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265 連載:高等教育・職業教育・生涯教育(5)
2001/1/31(水)01:19 - 芦田 - 2344 hit(s)


2−8)実践:授業評価

さて以下に掲載するものは、1999年10月14日の建築系の授業評価会から2000年1月26日の自動車系授業評価会まで約3ヶ月間総計約50授業にわたって行われた授業評価についての私の報告である。私は、50授業の内、10授業を見るだけにとどまったが、ここで掲載したものはその中からの7つ(+中間報告)である。これらの私の報告の初出は実際に学内のネットワーク(ノーツデータベース)で評価会終了後2・3日以内に公開されたものである。今回の掲載にあたって、固有名詞や細かい言い回し等、若干変更した箇所もあるが(さらに今となっては変更したいところもあるが)できうる限り初出の形を尊重したつもりだ。ご寛恕いただきたい。

また、この評価会報告では、残念ながら学内の様々な恥部を結果としてさらけ出すことになってしまっている。今回あえて掲載に踏み切ったのは、停滞する教育改革の一助になれば、と思ってのことである。さらには、これらの現状は、すでに我が学園では過去のことになりつつあるという確信の中でのことである。

なお、文中で「ノーツ」と出てくる場合は、ロータス社のグループウエアソフトである「ロータスノーツ」のことを指している。我が学園では、1996年に東中野校の新校舎(校舎名:テラハウス)を開設以来、全学生、全スタッフに対して、テラハウス全館(全室)に渡ってのノーツデータベースによる情報受発信体制(シラバス提供、教材配布、掲示板コミュニケーション、学校情報各種など)を敷いている。1999年「履修改革」運動の開始を遡って、その3年前からの我が学園の教育改革は、(職業教育における)情報リテラシとは何かということだった。その成果のひとつがグループウエア教育だったのである。今となっては、「ノーツ」はもう古いかもしれないが、当時は「イントラネット」という言葉すらなく ― われわれは「内部インターネット」と呼んでいたが ― グループウエアの教育展開も、ロータス社すら積極的ではなかった。しかし、グループウエアは、もともと教育的なものだというのが、われわれの当時も今も変わらない確信である。今では、学生も教員も当たり前のようにコンピュータを使っている。文中「ノーツ」とあるのは、その成果の表現だと思っていただきたい。


●授業評価事例(1) ― 建築系1年「設計演習」Y先生(+実習助手1名)編(1999・10/14)

○全体の印象

私は、このY先生の授業がとりたてて我が学校で劣ったものとは思わない。たぶん建築系実習授業の標準的な水準のものだと思った。しかし“標準”ではダメだというのが履修改革の動機になっている。以下の印象は、標準的実習講義の問題点はどこにあるかという観点からのものである。

○実習授業の問題点

最初に概要を話して、後の大半(全体の90%ほど)が、講師が各学生の制作現場を回り、個人指導するという“標準的な”スタイルの授業だった。

この型の授業を成功させるには、学生の自己管理が必要になる。講師がたえずそばにいて自分(学生)に話しかけているわけではないのだから、自分自身の目標や現状と授業全体の目標(一授業内での、そして履修範囲全体での)とのズレをたえず喚起するような仕掛けが必要になる。この仕掛けをわれわれは、〈教材〉あるいは〈サブテキスト〉と呼んだのである。ところが、こういった仕掛けがこの授業にはまったくといってよいほどない。

授業の最初には、「模型」が見せられた。だが、二つだけ。これは目標、あるいはイメージを共有化するには貧弱すぎる。しかも構想を練り上げるための模型(エスキスに対応した模型)ではなく、クライアントに仕上がりをイメージさせるための模型(図面から起こした模型)であって、エスキスで作り上げることになっている模型ではない。ますます学生が目標管理するのに難しい授業になっている。つまり学生が自己管理するための〈教材〉がないのである。

さて、そういった〈教材〉がないまま、実習に入り、その後は個人個人の学生任せになったまま。当日の最低履修目標や中間過程のチェック事項が示されないまま授業に突入。3時限目終了5分前にやっとクラスの半分の学生を集めた集団指導を模型の前で行い始めたが5分前では後の祭り。〈教材〉がないならないで、中締めをまめに行い、集団的な管理を行う必要があるにも関わらず、そういった工夫が見られない。

つまり、教員の、個々の学生への実習現場周りの実習指導(旧態依然たる“標準的な”実習講義)が中心になっており、指導事例(成功例、失敗例など)の共有による効果的な実習授業になっていない。

この程度の教場指導であれば、模型作成やエスキス作成は宿題にしてもいいくらいだ。宿題にして、その個別指導でしのいだほうがいい。わざわざ教室に集めて、効率の悪い“徘徊”指導をする意味はほとんどない。

つまり、〈中間〉(=メディア)、あるいは〈プロセス〉がないのである。一方でできあがった模型、一方で個々の学生のむき出しの感性(陶冶されていない構想力)。これでは、エスキス作成やその模型作成が、教員のイメージしている進展とどうずれているのか、どう一致しているのか個々の学生にはつかめないだろう。要するに勝手に落書きし、勝手に工作している学生が一方にいる。一方に教員の任意な“徘徊”、思いつきの指導が存在しているだけなのである。

この授業のやり方だと教員が何人いても足りないし、逆に二人で教える意味もない(一人でも充分)。
 全体にY先生がサブで、助手がメインのように思えたが、二人の分掌はどうなっているのかもわからなかった。

○教材利用について:教材が全くたりない

教材(メディア)については、先にもふれたとおり、@模型2種類。A個々の学生が持ち込んでいる図書資料(これも持ち込んでいる学生と持ち込んでいない学生まちまち、持ち込んでいる学生の方が圧倒的に少ない)。Bエスキスの作成条件を記述したA4紙片一枚、C簡単な板書 以上である。

板書に非常に重要なこと(かつ普遍的なこと)が書かかれているにもかかわらず、誰もノートに取っていない。そもそもノートというものをだれ一人持ち込んでいない。

与えられている教材テキスト(わずかA4一枚)は、ただ作成課題が示されているだけで、エスキスの作成過程、模型の作製過程についての諸注意はいっさいなされていない(すべて話し言葉中心の個人指導で処理している)。

シラバスにも、エスキス(1)〜(7)と数字が列記してあるだけで、その(1)で何をするのか、(2)で何をするのかなどの学習課程の諸段階の明示がない。こんなシラバスはシラバスとしてさえ意味がない。

