表紙 | 芦田の毎日

フレーム問題と世界

― 人工知能・哲学・ハイデガー ―

芦田宏直


人間が行為するということのなかには、行為の主題となっているものの遂行とその主題的行為の遂行と同時に生まれる「副産物(side effect)」(D・デネット)とが含まれている。


たとえば、コーヒーを飲もうと思って、カップをソーサーから取ること、カップを口に当てて飲むこと、それらはコーヒーを飲むことの一連の主題的行為に含まれることである。

しかしコーヒーを飲むという行為は主題的連関以上のものを含んでいる。

たとえばコーヒーを飲む際に生じる音(コーヒーを飲む音)も、“コーヒーを飲む”という行為の中に含まれている。

それはコーヒーを飲むという主題的行為の「副産物」に属しているといってよい。

誰も音を出すためにコーヒーを飲んでいるわけではないからである。

この意味での「副産物」は、ほかにもある。

飲む音以外にもカップとソーサーが触れ合う音、あるいは少々大袈裟ではあるが手やカップを動かすことによる気流の変化、また身体内の生理的変化、あるいはその動作をそばで見ている他人の印象をこれに加えれば、コーヒーを飲まなければ起こらなかった変化は、かなりの数の「副産物」を生み出していることになる。


しかし「副産物」はそれだけではない。

たとえばコーヒーを飲んでいるとき、突然電灯が消えたとしよう(松原仁、「人工知能における『頭の内と外』」 in 『哲学』 1990/10)。

飲んでいる人は驚くに違いない。

なぜ驚くのだろうか。

おそらくコーヒーを飲むことと電灯が消えることとの間には、「変化」にかかわる因果連関がないからである。

普通われわれは、何をすれば何が起きるかという「変化」の関連を視野に収めながら ― 間違っている場合もあるにせよ ― 行動している。

行動とはいつでも予期行動なのである。

この予期のうちには、主題的行為の変化連関と共に、同時に「変化しないもの」との連関も含まれている。

われわれは、コーヒーを飲むときにコーヒーを飲む音に一々驚いたりはしないが、その時に電灯が消えると驚く(場合がある)。

つまりコーヒーを飲んでも「電灯はついたままである」(松原)ということを(コーヒーを飲むと音がするだろうということと同じように)予期しているからである。

しかし、変化する「副産物」を“考えること”以上に変化しない、言わばマイナスの「副産物」を“考えること”はもっと難しい。

というのも、コーヒーを飲むことにとって「変化しないもの」とは、コーヒーを飲むことにとってさしあたりは関係のないものであり、関係のないものを“考えること”ほど考えることが難しいことはないからである。

難しいというより、あまりにも任意性(偶然性)が高いため考えようがないのである。

コーヒーを飲んでも、「電灯は付いたままである」「コンピュータ(の電源)はついたままである」「ドアは閉じたままである」「ソーサーが割れたりはしない」「猫が飛び付いたりはしない」などと任意に言い始めれば、きりがないことになる。

「一般に或る行為によって、変化しないことは限りなく多いので、このような規則は無限に存在する可能性がある」と認知科学者、松原仁は言う。


「人工知能」にこの「関係」を巡る「情報」を処理させるという認知科学の関心から言えば、内的であれ、外的であれ、これらの「膨大な情報」は「人間」の「頭の内」にあるのか、それとも「頭の外」にあるのかという「問題」にまで展開する。

もし、「膨大な情報」なしにコーヒーを飲むということがおこりえないとすれば、「情報」の「膨大」性は「人工知能」を絶望的な状況に追い込むことになる。

なによりもこの「膨大」性は「人間が考えたりもしない」情報の「膨大」性であるからだ。

この状況が「フレーム問題」 ― たとえばコーヒーを飲むことについて、その行為と「関係のあるもの」と「関係のないもの」についてのを考えることの「問題」 ― を生じさせている。

この種の「フレーム問題」は、松原(の説明)によれば、「計算機が問題を解く際には、問題解決に関係する情報はすべて計算機の内面にある」(25)という「観念論的な方法論」の前提から生じている。

