P.リクールは、
リクールによれば、口頭言語における指示は「公然的」である。たとえば、〈口頭言語(パロール)〉で「あなた…」と言われた場合、この「あなた…」は、「対話」の〈そこ〉に居る「身体」を有した「あなた」であって、この「あなた」という語(パロール)は、「対話」の〈そこ〉に居なければ、誰を指示しているのか(意味が)わからない。この〈口頭言語〉の〈そこ〉を、リクールは、〈状況〉と呼び、そこでのディスクールの指示性を「公然的」と言う。
(…)対話が究極に指示するのほ、対話者どうしに共通な状況である。そして、この状況はいわば対話をとりかこんでおり、その状況のあらゆる指標は、身ぶり手ぶりで示されたり、言述それ自身によって、また諸指示詞、時間や場所の諸副詞、動詞の諸時制などの指示する手段によって公然的、指呼的に示されたりする。口頭(オーラル)のディスクールにおいて、指示の性格は公然的であるとわれわれは言おう。(『解釈の革新』53頁、傍点はリクール:以後、単にページ数だけを記載したものは『解釈の革新』からのもの)
けれども〈
たとえば、われわれがギリシャ《世界》と言うとき、それはもはや状況の諸々を生きた人々にとって、その状況の諸々が、どんなものであったかを示すためではなく、最初の状況の諸々が消えた後にも残り、以後、可能的な存在の諸様式として、われわれの世界-内-存在の象徴的な諸次元として提供される、非状況的な諸々の指示を示すためのものである。私にとって、文学の指示対象とはすべてそういうものである。それは、もはや対話の公然的な諸々の指示の示す環境世界(Umwelt)ではなく、われわれが読み、了解し、愛するであろうあらゆるテクストの非公然的な諸々の指示によづて投企された世界(Welt)である。一つのテクストを了解するということは、同時にわれわれ自身の状況を打破すること、あるいは、そういってよけれぱ、われわれの状況の諸々の述語のただなかにわれわれの環境世界を世界に拡大することが、テクストによって開示される諸々の指示について語ることを可能にする。むしろ、それは、世界を開示する諸々の指示といった方がよいかもしれない。ここでもまた、言述の精神性が、書記行為によって明瞭になる。言述の精神性はわれわれに、一つの世界を、つまり、世界-内-存在の、新しい次元の諸々を開示することによって、われわれを、諸々の状況の有している可視的な感覚性や限界から解放してくれる。(54頁)
わずらわしい、ハイデガーの用語の借用の是非については留保するにしても、リクールは、〈文字言語〉の(本質としての)指示の非公然性という概念を導入することによってガダマーが「時代の隔たり」、「疎隔」と言う場合にひきずっていた恣意性を払拭しようとしている。〈文字言語〉こそが、またその指示の非公然性こそが書き手と読み手を事実的(本質論的)に「疎隔」するのである。
リクールは「口頭言語」においては話者の「心的志向」と「言述の意味」とが「重なりあう」(52頁)と言っている。指示が「公然的」であることは、この「重なりあい」における「対話的関係の狭さ」(55頁)を意味している。つまり、「口頭言語」における「あなた」は「可視的な感覚性や限界」のおかげで「公然たる指示」対象を有していて、この「あなた」の意味はそのためにむしろ「狭い」。
「しかし、書かれた言述において、書き手の志向とテクストの意味は一致しなくなる」(52頁)。「あなた」とそれが書かれる場合には、その「あなた」と発話された時間・空間からその書かれたものは疎外されている。「あなた」と書かれたそれを読む時間・空間においてそのあなたは〈そこ〉にはいない。「あなた」の意味としての指示対象の性格はその意味で「口頭言語」と「文字言語」とでは明らかに異なるのである。
リクールは「文字言語」の「状況」的・「環境世界」的な指示対象の不在を、むしろ、指示対象の「精神性」として積極的に評価する。それはテクストを読むことのできるものならば「誰にでも」、つまり「口頭言語」の発話ざれる〈そこ〉にいないものにでも差しむけられているからである。「文字言語」における指示対象の「精神性」 ― というよりリクールにとってはこの「精神性」は「絶対的テクストという一切のイデオロギー」(ヘーゲル的ダーシュテルング叙述論を頂点とする)に対する「指示対象なきテクストという理想」(50頁)の条件をなしている ― は「環境世界を世界に拡大する」指示の「開示性」を意味しているのである。
その場合(「誰にでも」向けられている「文字言語」の指示の場合 ― 註・芦田)、対話関係の狭さは打破される。(…)書かれたものは、読むことのできる者となら、誰とでも一対一の関係をなす。対話しあう二つの主体が共に現前することは、「了解」のモデルではなくなる。書く=読むの関係は、語る=聞くの関係の特殊ケースではなくなる。(…)言述は出来事としての瞬時のはかなさ、その著者の体験という限界、公然たる指示という狭さをまぬがれることで、対話者どうしが対面する狭さをまぬがれ、もはや目に見える聴き手を持たなくなる。目に見えぬ未知の読者が、言述の特権的受け手となる。(55頁)
心理主義、あるいは心理主義的解釈学批判としてのリクールのモチィーフが、とくに「出来事の、意味への超出」という点でフッサールに依存していること(特に『幾何学の起源』のフッサール)は明らかであるが、フッサールはしかし、言語の意味を論じるときにその本質論として〈口頭言語〉と〈文字言語〉とにわけたりすることはない ― 『幾何学の起源』で(後期)フッサールは「文字による表現、記録された言語表現」にふれてはいるが、しかしこの論文ではフッサールは「言語の起源に関する一般的問題」には「立ちいらない」と留保している。
リクールの〈口頭言語〉の〈状況〉としての「指示性」(「指示の公然性」)の問題は、フッサールが「知覚陳述」の意味について、特に『論理学研究』第6研究で論及しているものにかかわっている。