個人指導傾斜も含めて全体に話し言葉が中心の授業になっており、学生仕上がりの最低水準を保証する(全員60点以上)のは、この授業では不可能。

○授業評価会後、したがって、次回(次週)の、この演習に関しては、次の課題が課されることになった。

1)学生が、その時間時間内で、何を、どこまでやればよいのかの目標を明示すること(個人の進行度に差が生じている場合には個人別の進度管理ができるような目標を明示すること)。明示できるような教材を用意すること。

2)次週はエスキス・模型作成の中間発表会らしいが、その発表会においても、どんな観点から評価を遂行すべきかの、諸基準を提示しながら、学生の作品評価自体を評価するような教材を用意すること。

3)上記1)2)の内容の基板となるようなエスキス演習のノーツデータベース作成を至急進めること


●授業評価事例(2) ― 建築系1年「一般構造(1) ― 木構造の基礎」(座学講義)M先生編(1999・10/15)

○教材の適正を見抜くこと

全体に授業教材(授業メディア)の質的な適正がまったく考慮されていない。

教科書、ノーツ(パソコン)、ノート、板書、話しことばなどの授業メディアの特性が理解されていない。
したがって、全体に教材指示力が弱い。「何々を見ろ」といったときに受講学生に、その個所を見させること(=教材指示力)は、講師の教育力の基本のひとつだが、これは、メディアの特性を理解することなしにありえない。この点こそが、この授業に一番欠けている。

たとえば最初20分くらいが前回の復習だったが、ノーツ上のQ&A(前回授業のQ&A)への参照などは紙に参照個所を抜粋して(できればコメントつきで)配布しておいた方がはるかに効果的。“全員ノーツを見てるはず”という前提で授業をやるとますます学生は見なくなる。ノーツを見るようになるためには、「ノーツを見ろ」ではなくて、ノーツの情報の貴重な部分をそのつど紙にでも開示しながら進めて行く必要がある。つまりノーツに重要なことが存在しているということを数々の媒体を使って指示し、喚起する必要がある。

たとえば、ノーツを授業中に参照させること、これはまったくナンセンス。パソコン画面で共通の画面を集団的に見ながら授業を進めていくことは、しばしば中断を余儀なくされていたからも明らかなように、不可能に近い(時間がかかってしようがない)。パソコンというメディアは流動性が高い分、参照性に欠ける。ノーツを授業時間中に参照させることはこの授業では授業進行の妨げになっている。ノーツは冷蔵庫に過ぎない。授業はそれ自体食卓なのだから、料理・調理(=教材化)なしに冷蔵庫のものをとりだしても意味がない。

建築現場の写真参照なども、ノーツ(パソコン)で行わないで、大きなパネルにしたり、プロジェクタ投射して教壇で提示したほうがはるかに参照力(集中性)が強い。参照性(指示をして、その指示の内容が明確に分かる度合い)は、紙や物のような“堅いもの”ほど高い。それに比べればパソコンのモニタに展開される文字や写真はやはり柔らかすぎるのである。

座学授業でありながら、何度も学生側に回って授業を進めざるを得なかったのは(講師本人は親切心で行っているかもしれないが)、教材参照力が弱い状態で授業を行っているからだ。つまり何度も言うようにノーツへの参照に依存して授業を進めたために、何度もの中断を余儀なくされていたのである(私の印象では90分中、15〜20分くらいがノーツ参照の指示のために無駄になっている)。

教員がメディア利用で混乱しているため、学生側もノーツ、教科書、ノートという三つのメディアを(それでなくても狭い)机において、難しい授業参加を強いられている。一体何を参照すれば、この日の授業の全体が見える(復習できる)のか学生にとっては混乱したままだろう。ノーツ、教科書、ノート、どれをとっても断片にとどまっているからだ。三つを足したものが授業の“全体”であるとしてもそれらのつなぎ目を埋めるのにはかなりの能力がいることになる。

2級建築士試験の内容に言及したときがあったが(たしか「根切り」について)、この今日の授業内容と2級建築士試験の内容との関連を明示した教材は存在しているのか? もっともっと数多くの問題事例などに言及しながら授業を進めていたほうが良いと思う。私は、この「根切り」についての内容だけは(「試験に出る」と言われたおかげで)よく覚えている(よく理解できた)。教員が、この「根切り」について「(二級)試験にでる」様子を上手に伝えていたからである。こういった、日々行っている授業内容と“外部”との関係をたえず授業内で喚起すべきだ。

授業終了時の試験(いわゆる小テスト)をノーツで行う場合もこれがベストかどうか判断に迷うところだ。まだワープロ操作に不慣れな者がいる。答えることに集中するスタンスをワープロ操作が阻害している(なぜ徹底した「リテラシ」(ふつうの意味)教育が後期の段階においてさえ行えていないのか?)。そんな段階で、ノーツ上で無理やり試験をさせることにどんな意味があるのか? そもそも、ネットワークの不備か、パソコンのセッティングの不備かわからないが、授業中まったくノーツ操作のできない者がいた。そういったことは、誰彼の責任以前の問題としていつでも起こりうることだ。場合によっては使用が不可能になるようなものに全面的に依存しながら授業行うことの危険がここでも露呈している。

試験の内容も全体で5問有り、ノーツの画面を覗いて内容も確認したが、これでこの授業全体の履修確認になるのだろうか。私が90分間授業を聞いて、先生が「重要です」と言った内容の数々からすると全く足りないような気がする。

○ノーツ活用とは何か

まず、ノーツ活用ということと90分の授業運営のなかでの教材利用という観点をはっきり分けることだ。

M先生のノーツデータベースでは、書物の目次のような内容が列挙されているだけで(あとは、付け足しのようにつけられた図版が数枚あるだけで)、学生が復習や予習ができるだけの授業データになっていない(たぶんわれわれが情報リテラシ運動で想定していた教材データベース化の2割から3割の仕上がりにすぎない)。まず、このデータベースをもっと充実させるべきだ。

ただし、ノーツデータベースの充実化とそれを90分の授業運営の中で実際に参照させることとは全く別のことだ。
ノーツデータベースは、あくまでも(何度も言うように)冷蔵庫のようなものにすぎない。食卓としての実際の授業の中では、そこから汲み上げられた参照指示力が最も強いメディアがそのつど考えられねばならない。