計算機の「自閉症」的な「内面」を前提にすれば、この場合の情報の「膨大」性は、絶望的な仕方で強調されるほかないのである。


それに対して、この「膨大な情報」は、「自閉症」的な「内面」にではなくて「頭の外」にあるという「実在論的」な立場がある。

「必要な情報は(全部ではないにしてもほとんどは)『頭の外』にあるのだ。

それが『頭の内』との相互作用によって必要なだけ『頭の内』に取り込まれる。

人間は手を動かしたり足を動かしたり声を出したりして、外界に対して作用を及ぼすことができる。

その作用の影響を視覚・聴覚などの感覚器を通じて取り込むことによって、状況に応じた情報を得ているのである。

だから膨大な情報の記述や処理に困ることはない、そこではフレーム問題は問題にすらならないのだ」(26)。


しかし問題なのは、膨大な情報がどこにあるかを ― たとえば「表象主義」に対して「状況意味論」的に ― 指摘することなのではない。

単に膨大な情報の膨大性が問題なのではなくて、その膨大な情報の「情報処理」能力の膨大性がフレーム問題を生じさせているのであって、「実在論的な方法論をとっても膨大な情報から必要な情報を取り出す過程がなくなるわけではない」(27)。

そもそも何が「必要な情報」であるのかを決めること自身が困難であること ― たとえば“驚く”ことにとって「必要な情報」が何かについて答えることなどできるはずがない。

必要でない情報こそが驚く「ための」情報だからである ― がフレーム問題であったからである。

言いかえれば「膨大な情報の記述」を「実在」主義的に「頭の外」へ追い出した分、推論の膨大性が「記述の膨大性」にとって代わるだけのことなのである。

大沢真幸が言うように

「減少した記述は、推論の量によって補償されなくてはならない。

ある状況で、ある定理が成り立っているかどうかを決定するためには、過去の状況に次々と遡る推論をしなくてはならない(…)。

膨大な記述の検索が必要のない分だけ、膨大な推論を行わなくてはならない」

のである(「知性の条件とロボットのジレンマ」 in 『現代思想』 18-3号)。


松原仁は、したがって「フレーム問題の本質」を、「有限の能力しかもたない情報処理の主体にとって膨大な情報を完璧に扱うことはできない」(24)という点に求める。


松原の言い方で一番気になるのは、「膨大」という言葉 ― 別の論文(「一般化フレーム問題の提唱」 in 『人工知能になぜ哲学が必要か』哲学書房)では「記述の量」の「爆発」とまで松原は言っている ― の使い方である。

コーヒーを飲むことにおける情報の膨大性という点で言えば、それは、せいぜい何かカップのようなもの ― 飲む「ため」の“適性”を有した「道具」 ― で飲まれるだろうということ以外には演繹的に(形式的に)取り出される情報はないのであって、にもかかわらず、このこと(コーヒーを飲むこと)は、それ以外の「情報」 ― ハイデガー的に言えば、それは〈世界〉性のウム(um)ということであるが ― を松原の言い方で言えば「必要とする」ということである。

この“それ以外”ということを松原は認知科学者の立場から「膨大」という情報の“量”の問題に安易にすりかえている。

問題は情報の膨大性ということではなくて、一つの出来事が存在しうることの諸条件をなんらかの形式化(実体的な“包摂”性)によって取り出すことはできないということである。

言いかえれば、「考えもしない」電灯とカップを(意識的に)とることとの「関係」を「形式化」することができないということである。

しかし、ここで、“できない”ということはなんらかの能力 ― 認知科学が言う「情報処理能力」というように ― の問題なのだろうか。

それは、またしても「状況意味論」的な、そしてまた実在論的な立場に後戻りすることなのだろうか。


それは、コーヒーをのむ「ため」にコーヒーカップを“とる”こととそのときに「考えたりもしない」電灯を“とる(とっている)”こととの落差にかかわっている。

情報の「膨大」性という言葉は、この落差の本質性を稀薄なものにするように思える。

この落差は「膨大な情報」を処理する能力を有した「計算機」の出現によって解消するのだろうか。


松原が認めるように、コーヒーを飲むことにとって、つまりコーヒーを飲むことのフレームにとって、電灯の点灯(の如何)は「考えたりもしない」ことかもしれない。

しかし「考えたりもしない」ことなしには、コーヒーを飲むことは“考えられない”。

この種の無意識はどのような意識的とされる出来事にも付き纏っている。

そしてこの無意識をこそ、「膨大な情報」を処理することによって量的に覆うことができる(だろうか)というのが認知科学者の「計算機」にかける期待(と不安)なのである。


コーヒーを飲むことにとって一見すると無関係で無意味なこれらの出来事が、しかし無関係でも無意味でもないのは、こういった無関係なものとのなんらかの関係がなければ“驚くこと”はありえないからである。