一つの例を考察してみよう。私がいま庭を見ていて、「一羽のアムゼルが飛び立つ」という言葉で私の知覚を表現するとしよう。この場合、意味が伏在している作用はどれであろう? 第1研究の論述に照らして言えば、それは知覚ではない。少なくとも知覚だけではない、と言えるように思われる。すなわちこの間の事情を、あたかも、この語音を除けば、この語音と結合した知覚以外には何もなく、したがってこの表現の有意味性を決定するのも、この知覚だけであるかのように記述するのは、まったく不可能なことのように思われる。この同じ知覚をもとに全く別の言表を行い、全く別の意味を展開することも可能であろう。たとえば「この鳥は黒い、これは黒い鳥だ」、「この黒い鳥が飛び立つ、舞いあがる」などとも言えたであろう。またこれとは逆に、知覚がいろいろと変動しても、語音とその意味は変わらないと言う場合もありえよう。知覚する人の相対的な位置がたまたま移動すれば、そのつど知覚も変わるし、また同じものを同時に知覚する人びとが全員、全く同じ知覚をもつということもありえない。しかしこのような相違は知覚言表の意味に影響を与えるものではない。もちろん時にはこの種の相違が特に注目されることもありうるが、しかしその場合はそれに応じて言表の内容もすっかり変わらざるをえないであろう。(『論理学研究』邦訳4巻30〜31頁・傍点はフッサール:以後巻数表示と共に指示するものはすべて『論理学研究』みすず書房版から)
言語の〈意味〉としての〈指示〉性が、フッサールにとっては、たとえそれが〈状況〉の言語としての「知覚陳述」であっても「非公然的」であることは明らかである。人は「同じ知覚」に基づいて(さえも)「全く別の陳述」を行うことが「できる」からである。「この鳥」と言われている「鳥」が、どの鳥であるかを、たしかにリクールの言う〈状況〉は「公然的」に指示するかもしれない。しかしそのことと「この鳥」という「言葉」の〈意味〉を理解することとは別のことである。どの鳥かであるその「同じ」鳥を見ながら、ひとは「この鳥」と言わずに「この黒い鳥」と言うことも「できる」ということは、「この鳥」という言葉の〈意味〉はその両者(「この鳥」と「この黒い鳥」)の選択的な差異の中にしかないということである。この差異は知覚対象としての鳥の、この鳥の〈あの鳥とは異なる〉判別性とは別のものである。なぜなら、「同じ知覚」に基づきながら、「同じ知覚」に基づいてこそ「この鳥」と「この黒い鳥」とは生じえているからである。つまり表現上のこの差異は知覚(の差異)に解消できない構造を有している。どの鳥であるかを判別させる知覚対象としての鳥は「この鳥」ということばの意味とは別の水準にあるのである。
「知覚陳述」のこのベドイトゥング意義作用は「口頭言語」と「文字言語」との区別に別れる以前の、言語の本質論に属している。
(…)表現体験は、知覚がそれに伴っていようといまいと、対象的なものへの志向的関係を有している〈…)。知覚と語音とを媒介するこの作用こそ、本来意味付与作用として働く作用のはずであり、有意味的に機能するその表現にその本貫的成素として属するこの作用が、(その表現の真偽や適否を)確証する知覚がその表現に随伴していようといまいと、それにはかかわりなく、意味の同一性を制約しているのである(4巻33頁)。
フッサールの言う「意味の同一性」は、それゆえ、たとえそれが「知覚陳述」に属するものであっても、言語の指示対象の知覚上の同一性に定位しているわけではない。〈表現〉が成立するのは、知覚(知覚対象)と言語(の意味)との間に一つの差異、知覚対象に定位しない差異 ― リクールの言い方で言えば「非公然的」な差異 ― が入り込むことによってであり、「口頭言語」と「文字言語」とに区別されることによってではない。 なるほど「目頭言語」は「話す」。つまり「音声」で意味(指示)する。この「音声」の届く距離が「対話」の距離であり、その指示は「公然的」であるけれども、そうであるがゆえに「狭い」(ようにリクールには思われる)。リクールはこの「公然的」指示の「狭さ」を「心的志向」と「言述の意味」との直接的な「合致」として「意味」の心理主義的な狭陸化を批判していたわけである。
しかし、ひとは「音声」で話すけれども「音声」を話すのではない。ひとは「意味」を話し、また「意味」を聞くのである。これは「話す」とか「聞く」ということの「比喩」(4巻162頁)的な言い方としてそうなのではない。むしろ「音を聞く」、あるいは音声としての「音を出す」という言い方こそが一つの比喩なのである。単なる「音」というものはない。「音」はいつでも何かの音である。その意味で「音」を聞くというのは「音」の「意味」を「聞く」ということであり、現象学的な統一体として志向的に超越的な構造を有している。「文字言語」の場合はそれが視覚の超越的な構造に属するだけのことであって、ひとは「文字」を見るのではなくて、「意味」を見るのである。フッサールが言うように「私が見るのは色彩感覚ではなく、色のついた事物であり、私が聞くのは音響感覚ではなく、歌手の歌である」(3巻171頁)。
つまり、見たり、聞いたりするということ自体が、すでに「知覚」の問題ではないのであり、「音声」の距離の問題と「言語」の指示の距離の問題を同列において議論すること自体が、〈指示一意味〉の問題〈の本質論)からリクールを決定的に遠ざけているものなのである。
仮に「聞く(あるいは見る)」ということが「何」を「聞く(見る)」ということについて不明で不確かな場合でさえ、「聞く(見る)」ということは、自己を(その「何を」ということへと)差異化している。聞い(聞こえ〉たり、見たり(見えたり)するものへの(意味)志向ということに対して、その志向の充実化〈作用)は、志向に何か別のものを付加するわけではない。「志向は志向を充実する作用とつねに合致する。すなわち志向の中で思念されている対象は、充実化作用の中で思念されている対象と同じものである」(4巻77頁)とフッサールは言っている。志向の対象は志向それ自身において「与えられている」のであって、その「充実化」を待って「対象」と言われているものが与えられるわけではない。志向の対象は何等かの「充実化(作用)」における「予期」の対象ではないのである。「志向は予期ではない」(4巻57頁)。フッサールにとって「対象の認識」と「意味志向の充実化」ということとは「同じこと」であるが、しかし「対象」とは意味作用にとって必ずしも「実在する」対象であるとは限らない ― そのことが志向対象と充実の対象とが「つねに合致」し、「同じ」対象であることの現象学的な意義なのである ― ことからすれぱ、「充実化という用語の方が認識関係の現象学的本質をよりよく特徴付ける表現なのである」(4巻50頁)。
