来上がるが、〈作品〉の意味は理解できないままに終わっているのである。もう一度一人で作れと言っても作れないだろう。場合によっては教えるのが(意味を理解させるのが)面倒くさくて、自分で8割方作ってしまう先生もいるくらいである。それが現状の実習教育の限界なのである。

 実習教育の多い専門学校の学生の能力評価が社会的に低い原因は、案外こういった実習評価のあり方に根があるのかもしれない。結果重視のオブジェクト主義を変換する必要がある。

2−10)授業評価ポイント

さて、当初は戸惑った「授業評価会」ではあったが、何度も授業評価会を重ねる中で、授業評価のポイントとも言えるものが、自然に浮かび上がってきた。つまり、どの観点から授業評価すべきか、この授業はどこに改善課題があるのかが徐々に見えてきたのである。評価ポイントは、全体で11のポイントに収斂していった。

1)授業全体目標(シラバス)、授業目標(当該コマシラバス)、授業評価(当該コマのどのような内容理解が60点以上になるのかならないのか)の提示がなされているかどうか?

2)その授業で話されることになる肝心な内容(つまり毎年おなじことをしゃべっている箇所)をまとめた資料が存在しているか? 
@トークに依存しすぎていないか
A板書に依存しすぎていないか
B既成教材や実習対象に依存しすぎていないか
C学生の「自主性」に依存しすぎていないか

3)資料(既成教科書、サブテキスト、実習対象など)と授業内容との整合性はとれているか(教材活用に散漫さや恣意性はないか)?
 @既成教科書活用度
 Aサブ教材活用度  
 B実習対象活用度

4)授業資料の参照指示性(資料の指示性や集中性)に散漫さはないか?

5)授業理解・授業プレゼンに関して、理解のポイントや間違いやすい実例などを資料とともに指摘し、前年度までの授業運営を活かした授業展開ができているか?

6)抽象的な能力(概念理解能力)を開発するツール(教材)を有しているかどうか?

7)授業の、〈教育的な〉時間配分は適切かどうか?(教育目標とは別の作業などで時間がとられすぎていないか。できない学生の個別指導で時間がとられすぎていないかなど)

8)ノート活用はどうなっているか? a)ノート持参度(筆記具持参度) b)ノート記入度

9)授業を復習する場合の教材資料の集中性は妥当か(記憶や学生の「自主性」に頼らない授業になっているか)? 
 @サブテキストなどの書式の統一性(サイズの統一、ページの記載、ヘッダやフッタの記載、教科書やノーツへの参照指示性はどうか)
 Aファイリングの有無(前回の内容が記されているものを学生が持参しているかどうかなど)

10)授業内容の、外部要素(社会的な要素)からの風通しはどうか?
 @当該授業内容と資格試験との関連性は言及・教材化されているか
 A当該授業内容と実務現場との関連性は言及・教材化されているか

11)教場環境はどうか?
 @机が乱れていないか、ゴミなどは落ちていないか
 A私物(カバン・携帯電話・雑誌など)の管理はできているか

評価ポイントの形成と授業評価会を続行していく中でわれわれが感じていたことは、まだまだ授業努力がたりないということだった。やれることがまだまだたくさんあるということだった。足りないのは学生の「基礎学力」や学生の「補習(補講)」ではなく、教員の“基礎教育力”だったり、授業“予習”だったのである。そういうことが、予想や推測ではなく確信を持って言えるようになったこと。また何を指してそう言えるのかを具体的に指示できるようになったこと。またその事態を同時に多くの学校スタッフが共有していること。これが「授業評価会」の成果だった。

2−11)授業ツールの開発(「今日の授業」「授業カルテ」)

○「今日の授業シート」

授業評価会で明らかになったのは、われわれには〈教材〉が決定的に欠けているということだった。特に学生が授業を受けている最中に、授業の大まかな見取り図(マッピング)がまったく存在していない。〈授業計画〉は、授業を受ける前の見取り図(マッピング)だが、肝心の授業進行の中での見取り図(マッピング)を示すことの出来ている教員がほとんどいない。“聞くこと”“ノートを取ること”など学生の“自主性”に依存した授業が多いため、少しでも学生の緊張感がとぎれると、授業の形跡がまったくなくなってしまう。授業が終わった後で参照するものが全くなくなってしまうのである。「最近の学生は復習をしない」のではなくて、復習をさせるきっかけを与えていないのである。

この問題は、単に学生へのサービスの問題なのではない。教員側も、授業の痕跡が残らないために、実施した授業の何が問題であったのかということがつかめない。授業直後に反省の印象はあるにしても参照するものが手元に残っていないため、それを反映させることができない。これが毎年の授業にも関わらず、授業改善が少しずつでも進んでいかない原因だ。