もし「電灯は付いたままである」ということが、コーヒーを飲むことにとって端的な無(無関係そのもの)であるとすれば、コーヒーを飲む者は、電灯の付いていること(明るさ)、あるいは消えること(暗さ)の如何を問わず、コーヒーをのみ続けることになるだろう。

コーヒーを飲むこと自体は、部屋の明るさと直接的な関係を持たないからである。

つまり驚くことが〈できる〉者は、コーヒーを飲むことにとって無関係なものとの関係を何らかの仕方で有していなければならない。

一人の人間にとってコーヒーを飲むことは、場合によってはありえないことかもしれないが、“驚くこと”は、いつだれにとっても(何をしていたとしても)ありえないことではない出来事である。

つまり、驚く者にとって驚く者〈である〉ことは少なくとも行為の主題とは無関係なものに対する開放的な関係を常に有しているということである。


サイバネティクスにおいて、N・ウイナーがフィードバック制御を「機械を予定の行動によってではなく、実際の行動に基づいて制御すること」(『人間機械論』)というふうに説明したとき、たしかにウィナーは、機械もまた人間と同様に開放的な関係を実現し得ることについて語ろうとしていた。

たとえば、通常、機械は「予定」できない諸変化に対して“人間のように”“臨機応変”に対応できないと考えられている。

しかし〈自動ドア〉は、いつ来るかわからない入場者に対して“臨機応変”にドアを開けたり、閉めたりすることができる。

つまり“彼”は、入場者の「実際の行動」に基づいてドアを開け閉めできる。

なるほど機械もまた間違ってドアを開け閉めすることがあるかもしれないが、それはしかし、人間もまた何時でも臨機応変でないことに「平行」した事態であるにすぎない。

「実際の行動」という言い方において、ウイナーは人間=機械の開放性について語ろうとしているのである。


しかしこういった開放性においてウイナーが考えている人間と機械の「平行性」は、「恒常性維持(homeostasis)」のための「諸変化」に対応する能力に限られている。

言い換えれば、ウイナーの「諸変化」はまだなお実体的なのである。

それは、ベルタランフィのシステム論やオートポイエシス的なモデルにおいても共通している問題であって、ウイナー以降の人間=機械論もまた拡大さた実体論 ― かつてハイデガーがカッシーラーの「関数」概念を「形式的な実体」概念にすぎないといった意味で ― の域を一歩も出ていない。

「諸変化」に対応する能力(恒常性維持能力)ということについては、おそらくウイナー的な〈機械〉にできないものは何もないと言っていいかもしれない。

しかし「実際の行動」は、諸変化の「実際」に関わっているのではなく、むしろ行動の「副産物」に関わっている。

D・デネットが描くロボットR1は、ウィナー的な開放性の限界をよく示している。


「自活すること以外、特別な仕事のなかった」ロボットR1は、自らのエネルギー源である予備バッテリーをしまってある部屋からそれを取り出そうとしていた。

重い予備バッテリーは、幸いなことにワゴンの上にあった。

ロボットR1は、ワゴンを引っ張り出せば、予備バッテリーを取り出せると考えた。

ところが、そのワゴンの上には時限爆弾がまもなく爆発するようにセットされていた。

ロボットR1は、その爆弾を取り除くことの意味を知らないままに(「爆弾がワゴンの上にあることを知ってはいたが」)、ワゴンを運び出せば予備バッテリーを取り出すことができると考え、ワゴンを、つまり予備バッテリーと共に爆弾までもを一緒に運び出した。