この問題は、テラハウス東中野校舎へ移転する前、中野情報処理科(当時)のH先生が情報リテラシ実験授業をやったときに既に(3年前に)指摘されていた。パソコン画面を教科書のように参照させることは全くナンセンスなことだというものだ。単に参照指示力が弱いだけでなく、書き込みもできない今のデータベースでは、90分という限られた授業時間の中での使用(それも集団使用)は不可能だ。

ノーツを「授業に使う」という意味が理解されていないということである。授業というのは生きもので、90分間のリアルな時間が単線的に流れる不安定この上ない教育環境だ。ここで使われる教員の言葉、数々の教材は、それによって理解されるべき内容からすれば、ほんの一握りのコミュニケーションツール(仮に厳選されたものであるにしても)にすぎない。そもそも、“その”教員が“その”授業を付託される知的・技術的経緯を含めたもの全体が学生とともに共有されてこそ、その授業(=教員の真意)は理解されることになるのだろう。もちろんこれは理想にすぎない。しかし、ノーツのようなデータベース(あるいはインターネットのようなハイパーメディア)が現実的に展開し始めれば、単なる理想でもないのではないか、というのがわれわれの情報リテラシ運動の予感だった。つまり教員の授業形成過程(教員が学生に伝えたいことを抱くに至った歴史)を全部公開できる可能性がネットワークにつながったパソコン環境によって開けてきたということである。90分の授業はその踊り場(場合によっては危険な踊り場)にすぎない。

たとえば、Y先生は、エスキスやそれと関わるエスキス模型の形成、そういった形成過程の中で建築家が繰り広げる構想力の錬磨の過程について学生より遙かに豊富な経験はもちろんのこと、授業時間で話されたり、示された教材より遙かに多くの経験をお持ちのはずだ。しかし、90分の演習時間の中では、その経験は教材が貧弱だったことからも明らかなように全く開示されていなかった(もちろん、ノーツにはなおのこと皆無だ)。そのように、教員の経験と授業の内容や教材に落差があればあるほどその授業は“わからない”ということになる。〈教材〉とは、そういった自己歴史的な経験とそれを90分で展開しなければならない授業環境を和解させるもの(和解させなければならないもの)なのである。

そして、ノーツのようなデータベースが存在し始めたということは、そういったY先生の経験それ自体を開示する場が準備され始めたということである。これは教育にとっては画期的なことである。〈90分〉や〈教科書〉という形でしか指導が可能でなかった教科教育がこれまでよりははるかに基盤的で多様なチャンネルを持ち得始めたからである。

したがって、ノーツを授業で使うということと授業時間の中で使うというのとは似て非なるものである。むろんノーツへのデータベース形成なしに本来の〈教材〉が生まれることなどあり得ないが、〈教材〉はそこから― 特に90分の時間配分の中で参照指示性について意識されながら ― 抽出されるものにすぎない。この場合〈教材〉が、パソコン教材なのか、紙や実物模型なのか、それともOHPやスライド、写真パネルなのかは偶然にすぎない。しかしいずれにしても、ノーツへのデータベース形成がなされていない教員は、いつもぶっつけ本番で(まさに教材なしで)授業を行っている“危険な”教員なのである。

○M先生授業評価会後、したがって、以下のような課題が課されることになった。

1)授業中の集団的なノーツ参照を、即刻止めること

2)ノーツデータベースを今の3〜5倍のボリューム(この日のM先生の授業の既存アップ分の3〜5倍)に充実させること(授業に参加しなくてもわかるくらいに内容を充実させること)

3)充実したノーツデータベースから抽出された(厳選された)授業レジュメ(授業で学生に配布するための)を用意すること

4)建築士2級試験の内容と、目下の授業内容との関連を指示すること(ノーツ、授業レジュメ共々)

5)充実した授業レジュメと板書との効果的な利用を検討すること

6)教科書の教材的位置づけをはっきりさせること

7)ノート作成の授業理解上の位置づけをはっきりさせること

8)写真・図版などの、授業内での参照性に考慮した教材を用意すること

○二つの建築系授業(Y先生、M先生)に共通する問題

1)教材がない、教材が不適切という点は、既に指摘されたとおり。

2)さらに二つの授業評価会で共通した問題が指摘された。

それは、カリキュラム上の内容重複の問題である。前期授業との関係で、かなり重複しているところがあるという指摘が系の専門教員から(どちらの授業についても)あった。よく言えば、何度も“復習”しながら進めている、とも言えそうだが(現にそういうふうにいいわけをした教員がいたが)、それであるなら、何を積極的に復習させているのかの共通課題がなければならない(共通課題が学生・教員共々共有されていなければならない)。むろんそんな資料は皆無だ。つまりかなり杜撰なカリキュラム(人材目標や「できる目標」以前の)になっているということだ。

そこでふと気づいた。よく考えれば、中学、高校、大学のカリキュラムは、ほとんどの科目を一人の教員が教えているため、通年の整合性が取りやすい。「科目」といっても国語・算数・理科・社会というように“専門化”しているため“連携”の必要はほとんどない。前期後期で選択科目が変わる大学の場合も、ほとんどが専門的に独立した内容であって、教科の連携はほとんど取る必要がない。それに比べれば、専門学校ははるかに科目相互の連携の必要な授業運営が必要とされているということだ。特に〈実習〉教育のような統合的なスキルや知識を必要とされている授業が多くをしめるカリキュラム運営の場合、個々のスキルや知識(つまり別の科目で修得されているはずのスキルや知識)が、“その”実習で、どう統合されているのかが、授業のどの場面においても(またカリキュラム表のどの場面においても、さらにシラバスのどの場面においても)はっきり明示されていなければならない(明示のみならず、履修確認されねばならない)。それが、現状では不在である。不在であるどころか、全く曖昧なまま放置されているということだ。このことが、学生の退屈を誘ったり、むき出しの感性に依存した実習による学生仕上がりの不安定さを生んでいる(要因のひとつになっている)。

履修改革スケジュールでは、すでに来年のカリキュラム作りが動き始めているはずだが、科目同士の連携が確実に見えるカリキュラム作りが求められている。


●授業評価事例(3) ― 建築系2年「卒業研究」(実習)T先生(+実習助手1名)編(1999・10/22)

はじめて、少しは授業らしい授業に出会った感じだ。

この授業は、ゾーニングや動線の訓練をするための実習授業だったが、ただ単に“手”を動かせばよい、といった実習ではなく、「分析」という“知的”な言葉がはじめて出てきた実習だった。

