表紙 | 芦田の毎日

免許・資格教育と大学改革

−リクルート カレッジマネジメント 第96号 (1999年5-6月)

テラハウスICA 芦田宏直

免許・資格教育といえば、従来、専門学校の領分とされてきた。しかし最近では短大はもとより、四大でもその教育が拡がりつつある。一般教養不要論、文学部不要論などとともに、大学の"実学"指向の動きのひとつかもしれない。

失業者や転職希望者を対象とした市井のリカレントスクールならいざしらず、高等教育の分野で免許・資格教育が前面化するというのはどういうことだろうか。

考えられ得る理由のひとつは、ここまで大衆化した大学(=基礎学力の低下した学生を迎える大学)が、何をどう教えればいいのかわからなくなっているということだろう。シラバスの詳細化などを皮切りに授業目標管理を強化しつつある各大学も、結局のところ、年中行事のような作文シラバスに打つ手なし。授業実体とシラバスとが遊離する中で、学生の仕上がり目標をどう構築していくかという課題は空回りし続けていると言える。専門家(教授たち)のつく嘘(=シラバス)ほど是正しづらいものはないのである。

そこで、免許・資格教育、ということになる。目標(カリキュラム展開)が明確、動機付けも簡単、講師評価・授業評価もたやすいなど本来の教務機能をほとんど介在させることなく展開できる。また短期的な目標にしか目を向けようとしない最近の学生の性向にも合致する。

結局、免許・資格教育は、衰退しつつある大学教育をさらに弱体化させる契機でしかない。専門学校が「職業教育」機関とは言われながら社会的な信任を得られない最大の理由は資格免許教育以上の内実を持てないでいたからだ。免許・資格に依存するということは、自前の教育目標を構築する力がないということ、つまりそれ自体で内実を持つ教育を行い得ないことを意味するのであって、専門学校は"予備校"のように外部の目的に従属しながらただ通過する(=消費される)ためだけの学校になっている。教務機能(カリキュラム開発と授業管理)が全面的に衰退しているのである。もともと大学教育では縦割りの専門性が本来あるべき教務機能を殺いできたが、免許・資格教育の前面化という形でその傾向をいっそう強めているのである。

むろん、学生たちが免許・資格教育に関心を持つのにも理由がある。おそらく就業前の教育機関(つまり〈学校〉教育)にとって、その学生が身につけた能力に〈表現〉を与えるということは決定的なことなのである。就業後の能力評価というのは、常に評価者が"同僚"や"上司"、そして"経営会議"などという形で隣接しているため、能力〈表現〉をわざわざ介在させる必要はない。いわば毎日が無言の試験である。しかし学歴と面接だけで評価が決まる(就業前の)学生にとって、自らの能力に端的な表現を得ることは、能力の養成や発揮と同じくらい大切なことだ。自分の実力を短い時間で説明(=表現)すること ─ 実力を発揮することではなく ─ は、誰であっても難しい。一度職場を離れた人たち(失業者、求職者など)が免許・資格を必要とするのも同じ理由からである。彼らは〈実力〉を求めているのではなく、〈表現〉を求めているのである。

大学にしても専門学校にしても、学校教育(就業前教育)に携わる者の責務は、自らの教育成果に〈表現〉を与えることにある。企業内教育と学校教育の違いは、その育成能力の表現性の有無にあると言ってもよい。企業内教育(就業後教育)では諸課題が具体的に見えているため評価の内容が実体的になるが、学校教育では能力を実際に適用する場面が欠けているため、その分、能力自体をいかに正確に表現するかということが能力育成と同じくらい重要なものになる。

現状では学歴(=偏差値)以外の徴表をいっさい与えられていない学生にとって〈面接〉試験は孤独な出来事なのだ。高等教育が、出口における学生の能力がどれほどのものであるのかを表す方法を、〈偏差値〉以後まったく考えてこなかったからである。高校が大学に対して持っている緊張感を、大学はその出口の企業や社会に対して持ってこなかったのである。大学生たちが、実体も名(さえ)もない教授のゼミに出るよりは免許・資格講座に走るというのも、したがって理由のないことではない。実体のない免許・資格は多いが、何ほどかの〈表現〉性はどんな免許・資格も有しているからである。

つまり大学が免許・資格教育を前面化するというのは、二重の意味で大学の衰退を象徴しているということである。ひとつは、本来の意味での教育力(カリキュラム開発力と授業管理能力)の衰退。さらには、自らが育成した能力に〈表現〉を与えなければならないという〈学校〉教育(就業前教育)特有の課題の忘却。

さて、大学はどこへ?

(1999/04/17掲載)


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