しばらくして、爆弾は爆発。

ロボットR1は、爆死した。


ロボットの設計者たちは、ただちに次の「自活」ロボットR1D1の作成に取りかかった。

「次のロボットは、自分の行動の帰結として自分の意図したものだけではなく、副産物についての帰結も認識できなければならない」。

ロボットR1が爆死したのは、ワゴンを取り出すという行為のなかに、予備バッテリーを取り出すためという行為の「意図」とは別の「副産物」が含まれていること、つまりワゴンを取り出すと予備バッテリーばかりでなく、時限爆弾も取り出すことになることに気付かなかったためである。

「ロボットは、周囲の状況の記述を用いて自分の行動を計画するから」、次のロボットR1D1は「そのような記述から副産物についての帰結を演繹させればよい」。


ロボットR1と同じ苦境に立たされた「演繹ロボットR1D1」は、設計された通り、その行動の帰結を考え始めた。

「彼は、ワゴンを部屋から取り出しても部屋の壁の色は変わらないだろうということを演繹し、次に、ワゴンを引けば車輪が回転するだろうという帰結の証明に取り組み始めた。そのときであった、爆弾が爆発したのは」。


意図した行為の「副産物」は、単に時限爆弾のあるなしにとどまらない。

ワゴンを取り出すことによる「副産物」は、無数にあるにちがいない。

それを一つ一つ数え上げ、その帰結を証明しているうちに爆弾は爆発してしまった。


したがって重要なことは、単に「副産物」を意識することにあるのではない。

副産物の中でも、自分の意図に 「関係のある帰結と関係のない帰結の区別を教えてやり、関係のないものは無視するようにさせなければならない。 (…) 帰結を目下の目標に関係があるかないかにしたがって分類する方法を開発」 しなければならない。

このロボットモデルは、「分別のある演繹ロボットR2D1」と呼ばれた。


R1、R1D1と同じテストにかけられたR2D1は、しかし「部屋の中に入ろうともせず、まるでハムレットのようにじっとうずくまったままであった」。

「何かしろ!」と設計者たちが叫ぶと、彼は「してるよ」と答えた。

「ぼくは、無関係な帰結を探し出してそれを無視するのに忙しいんだ。そんな帰結が何千とあるんだ。ぼくは関係のない帰結を見付けると、すぐにそれを無視しなければならないもののリストにのせて、…」。

そうしてR2D1もまた、「じっとうずくまったまま」爆死してしまった(D・デネット、「コグニティブホイール」 in 『現代思想』 1987/4)。


D・デネットが象徴的な仕方で語るロボット(=人工知能研究者)の蹉跌は、しかし単に〈機械〉だけのものではない。

この蹉跌こそが、人工知能研究者や認知科学者によって「フレーム問題」 ― すなわち「関係のある帰結」と「関係のない帰結」とのフレームを見出だすことの「問題」 ― と呼ばれていたものだが、〈人間〉もまた同じように「フレーム問題」に悩んでいる。

身体(からだ)にいいと思って飲んでいるクスリが思わぬ副作用を起こして自らの身体(からだ)を蝕むことがある。

この場合、“クスリを飲む”という行為は、ロボットR1が“ワゴンを運び出す”という行為と同じことである。

ロボットR1が爆死したようにして、〈人間〉は“クスリを飲む”ことによって、その「意図」と反対のことを(しばしば)行い得るのである。

もし、〈人間〉が“クスリを飲む”ことの副作用(「副産物」)を“考え”始めたら ― つまり「副産物」の中でも「関係のある帰結」と「関係のない帰結」とを分類し、さらに「関係のない帰結」を「無視する」リストにのせることを“考え”始めたら ― 、おそらく〈人間〉もまた「ハムレットのようにじっとうずくまったまま」病死するほかないことになるだろう。

そのようにして、ロボットR2D1は爆死したのである。


しかしにもかかわらず、〈人間〉は「ハムレットのようにじっとうずくまったまま」ではなく、クスリを飲んでいる。

正確に言えば、クスリを飲んでもいるし、薬害で死にもしている。

またもちろん「うずくまったまま」病死するものもいる。

このロボットと 〈人間〉 との微妙な差異を松原仁は、フレーム問題をめぐる 「疑似解決の問題」 と呼び、 「多くの場合に人間があたかもフレーム問題を解決しているかのように見えるのはなぜか、という問題が未解決のまま残されている」 ( 『人工知能になぜ哲学が必要か』 哲学書房、p.229-230 ) と言っている。