最初に、この授業の評価基準が示された。

「A評価は」といって、前年度のA評価作品が示され、それに引き続き、B評価、C評価の作品が示された。
Aは、エスキスイメージとその分析内容が示されている。
Bは、エスキスイメージはいいが、分析が弱い。
Cは、エスキスイメージすら貧弱で、文字の記述だけに終わっている。

学生の実例で示される評価基準(=授業目標)は、充分に説得力があり、わかりやすかった。
こういった実例を用いた段階表示(しかも明白な評価根拠を明示しながらの)は建築系演習でははじめてのものだ。貴重なものだ。

しかしそうは言っても、こういった実例を示しながら説明される、「イメージ」、「分析」の内実は依然として、教員の熱心なトークに限定されており、〈資料〉あるいは〈教材〉になっていない。

T先生の次の課題は、自らの評価基準を資料や教材に結晶化するということだ。つまり他人の(学生の)作品を持ってくるだけではなく、自らの貴重なトークを作品にすべきだということだ。すぐにでも、ノーツに書き込んでもらいたい。

学生の能力開発という点では、まだまだ問題が多い。
ゾーニングや動線を意識した構想力が依然として(2年生の後期だというのに)貧弱だということだ。まだ、学生は何もわかってはいない。

ゾーニングや動線を意識した構想力を磨き上げる教材を我が建築系は持っているのだろうか?
たとえば、3人暮らし、4人暮らし、5人暮らし、あるいは核家族、祖父母がいるなどといった、家族構成の異質な体制に属した間取りの事例を、数々の視点から(たとえば、住宅の向きや都市部、近郊部、郊外、そしてまたコストといった点から分類された視点から)検討できる教材を、我が建築系は有しているのだろうか(単に「図書館へ行け」とか、「資料をよく見て」にとどまらず)。現状では「ない」というのが建築系教員の返答だった。

つまり、「ない」ままに“丸腰の”学生に貧弱な実例(この日もゾーニングの教育実例としては、美術館のもの一つというお粗末なものであった)を与えて、時間が流れるがままの実習をやり続けてきたわけである。これでは、一年生のエスキス実習や2年生の模型制作、そしてこの授業での学生に能力差が生じないのは明らかだ。“差”があるとすれば、個人差(=経験差)にすぎない。要するに〈教育〉が欠けているのである。「経験が大切だ」というのなら〈学校〉なんていらない。〈知識〉の授業、〈実践〉が必要な授業(=経験が必要な授業)が存在している。その〈中間〉の授業がたりない(ほとんどない)。

〈中間〉の授業がカリキュラム化されていない。ゾーニングの訓練を実践的な教育(だけ)でやろうとすれば、時間と教員がどれだけ存在していても足りない。同じように、(情報系であれば)データベースの概念や意味を、一課題(や一連の操作)でマスターさせることなど神業だ。同じように、(自動車系であれば)ミッションオイルを何度抜かせても、ミッション脱着の行程の意味を理解させたことにはならない。

〈実習〉から概念化の能力や分析能力を育成するためには、数多くのシミュレーションや反復訓練を行う必要(つまり単なる知識でも単なる実践でもない教育過程の必要)があるが、そのための教材が欠けている。

〈実習〉は、むしろそういった能力の検証授業であって、実習授業自体がそういった能力を育成するわけではない。少なくとも今の実習授業が何かを系統だって育てているとはとても思えない。そして、概念化や分析能力とは、昨今の学生に一番足りないものであり、一番求められているものだ。

これこそが、昨今の流れの速い技術や統合度の高い技術に負けない能力育成の課題(真に実践的な課題)そのものなのである。

私が、一連の授業評価に参加して感じた確信は、我が学園の教育力の衰退は、学生の基礎学力の低下によるものでは(断じて)ないということだ。(思ったより)どの学生もそこそこの学生らしい顔立ちをしていた。足りないのは、学園の教育的な努力だ。

もう学生の「基礎学力がない」などと言うのは止めよう。その前に教材を作る能力(=教育力)が学園に欠けているのである。何をしなければならないのか、目標は明白だ。


●授業評価事例(4) ─ インテリア系1年「設計演習2」MA先生編(1999・10/25)

この授業の時間割は「システムキッチンのディスプレイ」というタイトルのままに以下の通り(2〜15)。今回の授業は11番:「図面のインキング」の内容。

1)システムキッチンの見学
2)システムキッチンとは何か(システムキッチンのコンセプト)
3)スケッチ(エスキス1)
4)スケッチ(エスキス2)
5)図面化1(平面図、立面図、断面図、展開図)
6)図面化2(平面図、立面図、断面図、展開図)
7)図面化3(平面図、立面図、断面図、展開図)
8)図面化4(平面図、立面図、断面図、展開図)
9)図面化5アイソノメトリック(等角投影図)
10)図面のインキング(授業評価会10.25)
11)図面のレイアウト
12)作品講評会

ご多分に漏れず、この授業も教材が全くない。にわか作りのA4資料一枚を用意しただけのこと。後は学生の作品の提示。思いつきの(教材なしの)トーク講評。もうこの指摘はほとんど意味がない。普遍現象だ。

さて授業評価会の対象になった内容はもっぱらロットリングの学習だった。ロットリングの直接の目的は断面線、見えがかり線、中線などの立体構成にかかわる線種の設定、ということらしい。それを「システムキッチンディスプレー」という主題の中で学ばせている。この授業も、息が長い“実習”授業だ。見学にはじまり、コンセプト、スケッチ、図面化、アイソノメトリック、インキング、レイアウト、講評会に終わる。この行程は、行儀のよい実務的な行程をほとんど丸写しにしているだけだ。コンセプト、スケッチ、図面化、アイソノメトリック、インキング、レイアウト。どれをとってもそれ自体を学ばせるには年季のいる仕事だ。要するにこれができればプロだというような内容(あるいはこんなことを今時一人でやるプロなどいない)をただシミュレートしているだけだ。

この中で何を学ばせるのか? 一連の流れを学ばせるのには、課題が重過ぎる。何度も言うように建築系は、事柄そのものが総合的な要素が多い。すぐに実習“まがい”のことで、その総合性を反映させたつもりになる。