「実在」ということに関して言えば、ひとは「この鳥」を実際に見ていない場合、つまり視覚の対象としての「この鳥」が「そこ」に「実在していない」場合でも、「この鳥」という言葉(言葉の意味)を理解することができるし、また「丸い四角」は、「実在的」ではないが、しかし「無意味」なわけではない〈「反意味的」であるにしても)こと(2巻65頁、および3巻l l 9頁を参照のこと)からも明らかなように、意味志向の充実化ということは「実在的」な対象以上のものをカバーしている(3巻170頁を参照のこと)。
しかし、そのことは「充実された」意味を一つの「内在的」対象性として理解することを意味しない。現象学的還元とは実在的世界の、現象学的「意識」もしくは現象学的「体験」への「内在的」還元なのではない。フッサールは「内在的対象性」あるいは「対象の志向的または心的内在というスコラ的表現」における「誤解」に留意している(3巻169頁を参照のこと)。「この鳥」以上に「内在的」であると思われる「神ジュピター」を表象する場合について、フッサールは次のように言っている。
私が神ジュピターを表象する場合、この神は表象された対象である。それは私の作用の内に「内在的に現在して」おり、私の作用の内に「心的内在(mentale Inexistenz)」を有している。厳格に解釈すれば誤りとされるような表現を使って、さらにこれをどう言いかえようと、そうである。私が神ジュピターを表象するということは、私が何らかの表象体験を有しており、私の意識の中で神ジュピターの表象作用が行なわれるということである。われわれはこの志向的体験を思いのままに記述しうるが、しかしもちろん神ジュピターのようなものがその体験の内部に見出されるわけではない。したがって「内在的、心的」対象は、体験の記述的(実的)成素に属しているものなのではない。すなわち実際にはそれは決して内在的でも心的でもない。もちろんそれは精神の外に(extra menta)あるのでもなく、それは全然実在していないのである。(3巻170頁)
「神ジュピター」が意識の外部に「実在」しないということは、意識の内部にも「実在」しないということである。意識の内部を「実在」的なものとする思考こそが「心理主義」 ― フッサールが批判してやまない ― に属しているのである。「われわれには意識の《内部》も《外部》と全く同様に実在的であると看倣される」(2巻138頁)。仮に「神ジュピター」が「表象」上の、たとえば「大きさ」を持つとしても、それは「実在」として、あるいは「定在」としての「大きさ」としてそうなのではない。「私」が「神ジュピター」を「表象する」ということは、意識の内部に「神ジュピター」が定在しているということを意味しているわけではない。意識は、一つの箱の中にそれよりも小さな物を入れるようにして ― 「あたかも『箱』の中にでもあるかのように」(2巻182頁) ― 、「神ジュピター」の「表象」をもつのだろうか。意識の、定在的な「大きさ」とは、たとえば心(臓)の「大きさ」なのであろうか。その心(臓)のどこ(どのそこ)に「神ジュピター」は「実在」しているのだろうか。
「チョーク」の内部を捜しもとめて「チョーク」を折ってみる。「断面とそこに配列されている諸断片は今や外にある。しかし、ただいましがたまで内部であったこの平面そのものは、まさにチョークの切片にとってはいつでもすでに外部にあったのである。(…)内的なものは、本来さらに後ろに控えている外的なものにすぎない」(『物への問い』邦訳35頁)といっていたのは現象学者ハイデガーである。
内在的なものは「実在」しない。そのように「神ジュピター」は「全然実在していないのである」。
フッサールは「イエナの勝者」と「ウォーターローの敗者」という表現について「対象と意味とは決して一致するものではない」(2巻57頁)と言っている。「表現された意味はそれぞれの対語において、明らかに異なっているが、両方とも同じ対象を思念している」(同前58頁)。しかし「同じ対象」とは、この場合少なくとも「ナポレオン」のことではない。それはそれ自身もうひとつの別の「表現」にすぎない。頻繁に(解説的に)例示される「明けの明星」と「宵の明星」という表現は「金星」という「同じ対象」を持つわけではない。本質論として言えば「明けの明星」と「金星」(という表現)は「宵の明星」(という表現)と「同じ対象」を持つといっても先の(奇妙な)例示と別のことを言ったことにはならないからである。フッサールは「対象と意味とは決して一致するものではない」という誤解を招きやすい第l研究のコンテクストに後(第5研究)になって注意を促さねばならない。つまり現象学的考察にとって「対象性それ自身は無(何ものでもないの)である(ist nichts)」のであり、「なぜなら、それは、一般的に言って作用にとって超越的であるからである」。次のようにフッサールは続けている。
どのような意味で、またいかなる権利で対象性の《存在》が論じられようと、あるいはまたその対象性が実在的であろうとイデア的であろうと、あるいは真実であれ、可能であれ、不可能であれ、そういうこととは無関係に、作用は《それへと向かっている(auf sie(die Gegenstaendlichkeit)gerichtet)》のである。(3巻212頁)
「対象(性)」は、(それが実在的なものであれ、イデア的なものであれ)《存在》するものなのではなくて、それへと「志向的体験」としての「作用」(3巻175頁)が「リヒテン向かう」ものなのである。現象学的に「与えられている(Es gibt)」のはこの「向かう」という自己超出的な差異化(主観の表象作用とは区別された)なのであって、たとえ「イデア的な対象」であっても、この所与性には遅れた存在なのである。というのも、志向の充実化としての対象化ということは、「向かう」ということにとってはいつでもそのつどの「作用」において偶然なままであって、「向かう」ということは本質的に対象が「可能であれ、不可能であれ、そういうこととは無関係に」それに「向かう」ということであったからである。「意味作用(Bedeuten)それ自身は認識作用ではない」(4巻50頁)。「まず最初に、しかも自立的に(fuer sich)与えられているのが意味志向(Bedeutungsintention)であり、ついでそれに対応する直観が付け加わる」(同前)のである。つまり「向かう」ということはつねにすでに「向かう」こととして「向かう」のである。