松原が 「疑似」 という言い方をするのは、フレーム問題は 「人間にもコンピュータにも解けない」 と考えているからである。


しかし松原がそう考えるのは、フレーム問題を“考えて”(=表象して)しまうからである。

考えてしまう限り、フレーム問題は人間にも解くことができない。


大沢真幸は、考えてしまうがゆえに不可能な出来事として、R2D1の「無視」という操作に特に注目する。

というのも、無視するということはその“対象”を考えてしまうと無視したことにならないからである。

「フレーム問題は、世界の中で起こりうる無限に多様な事柄を、純粋に無視する術を知っているものにたいしてのみ解消される」(「知性の条件とロボットのジレンマ」 in 『現代思想』 1990/3)と大沢は言う。

つまり、R2D1は、結局無視する能力がなかったのである。

無視する前に無視するものを考えねばならなかったからである。

「無視という奇妙な操作は ― と大沢は続ける ― 自らが存在することの現実性を、その操作が直接に帰属する時点には確立できず、その時点の後に確立する。

つまり、それは、操作が実現された (はずの) 現在にではなく、その操作にとって未来であるような場所に、存在の現実性をはじめて確保することができる (したがって、未来からの逆投影として 「かつてあったもの」 として発見される) 。

また、無視は、肯定的=積極的な形式においてはさしあたって存在しているということすらできず、ただ自らの否定を鏡として、そこに自らを反照させることによってのみ、現実的である (それは、そのようには予想していなかったという形式の否定を通じて見出される) 」。


松原の例で言えば、コーヒーを飲む場合「電灯は付いたままである」ということは、通常コーヒーを飲む者によって“無視”されている。

しかし無視している(無視していた)ことがそれとして(<人間>に)わかるのは「無視している」現在においてではなく、電灯が突然、偶然に ― コーヒーを飲むこととは無関係に ― 消えたりして、「そのようには予想していなかった」未来の、「否定」的な形においてのことである。


ロボットR2D1が「じっとうずくまったまま」であったのは、「無視すること」を現在において ― というより正確に言えば、行為する前に ― しかも形で、“考え”ようとしたからなのである。

もともと無視しているものは、コーヒーを飲むことにとって、ことさらに意識する必要のない(=関係のない)ものであり、しかもことさらに意識する必要のないものは、コーヒーを飲む際にことさらに意識している(=関係している)ものに比べれば、はるかに(=無限に)数が多いため、それをコーヒーを飲むことと同時に考えることは、コーヒーを飲むことなく「じっとうずくまったまま」考え続けざるをえないことを意味している。

つまり、無視することを考えてはいけないのである。


しかし、無視することの対象がそれ自体無ではないように、考えないことは何もしていないことなのではない。

大沢は、無視という「未来性と否定性」を有した操作を「消極的な操作」と言い、「ロボットたちにとっての躓きの石は単なる不在でもなければ、通常の積極性=肯定性でもない操作の消極性である」と言う。

「無視の操作を、積極的=肯定的に何かを行う操作としてプログラムを構築するや、(…)フレーム問題の深い森の中に迷い込んでしまう」。


デネットは、先の論文で次のように言っていた。

「AIが平凡な情報を表舞台に引っ張り出すのは、AIがゼロから出発しなければならないからである。

行為者をシミュレートするためにプログラムされたコンピュータ(あるいは、シミュレートされた世界ではなく現実の世界を実際に扱おうとするなら、ロボットの頭脳)は、最初は『世界について』何も知らない。

このコンピュータは、ロックの語ったダブラ・ラサであり、必要な事柄は、ともかくすべて、最初にプログラマーによって、あるいはのちの学習を通じて、そのうえに書き込まれねばならないのである」。


