表紙 | 芦田の毎日

哲学と死のデータベース

“電子共同体”とは何か

芦田宏直

現在、ハイデガーを初めとする哲学著作のデータベース化を進めている。

−ハイデガーの 『存在と時間』 『現象学の根本諸問題』 『道標』 『杣道』 『哲学への寄与』、『講演・論文集』、ヘーゲルの 『精神現象学』 『大論理学』 ができており、カントのアカデミー版全集、フッサール、ウィトゲンシュタインの諸著作にも最近取り組み始めている。

データベース化には、さしあたり、みたすべき三つの要件がある。

第一に、原典の正確な(文献批判を含めた)電子文字化。

これは、OCR(光学式文字読み取り機)の精度の向上とともに日本を含め世界的な規模で進行中である。

第二に、検索機能の充実化。

これは、遅れている。

電子化したテクストの中を自在に駆け巡ることのできる検索ソフトは、皆無と言っていい情況である。

ワープロ・エディタ類の語句検索やグレプ(grep)を多少強化した程度の検索機能では、著作作品を読み取り、文献カードを作り、さらにそれを論文作成に役立てるという文系研究者の日常的手順を多彩な仕方で支援することにはならないだろう。

重要なことは、著作を読むようにして検索することなのである。

さらに第三に、データベース化の一般的普及。

データベース化を一部の特定の分野に留めたり、その利用者を特定化しないということ。

分野や利用者が特定されるということは、特定の分野で特定の者が「文献カード」をこつこつと溜めている情況−こつこつと溜めるということがむしろあらゆる特定化を生み出しているのである−が電子的に反映しただけのことだからである。

データベース化は、そういった局所的な特定性をこそ解消しなければならないし、また、本質的には解消するはずである。

この三点をふまえて、私たちのデータベース化は以下の機能を最低限みたすようにしている。


 

■検索語句を、通常、研究者が著作の頁を繰りながら探すように、そして頁の中で語句 (あるいは語句の分布) を見付けるように頁の表示全体の中で示すこと (単に頁数、行数、個数の表示に留めずに)。

■著作全体における検索語句の頁単位の分布情況をその数も含めてグラフにして表示すること。辞書・事典類の検索とは異なり、著作の語句検索は、その語が、使われていない箇所を呈示することも重要なことなのである。

■検索語句を、著作全体、章、節などの任意の単位から、コンテクスト表示 (その語句を含むセンテンスを取り出すこと) で示すこと。従来の文献カードを代理する形で。

■概念と概念との関連を問う、複数語句の検索を多彩なかたちで可能にすること。従来の紙のコンコーダンスでは、この機能が原理的に不可能だった。

■検索の処理速度を普及機 (NEC98シリーズおよび互換機・ノートパソコンを含む。IBM版は現在作成中) で高速化すること。現在、私たちのデータベースは、たとえば 『存在と時間』 全体の中から 「世界」 という語句を約6秒 (CPU80286以上 EMS使用時) 以内で検索できる。読んだり書いたりする作業を中断することなしに検索するためには一語句10秒以内が限度である。

■すべての操作をマニュアルなしで可能にするほど簡易化すること。たとえば 『存在と時間』 の場合、特別なインストールなしに S・U・Z + リターンでデータベース(検索プログラム+文書データ)が使用可能になり、後は検索語句の文字入力以外すべてファンクションキーで操作可能である。

 


この程度のもの−まだまだやりたいこと (シソーラス、意味解析など) はあるが、普及機を前提することと、検索速度を重視することもあって、ハード的な制限が大きい−であっても、研究者の従来の労苦を大幅に軽減するはずである。

さしあたりの目標は、ハイデガー全集のデータベース化 (二年以内に完成予定) であるが、国内外の大学研究者の協力を御願いする形で (現在一部進行中)、主要哲学・文学著作の本来のデータベース化を一気に進めたいと思っている。

協力してくださる研究者の方は是非ご連絡ください。

− 尚、私たちが進めているもののうち 『存在と時間』(ニーマイヤー版) と 『精神現象学』(ズールカンプ版) とは、岩波書店より刊行予定・現在版権交渉中です。

 