しかしそれでも「向かう」ことは「何か」を「狙う(abzielen)」(3巻176頁)こととして「向かう」のではなかったか。そうだとすれば「向かう」ということは何に「向かう」のだろうか。
「たとえば『火星に人間がいる』と表象するものは、『火星に人間がいる』と言表する者とも、さらにまた『火星に人間がいるだろうか』と質問する者や、『火星に人間がいたらなあ』と願望する者などとも、同じこと(Dasselbe)を表象しているのである」(3巻211頁)。「言表(されたもの)」、「質問(されたもの〉」、「願望(されたもの)」は、「同じもの」、つまり「対象」ヘの「関係の仕方の相違」としての「志向的諸体験」の「記述的相違(deskriptive Unterschiede)」とフッサールは考えている。しかしこの場合、その記述的対象としての、たとえば言表対象(言表されたもの)と対象としての対象(「同じもの」としての「対象」)とは、別のものなのだろうか。
(…)どの作用においても志向的対象とは表象作用の中で表象された対象のことであり、しかも最初から《単純な》表象作用である場合以外、その表象作用はつねに一ないしそれ以上の他の諸作用と、というよりはむしろ作用性格と非常に緊密にからみあっており、それゆえ表象された対象は同時に判断された対象、願望され、希望された対象などでもある(…)。したがって志向的関係のこのような重複的性格(Mehrfaeltigkeit)が形成されるのは、諸作用が互いにあい結合して並存し継起するからではなく ― もしそうだとすれば対象は一つ一つの各作用が生起するたびに改めて何度も志向的に現在することになるであろう ― やはりそれは厳密に統一的な一つの作用の中で形成されるのであり、そしてこの統一的な作用にとっては、対象はたった一度(ein einnziges Mal)、しかも一つかぎりの対象として現出するにすぎず、しかもたった一度現前する(einziges Gegenwaertigsein)この瞬間に、複合的志向の目標になっているのである。(3巻227〜228頁)
「志向的対象」に関係する「相違」が「記述的」であるのは、「志向的対象」というものが「たった一度、しかも一つかぎりの対象」として現前するものだからである。「同じもの」としての対象を志向するということと、たとえば「言表されたもの」としての対象を志向するということとは対象性からすれば別のものを志向することではないのである。「明けの明星」の、「宵の明星」と「同じもの」としての対象は「明けの明星」の志向するものと同じものである。それは「明けの明星」が意味する「たった一度」の「一つかぎりの対象」なのであって、「宵の明星」との「並存」的「継起」的な類比(あるいは抽象)によってはじめて存立する対象性ではない。つまり「明けの明星」(という「表現」の「記述」性)は、それ自身において「同じもの」としての「対象」に「向かう」のであって、その志向は自分自身に向かっている。ここでフッサールは「志向」としての「向かう」ことの対象は「志向されているもの」であると言っているだけなのである。
表象の対象、《志向》の対象は、表象された対象、志向された対象である。私が神や天使のような英知的存在それ自体を表象しようと、あるいは物理的事物や丸い四角などのようなものを表象しようと、ここにあげられたこの超越的なものはまさに思念されているのであり、したがって志向的客観である(これは同じものを別の言葉でいいかえたにすぎない)。しかもそこでは、この客観が実在しようと、虚構されたものであろうと、あるいは不合理なものであろうと、それは問題外である。対象が《単なる志向的》対象であるということはもちろん、対象は実在するが、しかし志向の中でのみ(志向の実的成素として)実在するとか、あるいは対象の何らかの影が志向の中に実在するとかいうことではなく、志向、すなわちそのような性質の対象を《思念する作用(Meinen)》は実在するが、しかし対象は実在していないということである。(3巻225頁:傍点はフッサール)
「対象性それ自身は無である」と言われたときに、すでに「志向」の「向かう」ところは「志向」それ自身に属していることが決定的であったように思われる。
志向の対象は志向されたものである。これは空虚なトートロジーだろうか。志向の対象は志向されたものであるとしか(フッサールが)言わないことは、一つの欠如を意味しているのだろうか。
言語の「実在性」とは音声としての、あるいは書字としての実在性であるが、しかしその指示性は、指示の対象の実在性であることの以前に言語の能記的側面としての音声としての実在性、あるいは書字としての実在性でもあった。ひとは音を間くのではなくて、意味を聞くということは、言語の能記的実在性こそは、言語にとって、特に言語の意味にとって本質的な条件でないことを示すものなのである。だからこそ《伝達》ということは、フッサールの言語理解にとって決定的な意味を果さない。意味を間く、あるいは意味を見るということは他者(他人)の心的体験を追考することではないからである。もとから意味そのものが端的に《向かう》こととしての超越(差異)を形成しているからである。心理主義こそが他人論としての他者論に拘泥する。この心理主義的な他者論こそがフッサールの独話(独り言)論の矛先が向かうところなのである。
記号の現存は意味の現存を、より正確に言えば意味の現存についてのわれわれの確信を動機づけはしない。(……)このことは伝達的対話における表現にも妥当するが、しかし独り言の場合の表現には妥当しない。後者の場合、われわれは通常たしかに、現実の言語の代わりに、表象された言語で満足している。話されたり、印刷されたりした言語記号は想像の中でわれわれの念頭に浮かびはするが、しかしそれは実在していない。だからといってわれわれが想像表象を、ましてやその根底にある想像を想像された対象と混同することはあるまい。想像された言語の響きや想像された活字が実在しているのではなく、むしろそれらの想像表象が実在しているのである。その相違は想像されたケンタウルスと、ケンタウルスの想像表象との相違と同じである。(2巻46〜47頁)