デネットは、ここでAI研究者を批判しているのではない。

AI研究者こそが人間を人間的に研究する哲学者や心理学者が隠蔽している「平凡な情報」 ― 「コーヒーを飲む」ときにも「電灯は付いたままである」というふうな ― を「表舞台」に引っ張り出すのであって、それはAI研究者が人間についての偏見や予断から、つまり人間(人間学)的に出発するのではなくて(プログラムを書くために)「ゼロから出発しなければならない」からである。

むしろAI研究者こそが「平凡な情報」を取り出すことによって、人間の人間性を根本において“考え”始めたのである。


しかし、この企ては矛盾を含んでいた。

ロボットを作ることは無意識(無思考)では作ることができない。

ところが考えながら作られるロボットは、結局無視という「消極的な操作」を遂行することができない。


「ゼロから」人間を考えることは、心理学的な先入観を破壊することには十分な威力を有しているが、しかし一方でその人間自身は「後から」 ― 大沢の言う「未来」において ― しか気づくことのできないような「フレーム」の中に「すでに」存在している。


それは、人間の死のフレームなのではないか、とハイデガーは考える。


用意や予測、覚悟や準備、認識や知識を持たなくても、人間は「すでに充分に死ぬことのできる年齢になっている」(『存在と時間』 S.245 )。

生きるということが瞬間としての出来事ではなくて、これからも生きる、つまりある時−間を生きるということだとすれば、死の「切迫(Bevorstand)」性は生きることに先行している。

ある時−間を生きたことは、死がまだやってこなかったことの結果にすぎないからである。

言いかえれば、人間は生きた結果死ぬのではなくて、すでに死んでいるにもかかわらず、まだ死んではいない(=結果として生きている)のである。

死は、まだないことがすでにあること、すでにあることのまだないことという固有な時間的緊張の内にあると言える。

「既在的な将来」とハイデガーは言う。

つまり、大沢が言う「未来性と否定性」とはハイデガーにとってただ一つのこと、死の「時間性」ということである。


つまり、フレーム問題で、われわれが、たえず無視し、にもかかわらずたえず傍らに潜んでいるものとは人間の死なのであって、人間が驚いたり、無視しているものは自らの死なのである。


ハイデガーは、目の前にあるコーヒーカップは、コーヒーを飲む「ための」ものであるという。

この「ための」ものという規定は二つの意味を持っている。

一つは 「一つの道具だけが存在するわけではない」 ということ、つまりコーヒーカップがあるということは、 「コーヒー」 そのものや 「ソーサー」 や 「テーブル」 などの周囲の (um) 存在なしにはあり得ないだろうということ、もう一つは人間自身がコーヒーの飲む 「ための」 (um-zu) を 「自分自身に指示する」 (ibid. S.86) ということ、つまり何の 「ために」 (何を思って) 人間 (umwillen seiner) は (コーヒーカップを使って) コーヒーを飲むのかということ、この二つである。

この二つをハイデガーは「有意義化」ということばを使って結びつけようとする。

人間は自分自身の存在可能性に基づいてコーヒーカップをそれとして「有意義化」する。

このコーヒーカップと「自分自身の存在可能性」との“関係”、それが「世界」である。

つまり、「世界」は、人間の自己性の中で「有意義化」する。

この自己による世界の有意義化は、レヴィナスが批判する意味での世界の「的(自己中心的な)」な還元なのではない。


ハイデガーは、次のように言う。

「 (たとえば) 仕事場の内で手許にあるもの (Zuhandene) をその手許存在性において構成している用向きの全体性 (Bewandtnisganzheit) は、個々の道具 (Zeug) よりも 『いっそう以前に』 存在しているのであって、あらゆる調度と不動産とを備えている屋敷の用向きの全体性も同様である。

だが用向きの全体性 (Bewandtnisganzheit) 自身は最後には一つの何のために (ein Wozu) へと帰って行くが、この何のために (ein Wozu) のもとではいかなる用向き (Bewandtnis) ももはやえられず、この何のために (ein Wozu) 自身は何らかの世界の内部で手許的に存在するという存在様式をとる存在者でなく、その存在が世界-内-存在として規定されている存在者、つまりその存在機構には世界性自身が属している存在者なのである」 (ibid. S.84)。


「いかなる用向き(Bewandtnis)ももはやえられ」ない「何のために」をハイデガーは「初元的な何のために(das primare Wozu)」と呼び、それは人間の「自分自身を思って(umwillen seiner)」のことだという。