つまり〈カリキュラム〉が存在していない。〈カリキュラム〉とは、現実の総合性の否定である。

現実的なものは、いつでも総合的(共存的)だ。しかしカリキュラムには順番と秩序、言い換えれば、明確な前提と次の課題が存在する。つまり〈カリキュラム〉を作るには、現実的な総合性をいったんは否定する力が必要だ。教育そのものは人工的なものなのである。背中を見て育てられる職人教育と近代的な学校教育(時間割のある集団教育)との違いは何か。それは、生活と人生と思想をともにするかどうかである。近代教育は学生を(生活と人生と思想を別にしながら)時間割の中で自立させねばならない。それが近代的な教育というものの課題なのである。この教育性が、建築系実習カリキュラムにはまったく欠けている。

「建築は経験だ」「トライ&エラーだ」などと言いながら、〈教育〉を拒否している。単に無教育なのである。実態はエラー&エラーにすぎない。もっと教育的な課題を諸要素に分節化する必要があるのだ。今のままでは、どの部分(見学、コンセプト、スケッチ、図面化、アイソノメトリック、インキング、レイアウト)をとっても中途半端だ。結局、同じ作業を2年になっても繰り返すことになる。

そうやって何が残るのか?
何も残らない。学生の個人差(個人的な資質)が拡大露呈するだけである。今回の授業も同じ時間の中なのに学生の進度がまちまちだった。このままではふたたび補習・補講・再試(再提出)である。

もう一つ思ったことは、「コンセプト、スケッチ、図面化、アイソノメトリック、インキング」などの諸作業は、CADシミュレーションのほうが遙かに“教育的”なような気がする。「トライ&エラーだ」というのなら、CADシミュレーションのほうがはるかに教育性を有している。切ったり、はったり、線をひいたり、というのはそれ自体、根気や時間のかかる作業であり、これを“総合的”にやることは、肝心の教育主題を見失わせることの方が多いのではないか? プレゼンテーション用の模型制作などというのものは(もしそれが必要だというのであれば)、むしろスペシャル(ローカル)な科目にしてしまえばよいのだ。私は、既存の建築系実習はすべて全廃するところからはじめるべきだ、と思う。


●授業評価事例(5) ─ 自動車系1年「ガソリンエンジン実習」(実習)A先生編(1999・11/18)

建築系やイベント系実習に比べると、遙かに安定した実習授業になっている。

教材は、@教科書、A教科書の主要箇所を空欄にした穴埋め教材(これを教員は「自習ノート」)、B過給器の実物 C確認小テスト DOHPの5点

この授業で重要な要素は、@Aである。

教科書(@)を必ず読ませる工夫がまずAになっている。学生はまず、教科書を見ながら穴埋め作業をする。さらに教員が@+Aの内容を読みながら答え合わせをする、というように授業は進む。最後は教科書にそった復習確認テスト。授業内容や授業進行がこれほどわかりやすいことはない。

しかし、この授業の問題点は、長所(安定性)と裏腹である。これなら学校(教場)でわざわざやるほどのこともないということである。たしかに途中で実物の過給器が班ごとに配られていたが、教員が教科書の記述に内容を依存する分、実物にそった細かい説明が不足していた。これでは何のために実物があるのか(何のための実習か)わからない。学生は興味深そうに手に取りはするが、いったいどんな観点からそれを見ればいいのかわからないまま。教員が指示するのは基本的に各部品の名称だけで(つまり小テストの内容が名称を書き込むということなので)、それ以上の細かい説明なし。特に「過給器の原理」の話しをしているのに、圧縮や圧縮比の話しが皆無。空気を送り込むという話しだけで、後は基本的に部分名称(部品名称)の話しにとどまった。これはたぶん教科書と自動車整備士2級という資格対策に縛られているからだ。これでは過給器について理解させたことにはならない。

もう一つ、授業中「過給器はどこに付いているのか」という(もっともな)質問をした学生がいた。説明が単品説明に偏った分、全体(物と物との関係)が見えなくなっているのである。これも教科書の図版が単品主義になっているからだ。こういった要素を補うものが〈教材〉だと思う。それがない。

教科書に定位している分、安定的だが、その分、内容が平板。昨今の自動車ジャーナリズム(自動車雑誌)に慣れ親しんでいる学生からすれば(教科書より遙かに精細な図解を経験している学生からすれば)、退屈だったのではないだろうか。彼らの“偏見”や“浅知恵”を破壊するような「原理」的な話しにはなっていなかった。つまり(唯一、雑誌メディアとは異なる)実物を見せる意味などほとんどなかったわけだ。

要するに整備士2級知識(=2級のための実習)というのは空っぽの知識・実習だということである。教員もそれを意識しながらも(問題があることを充分に意識しつつも)、それに寄りかかった授業を行っている。これでは、学生も、卒業前の数週間にふたたび部分名称の丸暗記をして、この、今の授業を空虚なものにするだけなのである。


●授業評価事例(6) ― 自動車系1年「車両整備実習」(実習)I先生編(1999・10/19)

この授業は、自動車系の実習の雛形のような本格的な実習内容である。

さて、この「トランスミッション脱着」の教材は、@実車(5人に一台) Aトランスミッション B授業の進行(あるいは脱着工程を示した)を示したA4版2枚のオリジナル資料(紙) C日産(実車はNISSANのシルビア)から出ている「整備要領書」の当該個所コピー、以上4点

この授業で一番重要な要素はBだが、これが一番貧弱。
たとえば、「ミッションオイル抜き」というのが最初の工程で、見出し化されているが、内容については、「なぜ最初に抜いておくのか」の一言だけ。すべてその調子で記述されている。要するに「内容は話すからよく聞いておけ」というスタンスの教材になっている。「ノートしろよ」という掛け声はあったが、全員現場で立ったままだからノートなどまともに取れない(それでなくともノート取りがへたな学生なのに)。これでは頭に残るのは、ほんの数分。私たち“大人”であってもそうだ。

重要なのは、なぜミッションオイルを先に抜いておくのかの記述説明ではないのか? 

この種類の記述こそが、NISSANの「整備要領書」にも書かれていない、教育的な内容ではないのか?