それゆえ「言語が実在していなくても、われわれの妨げにはならない」(同前)のは、言語の能記的実在性が、単なる音や単なる線描としての文字ではないからである。「表象された言語」の音声や文字は、脳(耳)の《内部》で再度響いたり、描かれたりしているのではなくて、つまり「実在」しているのではなくて、それらの「想像表象が実在している」のである。このことはもちろん独話(独り言)にのみ固有なことなのではない。音が聞こえたり、文字が見えたりする《伝達》の場合にこそ、それは意味を聞き、意味を見ることであったはずであり、その場合でさえ、音や文字はいささかも表現(意味)の「純粋性を汚染する」(デリダ)ようなものではなかったのである。この逆、つまり文字を見たり音を聞いたりすることが実際にない独話(独り言)の場合、それらがないことと、意味(作用)がないこととは同じではないことだけがフッサールの独話(独り言)の事例が示そうとしていることである。
言語の、特に能記としての実在性は言語の言語であること、つまり言語の存在とは同じではない。フッサールはここで言語の本質論として言えば言語の実在性は「括弧に括る」ことができると言っているだけである。つまり「記号の現存は意味の現存を、より正確に言えば意味の現存についてのわれわれの確信を動機づけはしない」ということであり、たとえば音声の強弱としての「記号の現存」(言語の対話的「指標」性)は意味の強弱と必然的な連関に属しているわけではないのである。ひとは意味の強弱ということを「実在的」に論じることができるだろうか。「記号であるということは実在的述語ではないのである(das Zeichen‐sein ist kein reales Praedikat)」(3巻224頁)。
デリダ(『声と現象』)は、フッサールの独話(独り言)の事例をフッサールの「直観主義」的な現前性の理解に、そしてその意味での「現前性の形而上学」としての現象学の言語理解に結びつけていた。デリダは、フッサールが「言語が実在していなくても、われわれの妨げにはならない」というコンテクストを言語の存在全体の超越論的所記への還元へと狭陸化する。デリダが「現前性」というのは、直観主義的な充実化としての超越論的所記の「自己への現前」を意味しており、それは言語の回付性(能記性)一般の解消としての「自己への現前」なのである。つまりデリダはフッサールが言語から実在性を差し引くときに、それを言語一般〈回付性一級)を差し引く操作であるように理解する。しかし、フッサールは言語から実在性だけを差し引くのである。しかも言語の本質論として差し引くのである。つまり言語が言語であるということは、能記的にも、所記的にも言語の実在性に依存しているわけではないということであり、そのことは言語の、《fuer Etwas》としての記号的な回付性(代理性)こそが「実在的な述語」関係として理解されるべきでないことを意味していたということである。
フッサールが「化石化した骨片を太古の動物の実在を示す記号である」(2巻34頁)などと言う場合、この記号関係は、実在的に辿れる関係に属している場合もあるだろう。それは一つの「足跡」のようにして辿れる記号なのである。フッサールはそれを周知のように「意味」を回付する「表現」とは区別して「指標」と呼んでいた。「意味」を回付するというのは、そのような実在的な「動機づけの連関」に記号関係が属していないということであって、デリダが考えていたように指標的なもの一般の解消が記号開係一般の解消を意味するというのではない。
「この鳥」と言う場合、たとえば「鳥(Vogel)」という能記は所記としての鳥への実在的な関連において「鳥」という言語(記号)であるわけではない。「鳥」という言葉が「飛び立つ」ことなどありえないだろう。それは特に二重の意味においてそうである。一つは「実在ずる」対象としての鳥への実在的な関係としてそうであり、そしてまた「鳥」という語の意味への関係としてそうである。
つまり言語が「(それへと)向かう」ということは、実在的な自己差異化としてではないのであって、「表現」としての言語のみが意味を記号ずるのは「向かう」ことの非実在的な性格によっている。というより「向かう」ということは、もとから非実在的なものなのであって、その「対象性自身は無である」と言われていたのである。
フッサールは「知覚陳述」であってさえも言語の指示性の知覚に依存しない非実在的な性格を指摘していたわけだが、それは対象性から実在的な性格だけを拒否し、新たに非実在的な対象性を許容ずるためのことではなかった。「内在的対象」という言い方(スコラ的概念)も一方で心理主義的な対象性として拒否されていたわけだから、ここでは「対象性」という概念そのものが「実在的であろうと、イデア的であろうと」拒否されているのである。その意味でこそ「対象性それ自身は無である」と言われている。
現前している(praesent ist)のは対象ではなくて、「志向的に現在している」対象である。「志向的体験だけが現在している」のであって、「対象を思念すること」が現象学的「体験」である。対象自身は(「現在」しているものなのではなくて)「現象する」ものであり、「与えられている(Es gibt)」ものなのである。「つまり二つの事象が体験の内に(erlebnismaessig)現在しているのではない。すなわち、対象が体験され、更にそれと並んでその対象に向かう志向的体験が体験されているということではない」(3巻169頁)のである。
言語が意味するということ、あるいは言語が意味を指示するということは、言語と対象性との、つまり「二つの事象」の問題なのではない。「対象性それ自身は無である」ということは《合致》の伝統的な議論から〈意味〉の問題を解放することであらねぱならない。
そうであれば、言語は何へと「向かう」のだろうか。志向が志向されたものに向かうように、言語は言語が名指すもの(言明するもの)に向かうのである。
(赤いという〉語は赤いものを赤いと名指す(nennen)。この名辞によって思念されているのは、しかもまさに赤いと思念されているのは、そこに現出している赤である。名辞はこのような指名的思念(das nennende Meinen)という仕方で〈名指されたものに属し、そしてそれと一体になっているもの〉として現出するのである。(4巻44頁:傍点はフッサール)