それはそれ自体もはや「用向きの全体性」において囲い込まれること(追い越されること)なく、それ自体世界性そのものと区別されはしない。

ハイデガーはここで「自分自身を思って(umwillen seiner)」としての自己をレヴィナスとは反対に、それは世界性そのもののことだと言っているのである。

ヴィトゲンシュタインが「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」(『論理哲学論考』)という意味で、ハイデガーの「自分自身を思って(umwillen seiner)」の自己性もまた世界「の中での」主体ではなく「世界性自身が属している存在者」なのである。

それは、「自分自身を思って(umwillen seiner)」が結局のところ人間が自らの死を思う(「先駆」する)ことと同じことであるからである。

人間が「死への存在(Sein zum Tode)」として自己であることとかれが「世界-内-存在」であることとは同じことである。


何かの「ために」の「連関」が世界の「有意義性」を形作っており、この有意義性の「ために」が、人間(現存在)が「自分自身に指示する」という仕方で人間自身に「連関」づけれているとすれば、最後には(Endlich)、人間の「終わり(End)」としての「死」に関係していなければならない。

この死の"前"では「世界内」的なあらゆる「ために」 ― コーヒーを飲む「ために」カップをとるというような ― は、すべてその死の「手前に存在して(vorgelagert)」 (S.259)おり、「相対的な」 (S.261)ものにすぎない。

「世界-内-存在」の「内」とは、この意味で死の「手前」を意味している。世界の日常性は「生誕と死との『間』」(S.233)の存在なのである。


とは言え、この死の「ために」は、たとえばコーヒーを飲む「ために」カップをとるというような「ために」とは性格を異にしている。

カップは、(たとえば)コーヒーを飲むことの「可能性」のよって「配慮(Besorge)」されており、それは、コーヒーを飲むことを「実現する(現実化する)」「ために」存在している。

またコーヒーを飲むこともまたそれ自体、のどの渇きや慰安をうる「ために」ということの「可能性」−「現実化」の連関のなかで相対化されている。

「手許的に(zuhanden)存在している道具を配慮的に気遣いつつ現実化することは(製造するとか、準備するとか、転置するとか等々として)、現実化されたものがこれまたいぜんとしてほかならぬ用向き(Bewandtnis)という存在性格をもっているかぎり、つねに相対的でしかない」(S.261)。


しかし人間が死の「ために」存在するという場合の「死」は、どんな「可能性」−「現実化」の連関の中にも存在していない。

「死」は「追い越し得ない」(S.250)、つまり「相対化」しえない“現実”だからである。

つまり人間は、コーヒーカップに「態度をとる」ようにして、同じように死に「態度を取る」ことができない(S.256-262)。


それはどういうことか。


人間は死を知らなくても死ぬことができるし、死を知っているからといって、死を避けることができるわけではない。

また自殺をしたからといって、それは人がコーヒーを飲んだというふうに、或ることの行為者になるわけではない。

人間があることをしたということが言えるためには、その行為の時間(行為の終末)を追い越さなくてはならない(コーヒーを飲むことが完了した後も生きていなければならない)が、死後の時間を生きるわけにはいかないからである。