もちろん教官は、その点について話し言葉で言及していた。しかし話し言葉は不安定だ。言いたいことが全部言えているかどうかわからない(教員本人にとってこそ)。時間の関係で端折るかもしれない。聞こえない学生がいるかもしれない(当日、同じフロアーで別の教員が別の授業を行っていて、そちらの声はずっと良く聞こえていた)。
しかも内容的に言ってたぶん教官は同じことを毎年しゃべっているのだろう。毎年同じことをしゃべっているような内容は、とりあえず書き言葉にして教材化すればいいじゃないか。

その上で、付加すべきこと、ノートを取らせることを話せば、実習内容はもっと教育的に深まるはずだ。

実車を使っての実習で感じたことは、まず4〜5人で一台の車に取り組むため(ためか)、最初のオイル抜きは車体の下に潜った状態で一人でしかやっていなかった。残りの学生はたったまま手持ち無沙汰。これは厳密に言えば実習ではない。

しかしコストとの関係で無理も言えない。そうであれば、すくなくとも全員下に潜らせはする(潜らせて見学はさせる)とか、あるいは車体をもっと高いところに持ち上げて見やすい状態を作る(教えるときだけは高くする)とか(あるいは比較的多人数が見られる地下型の整備スペースを教授用に一箇所作っておくとか)、あるいはまた大きな写真を見せて当該個所の確認くらいはさせるとかの工夫がほしい(車体を斜めにすることができる実車提示装置が一台分あってもいいかもしれない)。大きな車体下の写真を用意してもいい。

要するに、実習前のイメージ(像)形成をどうするか、ということだ。同じように車体の下に潜らせても車体の下からの風景をイメージして潜るのとそうでないのとは、理解度において全然違う。

〈イメージ〉というのは、〈実物〉と〈知識〉との中間にあるものだ。〈イメージ〉を増大させればさせるほど、〈実物〉へも〈知識〉へもアプローチは容易になる。実物が少ないなら少ないなりの工夫の第一は、写真や図版を通してできうる限り、車体下のイメージをたたき込んでおけばいいのだ。

こういったことの工夫が30年の歴史を持つ科にもかかわらず、なにも考えられていない。すぐに「実車が少ない」「設備に制約や限界がある」というふうになる。

こういった工夫が皆無な状態で、実車を一人一台与えても何も出来はしないだろう。建築系のようなだらしない実習になるだけのことだ。実車の数が何台あろうと、なぜオイルを先に抜いておくのかの説明は必要だからである。

この説明は、車が何台あっても必要な記述だからだ。つまり本質的に教育的な教材がない授業で、環境(設備や施設)の話をする意味は全くないのである。


●授業評価事例(7) ― 情報系1年「データベース実習」K先生(+実習助手1名)編(1999・10/19)

この授業も、建築系のY先生の演習(実習)がそうであったように典型的な情報系の実習授業だったような気がする。

まず一番強く感じたことは、コンピュータ実習で何を教えるのかという問題だ。今日の授業は、一年生にはじめてAccessを教えるというものだった。

私自身は、K先生の講義を聞いていて、Accessが何をするアプリケーションか全くわからなかった。

最大の理由は、データベース(リレーショナルデータベース)の「入門」にあたって、その〈概念〉を教えるのか? それともAccessの〈操作〉を教えるのか? が授業全体を通じてはっきりしていなかったということである。

それは、教材を見ても明らかだった。「はじめてのAccess」というタイトルの元に樋口先生の作られた自主教材(自主作成テキスト)が使われていた。この教材自身が、概念の説明としても不十分、操作の説明としても不十分というもので、K先生自身がまた、この教材に全面的に依存した授業を行っていたから(板書は全くなし、口頭でこの教材を読み上げるだけ)、同じように中途半端なものになっていた。

不満だったのは、Accessがどんなふうに使われているのか、どんなときに使うのかの説明がまったくなかったことだ。概念を教えているかに思えるときにでも、「テーブル」「フォーム」「クエリ」などのアプリケーションの主要構成要素の話にすぐに傾いてしまうために、対応する仕事のイメージとアプリケーションの構成要素が結びつかない。いつも話がアプリケーションの内部に閉じこめられるため、つまらなくなるのだ。

かといって、操作の内容やAccess自身の内容が明白なわけでもない。テキストを見ながら、Accessの構成全体や操作手順が明白になるかといえば、杜撰なままだ。

第一に、このテキストには目次もなければ、ページ表示もない。全体が通観できないばかりか、例の参照指示力(あるいは教材指示力)が全くないわけだ。

さらに、他人の文章を丸写ししたかのような硬質な文章に何度も出会う。丸写しが著作権的にいけないなどということはここではどうでもよい。いけないのは、学生のカリキュラム的な前提、基礎学力や年齢的な関心の範囲に全くそぐわない叙述になっているということだ。他人の書いた文章の丸写しだからである。つまり自主教材の意味が全くないわけだ。

したがって、出てくるもデータ実例も、学生たちになじみの薄い会社の部署や経理的な概念などに引きずられている。この程度の一般的な実例で操作手順を指導するなら、カラー図版の豊富な市販の教材の方がずっと適している(あるいはICAの完全自主教材であるAccess教材の方が格段に優れている)。

もちろん、「テーブル」「フォーム」「クエリ」というものについても何がなんだかさっぱりわからない。授業中後半になって、「フォームはテーブルとはどこが違うのか?」と聞いた学生がいたが、熱心に聞いていればこその質問だった。
たぶん、こういった理解のされなさは、後半の授業(評価会の対象になったこの授業は3時間目の授業だが、4時間目の授業が後半の授業)になって、具体的なテーブルを作る(そしてデータを入力する)といった操作の授業の中で紛れてしまうのだと思う。この段階では、毎回毎回の細かい教員からの操作指示になって、とりあえずは進んで行くからである。とりあえず「テーブル」は作られていくのである。そこでは“わからない”ことは何もない。操作指導というのはそもそもそういったものだからである。これでは「テーブル」を千回作っても、Accessはわからない。

だから、前半に後半の授業を付加しても、結局のところ、Access(あるいはデータベース作成)とは何かがわからないまま、彼らはAccess講義を受け続けることになるのである。

このパソコン実習は、従って、専門学校の情報処理教育が評価されない原因の普遍的な要件をすべて備えている。

第一に、概念(考え方)を教えていないということである。たとえば、テーブルを作るということはデータベースを構造化する(あるいは、仕事を構造化する)ということと同じである。

こういった構造化の訓練を時間割のどこでやっているのだろうか。そう質問したらK先生は「2年生になってからのシステム設計でやることになっている」と答えていた(後の評価会議でも回答)。むろん、これは的はずれな答えだ。テーブルを設計する、というところで、構造化は念頭に置かれていなければならない。要するに構造化の訓練は、時間割的にはこの授業でやるしかないわけだ。だから、そういった訓練は、全くなされていないということなのである。
操作手順や操作手引き書には「テーブルを作る」というのは最初に出てくるが、それは“操作”だからであって、もうその段階でデータベースは構造化されている。要素をどう取り出すか、取り出した要素をどうテーブル化するか、三つにするか、四つにするか、といったことは「システム」以前の構造化の問題だ。つまり「テーブルを作る」ということは、データベースを設計することと同じことなのである。こういった構造化の訓練なしに「システム」設計も何もありはしない。