名指すということは不思議なことである。ひとはもとから〈無意味なもの〉を「名指す」ことなどしない(できない)。有意味なもの(むろん「反意味的」なものを含めて)だけが名指される。しかし有意味なものはそれ自身言語ではない。もとから言語であるものを「名指す」必要はないからである。言語はもともと「名指す」ものだからだ。つまりそれは意味を〈ヘと)「名指す」のである。そのように言語が言語の意味であるとすれば、言語は自分自身との差異として有意味なものを「名指す」。ひとは「赤いもの」を「赤いもの」と「名指す」。あるいはフッサールの別の言い方で言えば、ひとは「赤いもの」を〈見て〉、「赤いもの」と〈言う〉(4巻154頁)。
トートロジーのように思われるこの言いかえはフッサールの意味論からすれぱそうではない。
もし〈見る〉ということで言うならば、しかしひとは「赤いもの」を〈見ない〉でも「赤いもの」と言うことができる。つまり、「赤いもの」というネンネン指名行為は本質的には実在的なものに向かっているわけではない。あるいはそれに依存しているわけではない。結局のところ、それは「赤いもの」を〈見る〉という「認識作用」 ― 「表現作用」に対照される意味での ― 自身が〈見る〉ことそれ自身に依存していないことからきているのである。
見なくても言うことができ、言わなくても(実在的な言語を媒介にしなくても)見ることができる ― それが「対象性それ自身は無である」ことの意味である ― かぎり、見られ、言われているものは、見ることにとっても言うことにとっても、そのことによって変様しないもの、少なくとも実在的な変様を受けないものとしての「同じもの」なのである。
デリダは、現象学のこの原理を「同じもの」、つまり「意味」の「自己への現前」の原理と見なしてそれを「現前性の形而上学」と言う。つまり〈見る〉ことなり〈言う〉ことは、「同じもの」としての「意味」に「非構成的に」「(外面的に)後から」「付け加わるもの」であるというのがデリダの現象学理解である。結局のところ、フッサールの言語論(記号論)は、言語論(記号的な回付)を抹消することをその原理としているというのがデリダの議論である。できることなら〈意味〉の「純粋性を汚染する」記号的な回付なしにすませたい、というのが「現前性の形而上学」というレッテルにデリダが込める意味である。
しかしそれはそうではない。
実在的な変様を受けないものは、一つの「超過」なのである。
すなわちわれわれが白い紙という言葉で知覚を表現する場合、その紙は白(weiss)として認識されるというよりは、むしろ自いもの(weisses)として認識されるのである。しかし白いものという語の志向は、現出している対象の色の契機とだけ部分的に合致しているにすぎず、この語の意味の中には、一つの超過(ueberschuss)が、すなわちその現出自身の内部では確認されえない一つの形式が残留している。すなわち白いものとは白である紙(weiss seiendes Papier)のことである。しかもこの(であるという繋辞の)形式は、(白いという形容詞の場合よりも)もっと隠された形にせよ、紙という名詞の場合にもやはり潜在しているのではなかろうか? 最終的に知覚されるのは、紙の《概念》の内に統一されている幾つかの徴表の意味だけである。したがってこのような知覚の場合にもその対象が全体として認識され、そしてまたたとえ唯一の形式としてではないとしても、存在(=である)を含む補足形式が認識されているのである。(4巻155頁:傍点はフッサール)
この「超過」=「確認されえない一つの形式」について、別の言い方で、フッサールは次のようにも続けている。
色は見えるが、有色である(Farbig-sein)ことは見えない。滑らかさは感じ取れるが滑らかであることは感じられない。音は聞きうるが、音が鳴っている(Toenend - sein)ことは聞けない。この存在(=ある、いる)は対象の中にはなく、対象の部分でも、それに内在する契機でもない。それは性質でも強度でもなく、かといって比喩や内的形式一般でもなく、要するに普通に把捉される構成的徴表ではないのである。しかしまた存在は対象に付帯しているのでもない。それは実在的な内的徴表でもなければ、実在的な意味でのいかなる《徴表》でもない。(4巻161〜2頁:傍点はフッサール)
ひとは「白(さ)」を見るのではなくて、白さの〈意味〉を見るということ、それは「白いもの」としての「白さ」を見るということであり、「白さ」に向かうまなざしとしては見ることはそれ自身を「超過」することとして見るのである。つまりそれは、可感性(実在性)としての「白さ」の変様に依存しない超過としての、「白さ」の存在=意味である。この超過は実在的に代理できない。「白さ」の「白である」ことは(「白である」ことの)〈指標〉としてではないのである。しかしそうであることによって、この超過は実在的な「白さ」を実在的に変様させるものでもない。つまり「白さ」は実在的に自分自身であることにおいて自らを超過するのであり、自らを超過することが自分自身であることにおいて、「白さ」は自己の〈意味〉としての「白である」ことなのである。つまり現象学的超過はつねにすでに事実的(faktisch) ― 「原事実(Urtatsache)」として ― である。
〈見る〉ことが〈意味〉を見ることとして二重に構成される。「白である」こととしての「自いもの」は見えないが、しかしそれは「白さ」と共にそこに見えてある何かなのであり、この〈共に〉ということこそが実在的に構成されえないものなのだということ。「困難は見る(Sehen)ということの二重の意義から生じている」(ハイデガー『四つのゼミナール』邦訳105頁)。
「言う」こととしての言語が実在性としての言語を「なしですませ」ることができ、この「なし」ということが超過としての言語の意味、つまり言語の「言語である」ことを意味するのであれば、「赤いもの」を「赤いもの」と指名する言語の指名行為は「赤いもの」の、「赤いもの」という言葉の超過そのものなのである。言語のトートロジーとは超過としての存在のことである。
