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228 re(8):お正月、最後の映画は「八日目」で(ちょっと古いか?)。
2001/1/11(木)22:11 - 芦田 - 3651 hit(s)


加藤> 料理を食べるときに何も深く考える必要はなく、おいしい、まずい、満腹になった、それだけで充分です。しかし、「この店はオリーブオイルの使い方がうまい」「もしかしたら隠し味にあれを使っているのでは」「まずいのは材料が新鮮ではないからか」「味付けをこう変えればなおうまいだろう」などと考えながら食べることもできます。私の書いた「映画について考える」というのはそういうことです。芦田さんの考える「深く考える」とは食い違っているかもしれません。

やっぱり、違いますね。私の言う「深く考える」という場合の「考える」とあなたの言う「考える」とは。

料理を「深く考える」ことなどほとんど不可能です。なぜか。人によって違いすぎる味覚(知覚の一部)に、その本質を依存しているからです。あるいは、場合によっては、素材(素材の新鮮さや素材自身の味わい)に依存しすぎているからです。

したがって、ある料理を「おいしい」と言っている人間にたいして、それは「おかしい」(=間違っている)と言うことができません。日本料理の中でもそうですが、世界の料理ということにでもなれば、いったい「おいしい」とは何かという問題は、難しい話題になります。場合によっては、「おいしい」ものを食べるだけのお金を持っているのかといった、もっと外面的な理由も介在してくることもあります。“キャビア”について「深く考える」にはお金(キャビアの味の本質とは何の関係もないお金)がいります。

「深く考える」というのは、「おかしい」(=間違っている)ということが、外面的な事情に影響されずにどれだけ自由に言えるか、という領域でのことです。私が「深く考える」というのは、その対象が自由な対象かどうかということに関わっているわけです。

たとえば、自動車批評という領域があります。ふざけた領域だと私は思います。どうしてもお金がかかった車が「良い車」になってしまうからです。だから、この領域の批評家達の常套句は、「このクラスの車では」良い車だ、といった、なんだか訳の分からない批評になっています。したがって、私はクルマについては「深く考える」ことをしません。あるいはもっと別のことでいいましょう。この間、私は自分のクルマのタイヤを変えました。変える前の私の車は、特に低速域での直進安定性が大変悪く、専門家達に問い合わせてみると、たとえば、タイヤがもともと幅広だからとか、ホイールベースがかつてより短くなったから、とか勝手なことを言っていました。でも、今回タイヤを変えたら、ハンドルをとられることなど全くなくなりました。こういったことを実際にそうすることなく、指摘できるかどうかが批評の自由にかかわっています。しかし、この場合、直進安定性(の不安要因)がタイヤのせいなのか、サスペンションのせいなのか、それとも別の要因によるものなのかを、見極めることは、かなり難しい(=「深く」考えてもわからない)ことです。つまり実際にやってみないとわからないことが、クルマの世界にはたくさんあるわけです。語の単純な意味で、クルマは“複雑”なのです。たぶん、この意味では料理も同じように“複雑”なのです。この複雑さは、私の言う「深さ」とはまったく無縁です。つまりクルマや料理については、「深く考える」ことがその対象に即して考えることを直ちには意味しない、ということです。つまり、「深く考える」ことについては(相対的に)不自由な領域だということです。

もちろん映画は、料理よりははるかに自由な領域(批評が成り立つ領域)だと思います。しかし、たとえば、文学(や哲学)よりは不自由でしょう。なぜか。たとえば映画は作るのにお金がかかります。だけど、小説や詩をかくのに、お金はかかりません。鉛筆一本あればそれですみます。また、消費過程も映画より小説の方がはるかに単純で、簡易で、公平です。つまり素材的にも、消費過程(受容過程)においても、映画よりは文学の方がはるかに〈自由〉なのです。〈自由〉であること、これが「深く考える」、深く考えることができることの根拠です。

「深く考えるのはやめましょう、映画は深く考えなくても良いのがいいところです」(「芦田の毎日」213番)と私が言ったのは、その意味でのことです。これはしたがって、「深く考えるのはやめましょう。おいしい、おいしくないなんてことを真剣に考えなくてもいいのが(真剣に考えてもなかなか正しいことを言えないのが)、食事をすることのいいところです」というのと同じことなのです。

たしかにあなたの言うように、何についても考えることはできます。それはしかし、考えることについて尊重しているように見えて、そうではないのです。考えることにとって重要なことは、いったい何が考えることに値することなのか、を考えることです。

ピザ屋に入って、タバスコが出てくると、「これって、アントニオ猪木が輸入しているんだよ」なんて、訳の分からない“思考”を披露している人がいますが、こういった知識主義から離れることが必要です。「シンドラーのリスト」が「アカデミー賞ねらい」だというあなたの見解も、このタバスコ・猪木論と似ています。

「シンドラーのリスト」なんて、スピルバーグの作品の中では、最低のもの(の一つ)でしょ。なぜ、シンドラーは、「シンドラーのリスト」を作ってユダヤ人を助けたのか、何もわからないじゃないですか。そこを白黒映画の中で、「赤い」服を着た女の子の悲惨という形で「映像」的に逃げてしまった。そんなことで映画一本作るなんて、あきれるしかありません。あなたの言うように「激突」の方がはるかに映画的でいい作品だと思いますよ。


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