そこで、われわれは、授業評価ポイントの諸観点を取り込むために、すべての授業で「今日の授業シート」というものを使うことにした。〈授業計画〉でプログラム化されていた「コマシラバス」に基づいて、それを〈教材〉化したものが「今日の授業シート」である。

このシートは、@「シラバス」 A「今日の授業・10ポイント」 B「重要用語・10」 C「今日のポイント」という4つの要素から出来ている。

@「シラバス」
これは、その授業の全コマを通じての概要、いわゆる「シラバス」である。「シラバス」を毎回の90分の授業の中で明示することによって、「今日の授業」の意味と全体目標(シラバス)との関連を学生に喚起するためのもの

A「今日の授業・10ポイント」
これは、いわゆる「コマシラバス」を10のポイントから提示したもの。「コマシラバス」の文章をそのまま提示するのではなく、10に分節化して、ストーリーとして提示するのが「今日の授業・10ポイント」。学生は、この箇所を見れば、これから始まる90分の授業がどんな展開と内容を有しているのかがすぐわかるようにしたもの。

B「重要用語・10」
これは、「今日の授業・10ポイント」に10項目にそれぞれ対応した理解のキーワード(キーポイント、キーコンセプト)となる語を取り出したもの。

C「今日のコメント」
これは、教員が、その日の授業の中で特に注意を喚起したいところなどを指摘しながら肉声的にコメントしたもの。

これら四つの要素をA4用紙(作成はExcel)、共通書式でフォーマット化したものを「今日の授業シート」と呼ぶ。このシートは、90分のコマ単位に一枚、授業開始時に配布。4校の全授業(実習、座学講義の区別なく)で、2000年4月からの実施とした。

○「授業カルテ」

「今日の授業シート」は、一種の授業内プログラムガイドのようなものだ。しかし、このシートだけでは、まだ教員側の一方的なガイドにすぎない。コマ毎の履修目標が達成できているのかどうかの学生情報をどうくみ取るのか、という課題がなお残っている。「シラバス」に対しては「履修判定試験」(期末試験)が達成度の指標になるが、しかしそれはすべての授業が終了してからの情報にすぎない。落伍者が出たときにはもう打つ手がない。

「シラバス」−「履修判定試験」という対と同じように、「コマシラバス」(日々の授業シラバス)に対応する履修判定がなくてはならない。これをわれわれは「授業カルテ」と呼んだ。

 「授業カルテ」は、「今日の授業シート」の“今日の授業・10ポイント”項目に対応する10の問題を作成したものである。これを90分の授業終了直前約10分くらいを使って、同じように全学の授業で実施することにした。採点は100点満点(一問10点)。採点もまた授業時間内に行う。この点数が、その日の授業の達成度を示すことになる。

「授業カルテ」の点数を日々追っていけば、その授業が成功しているのか、問題があるのかがわかる。期末の履修判定試験全員合格にむかって、@教員側が次回の授業で何をすればよいのか、Aどんな指示を学生にすればいいのか(次回の授業までに何を復習させればよいのか)についての具体的な資料になるのである。

〈授業計画〉の「シラバス」「試験」「コマシラバス」は、専門系の教員を組織し、共同評価の中で作成したが、「今日の授業シート」と「授業カルテ」作成については、書式は全学レベルで統一したが、内容については教科担当者の自主作成とした。「コマシラバス」目標を実現する方法は教科担当者個々人の経験や教育方法を反映させるべきだと考えたからである。

〈科目成果〉をはかるセットとしての「シラバス」−「履修判定試験」。〈授業成果〉をはかるセットとしての「コマシラバス」−「授業カルテ」。ここではじめて、履修評価を厳密に遂行できる(ミニマムの)体制が整ったと言える。

2−12)危険授業管理

「補習(補講)」「追再試」の全面的な廃止を、この履修改革の最初で決めた。履修判定が曖昧なままではどんな教育改革も宙に浮くと考えたからである。しかしこれは危険な決定だった。落伍者が出てしまえば、ほとんど退学を意味したからである。特に時間割に空きのない、選択科目の少ない短大や専門学校では、一科目でも落第すると再履修はほとんど不可能なため、退学者が生じる可能性は以前よりも高まっていると言える。