あらゆる経験に先立つ意識があると仮に想定すれば(とフッサールは始める)、それ(=その意識)は可能的には、われわれが感覚するものと同じものを感覚する。しかしその意識はいかなる事物も事物の出来事も直観しはしない。(つまり)木や家や、鳥が飛んだり、大が吠えたりするのを知覚しはしない。ここで早速この事況を次のように表現したい気持ちになるであろう。すなわちこのような意識に対して感覚は何ものをも意味しない。感覚はこの意識にとっては対象の諸性質を表わす記号としては通用せず、それら諸感覚の複合は対象そのものを表わす記号としては妥当しない。すなわち感覚は端的に体験されはするが、しかし(《経験》から生ずる)客観化的解釈を欠いているのである(と言いたくなるであろう)。したがってここでも、表現とそれに類似する記号の場合と同様、意味と記号が問題になるのである。(2巻85頁:傍点はフッサール)
フッサールはこの場合、知覚と表現作用との区別になお詳細な仕方で言及しているが ― 能記としての言語(語音)の知覚それ自身が所記の記号ではないという意味で。つまり能記は能記それ自体としてのイデア性を有しているという意味で ― しかし、知覚が感覚との二重化を含む統握作用であり、意味を構成する作用としては「解釈作用」(「客観化的解釈」)であることを考えれば、知覚は記号の問題であると「言いたくな」ってもよいのである。
フッサールが『論理学研究』を言語の問題から始めているのは、一つの言語論の展開としてではないことがわかる。《fuer Etwas》としての言語の問題が《fuer Etwas》としての可感性(実在性)の問題と重なるかぎりで、それは言語の意味の、そして可感的なものの意味の問題に収斂するのであり、〈意味〉とはそこで記号の問題そのものである。 フッサールは「同じもの」としての「意味」を考えることによって記号(的回付)の問題を〈デリダが言うように)解消したわけではない。逆であって、〈意味〉こそが記号の問題へと言語(論)をこえて向かわせるのである。
直観主義と意義作用の自立性との「矛盾」(『声と現象』邦訳181頁)、あるいは「形式主義の純粋性と直観主義の根本性という二つの主要なモチィーフの緊張」(同前32〜33頁)とデリダが言うものは「直観」そのものが自らの超過として自己差異化することを指摘するだけで、そしてまた「直観」とは「ドイテン解釈」することであると指摘するだけで、その見かけの深刻さを回避することができるように恩われる。
フッサールは『イデーン』(渡辺二郎訳・みすず書房版)で〈Sinn〉と〈Bedeutung〉とをフレーゲとはまた別の意味でわける ― 「(…)われわれは意義(Bedeutung)という語は、旧来の概念を表わす場合に特に抜擢してこれを使用し、ことに『ロゴス・論理的』意義とか『表現作用的』意義といった複合的な言い方の際にこれを抜擢して使用しようと思う。意味(Sinn)という語の方は、われわれは従来どおり今後も相変らず、意義よりもいっそう広範な広さを持たせて、これを使用するであろう」(邦訳I/2,234頁) ― が、しかしこのことをフッサールが「表現を受ける層」(意味の層)と「表現作用的な層」(意義の層)と言う場合、この「層(Schichtung)」ということは「比喩」であって、「比喩」は「ひとを誤らせやすい」(同前236頁)とも彼は言っている。「(…)層という比喩に、余りにも過大なものを不当に要求してはならない(…)表現というものは、何か上に塗付けられたような漆のようなものでもないし、あるいは、何か上に着せ付けられた衣装のようなものでもない」(同前238頁)。もともと「比喩」とは超過する意味に面した場合に使われるものではなかっただろうか。
意義の層と意味の層とは実在する二つの層なのではない。つまり意義は意味の〈指標〉的な層なのではない。「表現作用的な層は、表現を受ける層とは別様に性質づけられた設定立的ないし、中立的定立をもつことはできないのであって、この合致の中にわれわれが見出すものは、二つの区別されるべき定立ではなくて、ただ一つの定立なのである」(同前)。ひとは「赤いもの」を「赤いもの」と名指す(定立する)のである。
「能記」としての「赤いもの」が「所記」としての「赤いもの」を「赤いもの」と名指す。「暫定的に」あるいは「説明的・初学者向けに」言う場合にせよ ― デリダであってさえも「私が『テーブル』という語を用いるとき、その語は『テーブル』という所記に対応する恣意的な能記であるわけですが.…」(於早稲田大学:in『理想』No.618,174頁)と言っている ― ひとはこのような言い方においてしか、「能記」と「所記」との区別(あるいは同一)を取り上げることはできない。「超越論的所記」の優位や、そしてまた「能記としての能記」の優位(「意味の還元」(デリダ)としての〉を言う場合には、このような「暫定的」で「説明的」であるしかない区別そのものに依存することなしにはそれらは意味をなさない。振り分けが「暫定的」であるのは、その場合、ひとが「赤いもの」とは何である(「赤いもの」の意味)のかを「了解(verstehen)」=「解釈」(2巻76頁、および85頁)しているかぎりでのことだからである。この「了解」=「解釈」のアプリオリが、「能記」と「所記」との区別を「暫定的」なものに、あるいはフッサールの言う「比喩」にしている。つまり「暫定的」であることは意味の本質そのものである。ひとは意味の内部(アプリオリ)でしかでしか「能記」と「所記」とである言語(=意味)に論及することができない。
しかし、「できない」ということは、この場合一つの無能力のことであろうか。
言語は知覚に依存しないものを指示する。ヘーゲルはすでに言語の起源である言語、つまり知覚と言語との境界である言語の「このもの」(「今」・「ここ」)が「一般的なもの」であることを指摘している。
その人達(「懐疑論」などの主張 - 註・芦田)は、私がこのことを書き、あるいはむしろ書き終わったこの一枚の紙を思いこむけれども、その思いこんでいることを、言い表わしている(sagen)のではない。自分たちの思いこんでいる一枚の紙を現に言い表わそうとしても、しかも言い表わそうとしたのであるが、それはできないことである。というのも、思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに帰属する言葉にとっては、到達できないものであるからである。この一枚の紙は、言い表わそう(sagen)と現に試みているうちに腐ってしまうであろう。それを書き記そうと始める人々も、それを仕上げることができないで、他の人々に任せるよりほか仕方がなくなる。がこの人々も、そういうことは、結局は、有り(ist)りもしないものについて語る(sprechen)ことになると白状するであろう。だから人々は、ここに至って前に言ったのとは、全く別の物になっているこの一枚の紙を、なるほど思いこみはするだろうが、現実の物、外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る(sprechen)。つまりその人々は、それらについて一般的なものを言う(sagen)だけである。(『精神現象学』河出書房版・74〜75頁:傍点はヘーゲル)