それは“生きる”という語の乱用にすぎない。

死後の世界を語る人間は、死んだ人間ではなくて、死にそこなった人間、つまり生きている人間であって、彼はまだ死んではいない。つまり死は、世界「の中に」存在しない。

「死は生の出来事ではない。人は死を体験しない」(ヴィトゲンシュタイン)。


つまり、人間は自分の力で死ぬことができない。

しかし自分の力で死ぬことができないにもかかわらず、死は自分の死でしかない。

他人が死ぬことによって、自分の死が代理される(自分の死を免れる)わけではないからだ。

おそらく、どんなに個性的なことであっても、それと同じ個性を持つ他人は存在しうるだろう。

つまり、その個性は代理され得るだろう。

しかし死ぬことだけは、私の死であり得る。

私は「一人で」死んでいくのである。

逆に、人間が「個性」だとか、「私」「自分」というものを持ち得るのは、死が、代理のきかない、他人に譲れない死であること、死が私の死であることからきている。

<私>が存在することと〈死〉が存在することとは同じことである。


しかし、そのもっとも私的なことこそが、私にとって不可能なことなのである。

つまり、私の〈根拠〉としての私の死は、私にとって常に「非力な(ニヒティッヒ)」根拠、「有限な(エントリッヒ)」根拠でしかない(S.283f.)。

私は私の死であるが、しかし私は(ヴィトゲンシュタインが「人は死を体験しない」といった意味で)死ねない。

とすれば、私は私ではない。

私とは私の他者である。

世界「の中で」一番遠いところ、どんな他者よりも遠いところに私にとっての私が存在している。

というより、世界という距離は、私が私にとって自明でないこと(私=死)から生じる距離なのである。

この距離があらゆる諸々の他者へと私が眼差しを向けることの根拠(「非力な根拠」)である。

なるほど、世界は私の世界ではない。

世界は彼(彼女)にとっても世界であるからこそ世界であると言える。

私が「その中にいる」世界は、私が「いない」世界(私の死)と同じものなのである。

しかし私がいない世界を私が考えることができること、それは結局、私(私=死)というものが、もとから私(私=死)としては不可能であること、「不可能なものの可能性」(ハイデガー)であることの意味である。

レヴィナスは、ハイデガーの「死への存在」をレヴィナスの言う「死ねないことの恐怖」(イリヤ)に対立させているが、それはハイデガーにとって同じことを意味しているのである。


私がその中にいる世界と私のいない世界とが同じものであること、つまり、私の〈外部〉が存在すること ― 世界の外部というものが考えられない以上、世界とは「外部」(ヴィトゲンシュタイン)である ― は、私が私の死としては私の死を死ねないこと、私が私として私の外部であることからきている。


私の死が世界の中で起こる「出来事」でないのは、そのためである。

私の死は、世界の境界で生じる。

厳密に言えば、“その中で”出来事が生じる外部そのものという意味では世界に境界などないのだから、私の死は境界そのもの、世界そのものなのである。

人間が驚いたり、無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。

それというのも、人間の死が世界を時-間化する可能性そのものであるからである。

ヴィトゲンシュタインが<私>と〈世界〉の問題を類比的に語るのとは別にハイデガーはこの問題を時間性のなかで統一的に解釈しようとしたのである ― むろん類比の根拠を考えるというのは危険な企てではあるにしても。


人間が驚いたり、無視したりすることができるのは、いつも人間が世界の(という)境界、出来事の外部に身をおいているからである。

それというのも、人間の死が世界を時-間化する可能性そのものであるからである。

ヴィトゲンシュタインが<私>と〈世界〉の問題を類比的に語るのとは別にハイデガーはこの問題を時間性のなかで統一的に解釈しようとしたのである ― むろん類比の根拠を考えるというのは危険な企てではあるにしても。

人間は既在的に将来する時間性(死の時間性)の中で初めて驚いたり、無視することができる。

「記述量」を「膨大化」させることなく驚くことができ、「考える」ことなく無視することができるのは、既在化する将来という時間化(=世界化)の構造がある種の経済的な構造(情報の“節約”構造)を有しているからなのである。

人間はすでに存在していることの「重さ」を後になって(到来的に)気づくことによってメモリーを省略することができる。

またこのような省略構造が端的な無でも端的な存在でもない無視の対象を存在させている。

ハイデガーは印象的な仕方で次のように言っていた。

「『未完成の』現存在といえども終わる。

他方、現存在はおのれの死とともに初めて成熟に達する必要はないどころか、終わりに至る以前にすでに成熟を踏み越えてしまっていることもある。

たいてい現存在は未完成のうちに終わるか、さもなければ崩壊したり憔悴しきったりして終わるのである」(S.244)。


つまり、ロボットは死ねないということである。

人間はロボットが故障したり、摩滅していくようにして死んでいくわけではないのである。

 


■ 初出 : 「東京立正女子短期大学紀要」, 第23号, 東京立正女子短期大学, 1996.
(* 読みやすさを考慮して、雑誌掲載時とはレイアウトを変えてあります。)

(あしだ・ひろなお)


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