しかし、こういった“憂慮”をもっともそうに指摘することこそ、われわれが意識的に排除してきたものである。というのも、そういう“憂慮”こそが、履修判定を曖昧にしてきたのであって、結果と原因が逆さまになっているのである。履修判定を厳密に行って、退学者が出る。それは考えてみれば当たり前のことであって、学校が自ら定めた人材育成の目標を反映した履修判定試験を遂行して、その試験に合格しなかった学生がいるというのは、その学校の卒業生としては認めてはいけない学生を作ってしまったということである。卒業させる方がおかしいのである。これは、退学者を出してもいいということではない。退学者が出るということは、期末の履修判定試験の受験に至るまで、その学生が放置されたということを意味しているからである。期末の履修判定試験の合格者(あるいは非合格者)の存在は、日常的な教育活動の成果(非成果)を表現したものにすぎないのであって、退学者の存在は、その学校の教育力のバロメータであることに変わりはない。これまでは、そのバロメータを逆手にとって、履修判定の方を緩めて(極端に言えば)誰でも卒業させていたのである。これは学校の自殺行為だ。

重要なことは、日常的な教育活動をどのように組織化し、厳密な履修判定にたえうる人材を輩出するかである。そのためには、期末の履修判定に至るまでの授業過程の危険兆候を出来うる限りリアルタイムに(あるいは先取りして)把握する体制をとる必要がある。
このために、@「授業カルテ」の点数の推移 A出席率の推移 この二つの指標を中心に授業評価とそれに基づいた日常的な教育指導の体制をとることにした。

まず、「授業カルテ」点数と出席率に関して、以下の四つの評価指標を設けた。

危険指標:科目登録学生の「遅刻者」が10%を越す授業
危険指標:科目登録学生の「欠席者」が5%を越す授業
危険指標:科目登録学生の30%が授業カルテの60点台を占める授業
危険指標:クラス学生受験者の一名でもカルテ59点以下をとった授業

次にこれら四つの危険指標から、「危険授業」の指導指標を三段階(危険授業@、A、B)に強度化した。

危険授業@ 危険指標の該当数1個の場合 教科担当者 ←科長指導
危険授業A 危険指標の該当数2個の場合 教科担当者 ←科長+教務部長指導
危険授業B 危険指標の該当数3個以上の場合 教科担当者 ←科長+教務部長+校長指導

指導会議は、当該授業開講当日中に開催することとし、会議の主宰者+記録者(教務記録)は科長とした。

危険指標化は、どこまでが教科担当者の仕事で、どこからが学校の組織的な取り組みが必要になる課題なのかということの線引きを行うことである。これまでは、授業内(教室内)で行われること、発生することは、ほとんどすべてが教科担当者の判断によって処理されていた。その判断が、教室(特に授業)で起こることが教室〈内〉にとどまるか、教室〈外〉に出ていくか基準のすべてになっていたのである。しかし、教室(授業)で起こることが、すべて担当教員の責任で処理されなければならないということは全く根拠のないことである。これは、教室内での授業活動の個々の問題の行動的処理という責任のみならず、全体(=教室外)に開示する必要のある問題かどうかの判断(の妥当性)も含めて、そういった教科担当者の責任であるというのは、全く根拠のないことである。従来、教室が密室化してしまっていたのは、教員が教室の実状を隠そうとしていたからではなく、何を外に公開すべきなのか(何について組織的に取り組むのか)、公開してどんな組織的な指導体制を取るのかの指標が全くなかったからである。

期末の履修判定試験で落伍者を出し、それが退学者予備軍になるという事態は、すでに一教科担当者の責任や判断を超えた事態が教室(授業)で起こっているということである。危険指標化(公開化)の動機は、したがって“教育への干渉”とは何の関係もない。落伍者、退学者につながる兆候を指標化すること、その指標に基づいて組織的な指導体制を取ること、このことなしに教育の信任を勝ち取ることはできないのである。

2−13)科目主義

「コマシラバス」を基礎にして、「今日の授業シート」「授業カルテ」を展開するという動機は、単に日常的な教務指導のためだけのものではない。教育評価の全体を〈科目〉という単位、科目の実行形態としての〈授業〉という単位に収斂させることが、その動機になっている。

たとえば、学校には、スタッフとしては〈担任(クラス)〉、〈教科担当者(科目)〉という単位があり、時間的には〈期(試験判定)〉、〈学年(進級判定)〉、〈学校(卒業判定)〉という単位がある。