しかしながら、「思いこみ」と「言い表わしていること」との差異は、「このもの」と「言う」ことに属している。つまり「このもの」は、その指示対象と実在的(定在的)にずれているわけではない。「現実の物、外的または感覚的な対象、絶対に個別的なものなどを語る(sprechen)」こととは別に「一般的なものを言う」という場合の「言う(sagen)」(「語る(sprechen)」こととは区別された)というのは「一般的なもの」を「思いこむ(meinen)」ということとはもちろん別のことだろうからである。言いかえれば「一般的なものを言う」ということは何らかの「語る」行為(「思いこみ」)の訂正、つまり語り直し(別の、たとえば「感覚的確信」とは別の「知覚」の言葉による)に属しているものではない。「語る」ことと「言う」こととのずれが実在的であるとすれば、「このもの」と、「語る」ひとは最初から別の言葉(別の定在)を〈それ〉にマイネン当てただろうからである。〈それ〉が実在的なものでないということは〈それ〉と言葉との関係そのものが実在的でないということと同じことを意味している。言葉がマイネンを「逆転」させて「一般的なもの」であることができるのは、言葉とそれが指示するものとの差異が実在しないことによっている。「有りもしない」ものは、この差異なのであって ― だからこそ、この差異は在るのである ― 「この一枚の紙」なのではない。そもそも「有りもしない」と言われている「この一枚の紙」というものは、その場合「この一枚の紙」と言われている物(所記としての所記)なのであろうか、それとも「この一枚の紙」という言葉(能記としての能記)であるのだろうか。どちらが指示されているかを示す(「言う」)言葉、あるいは物というものが存在するだろうか。
「この一枚の紙」はすでにそれ自体で ― つまり弁証法的媒介の留保なしに ― 自らの何であるかに向けて「それへと向かっている」。フッサールが言うように「志向は予期ではない」(4巻57頁)のである。「この一枚の紙」は、その場合、物としての〈それ〉であってもいいし、言葉としての〈それ〉であってもいい。向かうということは「この一枚の紙」の存在が超過するということである。それが「この一枚の紙」の〈意味(志向〉)ということであるが、この〈意味〉は「有りもしない」超過としての差異をなすことによって、物と言葉との境界に一つのメーゲン譲歩(moegen)を与えている。「この一枚の紙」は、物としてのそれでも言葉としてのそれでもメーゲンいい(moegen)のである。それは物であることも言葉であることも〈メーゲンできる〉。
物と言葉は、その場合「この一枚の紙」の〈意味〉の二つの「類例(Beispiel)」であるのではない。つまり超過の類例として物と言葉とが共通に抽象されるのではない。「この一枚の紙」が物であるのか言葉であるのかを決定するのは「この一枚の紙」の意味それ自身である。それは決定する前に「与えられている」決定(Entscheidung)、つまり事実性(Faktizitaet)としての分割(Entscheidung)である。「志向的対象」というものは「たった一度、しかも一つかぎりの対象」として「与えられている」と言われていたのである。
意味とは何であるのか。それは「もはやそれ以上定義されず、記述的に最後のものである」(2巻201頁)とフッサールは言う。というのも、それは「色や音とは何であるのかということが与えられているのと同様、直接的にわれわれに与えられている」〈同前)からである。だからこそ、物と言葉との分割は事実的な分割としてそのつど決定的なのである。それは「与えられている(Es gibt)」ことによって物であることも言葉であることも〈できる〉。〈できる〉というのは、それゆえ「類例」ではなくて〈意味〉の「Es gibt」としての、それが「直接的に」与えられていることにおける事実性としてである。それが「直接的」であるのは意味が自己を与えることとして「与えられている」からである。意味の贈与とは超過としての存在のメーゲン譲与のことでがなかっただろうか。
かつて、デリダは言語の「インフレーション(inflation)」ということを言った(『グラマトロジーについて』邦訳21頁)。言語(論)の「膨脹(=流行)」における言語の「価値下落(devaluation)」のことである。しかし彼は言語とはインフレーションそのものであるともつけくわえている。
言語への論及として言語の内部に向かうべく言語を「折ってみる」(ハイデガー)。すると内部はふたたび言語という表層であった。言語は言語論の解舌さにおいて「膨脹」するが、言語とは何であるのか、という自己了解はその膨脹のたびに隠れてしまう一方である。「言語の問題」というのは、言語(の問題)を指示すると同時に言語(の問題)から遠ざけもする。「言語の問題」、と、それを明示するのも言語だからである。つまり「問題は」、「言語なのだ」、と、超越論的所記からの紐帯を言語(自らが)が解こうとするとき、デリダが言うように、言語は「それ固有の有限性」ヘと指し返されるのである。言語は自分自身が解き去ろうとする距離を測ることができない。しかしそれは、言語がセルフリファレンシャルな諸問題(の類例)の一つを引き寄せるからというよりは、フッサールが考えるように、むしろ言語とは言語の意味だからである。〈意味〉は言語において常にすでに「与えられている(Es gibt)」。意味の「バイシュピール類例」として言語は〈意味〉に従属するのではなくて、ハイデガーの言葉を借りれば、意味の「シュピール遊動」としてそれは自らの距離をとる(Ent‐fernen)のである。言語がインフレーション「そのもの」であるのは、このような〈意味〉の「遊動」にそれが属しているからなのである。あるいはそれは属していることそのものなのである。(了)