たとえば、或る仕事の全体のモデルを与えて その中から、@どんな要素を取り出すか A取り出した要素をどうテーブル化するか といった構造化(抽象化)の訓練をするための教材はあるのか? 「ない」というのがK先生の回答だった。

これでは、息の長い人材を養成することはできない。専門学校の情報処理教育の最大の難点をかかえたままなのである。Accessやオラクルはいつでも滅びうるが(そうやって我が学生たちの能力は卒業して仕事をする頃には滅んでしまっていたのであるが)、こういった構造化の能力は永遠に滅びることはない。

この種の教育にパソコンは一台もいらない。かえってじゃまだ。さらにこういった教材は市販されてもいない。〈学校〉が作るしかないからである(販売部数がのびるわけではない、地道な作業だからである)。

しかし、専門学校が今後もなお生き延びるとすれば、ここにしかないという能力養成の勘所に、建築系も情報系も、〈教材〉が全く欠けている。建築系は〈オブジェクト〉に、情報系は〈パソコン操作〉に隠れて、能力育成の本道を全く見失っているというほかない。


●授業評価事例(8) ― バイオ系1年「代謝科学」(座学講義)KB先生編(1999・11/15)

懐かしい、高校の生物学のような授業だった。従って、板書に依存した授業であり、学生もまた熱心にノートを取るといった雰囲気だ。ただしテキスト(教科書)の参照性は高校に比べて遙かに低い(板書と教科書との整合性はまったくない状態だった)。この今日の授業は、“ノートが命”といった授業になっている。つまりこの授業もまた、履修改革の対象そのものの授業である。

何度も言うが、なぜ板書(=ノート)に依存する授業はダメなのか。

板書授業の問題点は以下の通り。

@板書は、記憶に頼るため、間違うことがある。
A板書は、記憶に頼るため、言い足りない場合がある。
B板書は、記憶とトークに依存するため、言い過ぎる(冗長になる)場合がある。
C板書は、書くのに(=ノートを取らせるのに)時間がかかるため教育そのものにかけなくてはならない時間を損失してしまう。
D板書は、スペースが限られているため、消さなくてはならない。そのために板書全体でいいたいことに話しが及ぶと、説得力が半減する(板書は基本的に断片にすぎない)。
E板書は、消える。従って、次回や来年度の授業改善に向けての資料にならない(授業が歴史化しない)。
F板書は、全体を書き終えられることなしには、内容が露呈しない。つまり最初の1行の本当の意味は後からたどられてはじめて意味を持つという意味で、最初からノートをとるというのは、もともと背理なのである(これについては、あとで詳しく言及する)。
G要するに、板書に依存する授業は、行き当たりばったりの不安定な要素を多く含むということだ。

これらほとんどすべてが、KB先生の授業に当てはまっている。

KB先生の授業は解糖系についての授業だったが、この板書の問題は、ATPの発生過程の全体や2種類の解糖(好気的解糖、嫌気的解糖)、反応の可逆性 ─ 不可逆性といった、授業の決して重要ではなくはないポイントが板書の継起的な記述によっては充分におおいつくせていないということだ。本当であれば、板書の全体を、ATPの発生過程の理解に絞った観点からのまとめ(表示)、好気的解糖、嫌気的解糖という観点に絞ったまとめ(表示)、可逆過程か不可逆過程かといった観点からのまとめ(表示)が必要になる。

ところが、これらのポイントを板書で示すことになるとあちこちの余白にそれを任意に書き込むことになる(実際にそうだった)。つまり、KB先生の一見継起的な板書の内容は、実は“可逆的”で構造的な内容を有している。要するに、板書では、こういった構造的で多層的な内容を表現することができないのである。

学生は、書き込んでいる内は、何を書いているのかがわかっているが、あとから見た場合には、そういった構造性や多層性を理解するのには難しい記述(書き込み)しか残っていないことになる。

気の利いた学生などは、赤鉛筆で、あるいは下線を引いて、その記述の構造や多層性をマークしていたが、平面的なノートで努力するとすれば、それで精一杯である。

なぜ、こんなことになるのか。
板書記述の構造的な連関や多層的な連関(つまり板書記述の時間的な継起性に対して言えば、空間的な内容)は、KB先生の頭の中にしかないにもかかわらず、学生からすれば、口に出される、あるいは徐々に記述される板書の時間性からしか、その構造をたどることができないからである。

ノートをとるということ、あるいは後から見てわかるノートをとるということは、実は、板書を写すことではない。
元々〈内容〉というものは、空間的なものだ。

にもかかわらず、記述行為(板書)は、いつでも時間を通して現れる。

書き手(先生)の記述は、〈(書かれるべき)内容〉を知っているという意味で、実は後ろ(=終わり)から書かれている。しかし、書き手ではない読み手(学生)のノートは、終わりからは書かれはしない。それはやっと始まったばかりである。したがって、本当のノートは、二度書かれねばならない。継起的に現れる時間的な叙述を、第一に、それについて語られるトークとともに正確に写すということと、第二に、そういった叙述の全体を終わりまで自ら読み終えて、再度、内容的な秩序に従って、(再)構成するということ。これが真正の〈ノート〉である。

たとえば、授業評価会で、90分、授業につきあう。最初から起こる出来事を継起的に書き留める。詳細に書き留めても、それは、授業評価(=授業理解)にならない。それは継起的に叙述された議事録が議事録でないのと似ている。そういった出来事(や発言)を、それとして構成している原理や根拠が見えてくるとき、はじめて授業評価というレポート(や議事録)が可能になる。つまり、〈書く〉という行為は、いつでも2度のプロセスを経ているのである。むろん、こんな高度なこと(誰にとっても難しいこと)を学生に強いることなどほとんど不可能である。ノートをとるということは、高度に知的な作業なのだ。したがって、ノートを支えるには、唯一、話すことを(終わりから)知っている教員が、終わりを見通せるような仕方で全体内容を(できれば多角的に)開示するしかないのである。