これらの単位のほとんどは、科目評価、授業評価、ひいては履修評価を曖昧にしてきた張本人だった。

たとえば〈担任〉主導で学生指導を行うと、最後には、学生の素質としての基礎学力、性格、家庭環境などが必ず前面化し、担任の個人的な個人指導にとどまってしまう。学生が「学校が面白くない」と感じはじめる局面を、最初から最後まで学生の素質の所為にする傾向が、担任主導の学生指導の最大の問題点なのである。なぜ、問題なのか。一つには、この“指導”は、結局のところ“心理主義”的なものになり、〈担任〉は教員としてよりも一個人(一人格)として学生の前に露呈してしまい、最後には性格的ないがみあい(好き嫌い)に終わってしまうことが多いからである。もう一つは(これが大事なことなのだが)、〈担任〉は、学生から授業についての不満を聞いても、その授業の科目指導へとは進まない。同僚の教員の科目指導について積極的に動ける立場ではないからである。どんな学生の不満も科目不満(授業不満)に始まり、科目不満(授業不満)に終わる。授業が楽しいのに、担任課題が山積するということはありえない。つまり担任の抱える問題のほとんどは、科目問題なのである。ところが〈担任〉はそこに口を出せない。むしろ担任制は、科目問題(授業問題)を学生素因論にすり替えてしまい、科目改善が進まない要因の一つになっている。

同じように、学年における進級判定、卒業判定も、科目判定を曖昧にしている。全体の点数がそこそこ取れていれば、一科目ぐらい落としていても“許す”というのが、“学年判定”という仕組みである。もっとひどい許し方は、「あの子は出席だけはきちんとしているから、少しくらい成績は悪くても」などという“人間的な”発言が、担任から出てきたりする。こういった会話がなされる場が、“判定会議”という仕組みなのである。学年、学校という括りによって、科目の実体、授業の実体に自ら目を瞑ろうとしてしまう。だから、個々の授業で学生が寝ていても、試験で落伍者が出ても誰も深刻な事態だと思わない。学年という単位で、ごまかすことが出来るからである。そうやって教育的な神経が麻痺していく。これもまた、一つ一つの科目の評価を曖昧にし、教育力改善がすすまない要因の一つになっているのである。

学生指導を科目課題(授業課題)として、具体化すること。科目担当者(科目教員)に対する指導の中で学生指導を具体化すること。このことのためにも(このことのためにこそ)、「今日の授業シート」「授業カルテ」に基づいた日常的な教務管理体制は必須の条件だったのである。

2−14)管理主義という誤解

われわれが「履修改革」を遂行する過程で、教育上の管理主義、あるいはテーラー主義とさえ誤解する人がいた。それは全くの間違いである。

われわれの「履修改革」動機を端的に言えば、目標と評価を有した教育を行おうということだ。これのどこが管理主義なのか。

たとえば、“個性豊かな、創造性豊かな教育を行う”という目標があるとする。あるいは、最近でいえば、“総合主義”というカリキュラム編成が小中の学校では実際導入され始めており、高等教育でも“総合主義”(反知識主義としての)教育ははやり始めている。これらの目標自体にわれわれは反対しているわけではない。重要なことは、その場合「個性」「創造性」「総合性」が何を意味するか、そして自分たちがそれを目標化して展開したカリキュラムの履修評価において、どんな状態に至ることが「個性」「創造性」「総合性」を伸ばした(=教育した)ことになると判断するのか、それをはっきりさせよう、というのが「履修改革」である。目標を立てるということと評価の方法を明らかにすることとは同じである。評価方法のないところに目標はない。そして目標のないところに教育はない。これがわれわれの「履修改革」である。この認識の、どこが管理主義なのか。

“個性”“創造性”“総合性”といった課題については、評価の一番難しい領域であることは誰も否定しないだろう。逆に言えば、そういった教育を本気でやろうとすれば、「履修改革」を遂行し、目標設定と評価方法についてのノウハウをしっかりと身につけるしかないのである。“個性”“創造性”“総合性”といった自由度の高い教育課題を選択すればするほど、緻密な計画や運営管理が必要になる。それなしに謳われる“個性、創造性、総合性豊かな教育を行う”というスローガンは、むしろ目標のない教育(無責任な教育)を行う広報的なキャッチにすぎないのである。

われわれは、今回の「履修改革」については、教育目標を何に定めるのかということについては、積極的には議論しなかった。現状の教員達の専門性を尊重し、彼らの自己目標化、自己評価指標化を尊重するというところから出発した。というのも旧来の教育改革は、目標内容(個性、創造性、可塑性、先進性などなど)ばかり議論して、教育力向上の実体にかかわる「履修改革」に手を付けなかったからである。むしろ教育目標としての教育内容を議論することは、「履修改革」に手を付けないための隠れ蓑だったのである。

目標設定や評価方法について、教育的にはどんな方法があり得るのか、そこが明らかになれば、教育目標は多様であってもかまわない。それは入り口顧客としての学生や出口顧客としての企業が最終的に選択することにすぎないからである。

教育が目標と評価を持つということ。この当たり前のことが、なぜか、教育界全般に、特に高等教育の関係者全体に決定的に欠けている認識だった。だからこそ、われわれの「履修改革」に“管理主義”というピントのはずれた批判が、何度となく学内外から寄せられたのである。


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