それが〈教材化〉(あるいはメディア化)という言葉にわれわれが込めた意味である。

KB先生は、授業の終わりに近いところで、とってつけたように、OHPを使って、ATPの発生過程を表示したシートを投射していた(なぜ印刷して学生に配付しないのか)。とても不完全な、思いつき程度のものだったが、こういうふうな主題を絞った提示は板書ではできないということを当人もよくご存じのはずなのである。板書に依存する授業は、だからダメなのだ。

さて、こういうことを言うと、たとえば、@「書かせることによって覚えさせているのだ」 A「全部教材で用意するとしゃべることがなくなる」という反問が必ず出てくる。

@について、これがでたらめな意見であることははっきりしている。書かせること自体に意味があるのは、文字自体の練習以外にありえない。授業で重要なことは、〈理解〉であって、〈書くこと〉と〈理解〉とは同じことではない。〈暗記〉が仮に目的であっても、〈理解〉が先行すれば、暗記のスピードはもっと早まるし、はるかに効果的だ。そもそも書くことに追われて(そしてまた〈話す〉ことに追われて)、〈理解〉がすすまないことの弊害の方が遙かに大きい。「学生が書くことにより、授業への集中ならびに理解が高まるとのポリシー」をKB先生はお持ちのそうだが、こんなポリシーは即刻捨ててもらいたい。こういう意見は単なる教材化への怠惰を正当化するためのものでしかない。一体、トーク(あるいは板書)する内容やポイントを教材化して学生に前渡しすることにどんなマイナスがあるというのだろう。
Aについて、これもありそうであり得ない抽象的な意見だ。たとえば、90分授業で(極端に言って)1000枚のレポートや図表を用意した(していた)としよう。たぶん、1000枚もあれば、授業内容は“言い尽くしている”だろう。さてそれを教材にして、その教員は、授業で何もトークすることが無くなるだろうか? 何も板書することが無くなるだろうか? そんなことはあり得ない。1000枚のレポートや図表を前提にしたトークや板書が存在し得るし、そしてまたノートが存在しうる。それは、トークや板書に依存した、つまり記憶に依存した授業よりは遙かに高度な授業である。つまり、はるかに高度なトークや集中度の高い板書が可能になるはずである。

われわれが履修改革で「教材化」といったのは、トークや板書の廃止(や授業のオートマティズム)を言っているのではなくて、〈トーク〉というメディア、〈板書〉というメディアの特性(や限界)を踏まえた授業を行うべきだということを意味している。

これまでは、トーク一辺倒、板書一辺倒(はたまた教科書一辺倒、実習対象一辺倒)といった授業を行ってきた訳である。

これらのメディアは、前項の方は臨場性は高いが、その分主観的で不安定、後項(かっこ内)の方は客観的すぎて、とりつく島がない、といった傾向を有していた。

どちらも、完全履修を目指す教育体制としては、不十分なものだったのである。KB先生の授業は、たしかにとりたてて問題のある授業ではなかったし、むしろ相対的には良い授業の部類にはいると思われるが、“普通の授業”、“良い授業”をやっているだけでは、履修改革はできない、という点で、やはり問題が多かったと言える。


●授業評価中間総括(2000・1・30)

以下は履修改革の次のステップへ向けての諸課題を私なりに整理したものです。

授業評価会の目標は教材開発課題を具体的な事例(授業実態)に則して明らかにすることだ。

ここまでの評価では、やはり〈教材〉が全く欠けているということが明らかになった。

ここでいう〈教材〉とは、〈物〉(模型の数や実車の数のこと)ではない。あるいは教科書や、そこから取り出されたサブノートではない。あるいはOHP教材や作業工程を記した教材でもない。

ここでいう〈教材〉とは一言でいえば、そういった狭い意味での教材を用いながら教員が話す内容(普遍的な内容、言い換えれば毎年同じことをしゃべっている部分)を記した資料のことを言う。この部分が、まず第一に、言葉(資料)にならなくてはならない。要するにその授業で教員が教えたいことが、ほとんどの授業の場合、板書や諸注意(にかかわる叱り言葉)で消え去ってしまっているわけで、ここをまず言葉(書き言葉)にする必要がある。

この部分は、具体化すれば、二段階に分けられる。

第一には、教員が伝えたいことそのものを取り出すこと。また、その伝えたいことの中で、従来の学生が、どんなふうにそれを誤解したり、失敗してきたかを(できるだけ多くの事例を示しながら)例示すること。これは、座学、実習に関わらず、必要な作業だ。

第二に、建築系で言えば、(たとえば)ゾーニングやエスキス作成などの構想力育成のための教材がまったくないということ。情報系で言えば、(たとえば)データベースの概念理解のための教材。自動車系で言えば、(たとえば)過給器の部分名称を超えた概念説明、また〈実物〉を共有するための教材作成など。これらの教材こそが、学校の歴史であり、資産となるものだ。

こういった教材化に我が学園が向かわなかった理由に、この評価会の過程ではたと気づいた。

カリキュラムがしっかりしていないということだ。なんども同じことを反復的に教えざるを得ないほど、カリキュラムが杜撰。それを「ときどきに復習しながら」なんて言いながら、ごまかしてきたのである。正確に言えばカリキュラムがしっかりしていないというより、カリキュラム通りに授業を行うことができていないのである。

教材が安定していれば、カリキュラムが変わったりはしないし(変わってしまえば、大変な損失になる)、カリキュラムが変わらなければ(しっかり作られていれば)、教材開発への集中体制が作られるが、どちらにも政策的な方向性が打ち出されていないため、教材もカリキュラムも中途半端なままだ。

要するにカリキュラムの実体(=授業)に対する信頼感がないため、教材開発への動機が殺がれているわけだ。
これが履修改革から出発したカリキュラム課題の本質的な意味である。つまり学生の成長の諸段階を計る柱がないのだ。同じことを反復的に繰り返して、「それなりの」人材を作ってきただけなのである。結局のところ、それはコアになる人材育成の目標像が明確ではないということだろう。それがないために、各校・各科の個性も見えなければ、高度科(研究科)の高度性も見えない。高度教育を標榜する研究科もただ2年生の内容を間延びさせているだけだ。それは単に2年間の専門課程の1年をかけた復習にすぎない。コアの科目の選定とそれに対応するコア教材作成が、つまり基本能力の教育力整備が真っ先の課題なのである。

(以上テラハウス東京工科専門学校:ロータスノーツ「掲示板」1999/10〜2000/1より)



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【265】 連載:高等教育・職業教育・生涯教育(5) 2001/1/31(水)01:19 芦田 (44999)
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