ここ二・三年来、寄り道のようにして続けてきたデータベース化だが、私自身がこの諸々の意味で自然な動向に関与する必然性は全くなかったと言ってよい。

誰にとってもこの作業は−文献カード作成がそうであるように−億劫なものだ。

ただ、平均読者数が1.5人 (そのうち一人は著者) と言われている 「学術論文」−それ自体読み辛いインデックスのような−を書き続けるよりは生産的かもしれないと思い直しながらの仕事だった。


しかし、いったい、その自然な動向としてのデータベース化とは何なのか。

仮にハイデガー全集がデータベース化されるとしよう。

むろん、このことは、彼の思想的・伝記的周辺や、「ハイデガー研究史」、また「ドイツ思想」、「西欧思想」… というふうにデータベース化が進むことを本質的に(自然に)含んでいる。

集合論的な入れ子構造のようにデータべース化が進むことの意味を、M・ポスターは、著者の 「脱人格化・脱個人化」 「新しい集合的著者の可能性」 というふうに言う。

そこでは、たとえばハイデガーが 『存在と時間』 を書いたということは、相対化されると思われている−クリプキが憤慨していたように 「ハイデガー」 とか 『存在と時間』 という固有名詞はここでフレーゲ・ラッセル的な 「諸性質の束」 のように考えられているのである。

クリプキの 「可能世界」 論がそれ自体近代的な相対論から出発しているにしても、この指摘は重要である。

「存在」 や 「時間」 という語の膨大なコンテクスト、あるいは、それへの瞬時の自在なアクセスが 『存在と時間』 を一冊の書物としては解体する。

それは、『存在と時間』 の構成自体を書物という体裁の内在性とは別のコンテクストの中で再 (=メタ) 構造化 (=データ化) するということである。

『存在と時間』 という作品の独自性という点でも 『存在と時間』 について言われることの再 (=メタ) 構造化−たとえば、諸研究論文のデータベース化−が進むだろうし、ハイデガーという人格の個別性についても、それについて言われることの再構造化において 「脱人格化」 が進むだろう。

つまり、「書物」-「著者」 という区別、あるいは、テクスト-コンテクストの区別は、単に 「パンクチュエーション(punctuation)」(A・ワイルデン)の問題にすぎない。

この種の区別が実体的であるように思われるのは、それらについての情報の稀少性が原因なのである。


この稀少性は、さしあたり、〈研究者〉と言われている人達が担わざるをえない制限性を意味している。

たとえば、現在続々とハイデガーの未発表の論文・講義が発表されつつあるが、それらを解読し、従来のハイデガー解釈を更新する成果を生み出すことの意味は、『存在と時間』や「ハイデガー」を従来とは別の句読法で読み取ることである。

しかし、そのためには、ハイデガー全集を読まなくてはならない。

読むということの手間ひま−読むことの時間・空間的(=カント的)制約−をかけなくてはならない。

この手間ひま、あるいは手間ひまがかかることによる情報の稀少性がリオタールやアンリが言う意味での〈大学〉や〈研究者(専門家)〉を特異なものにしている。

〈大学〉や〈研究者〉と言われているもの自体が情報の稀少性の上でパンクチュエーションされたものにすぎないとも言える。


データベース化(の一般的普及)がこの稀少性を解消するのは明らかである。

稀少性の解消とともにハイデガー/哲学(者)/大学/…といった区別も再構造化されるだろう。

ポスターは、ベルの三段階の社会的進展論(「交通システム」→「エネルギーシステム 」→「マス・コミュニケーション」)を援用しながら「このように社会的世界は、明確な境界を持たない一般的過程によって変容される」と言う。

ベルの問題は、「一般的過程」という場合の「一般的」をあまりに一般的に捉える点にある。

アンリは、「マス」 の「一般的」情況を、だから「軽薄的」「低俗化」と言いかえてしまう。

しかし、この一般性は、差異性と対立してはいない。

膨大な情報の一般化は同時に膨大な数のパンクチュエーションを−アンリの言う「検閲」を超えて−生み出すだろうからである。

一般化は差異化を意味している。


ポスターは、この差異化の情況を主体の「散乱」「動揺」というふうに嬉々として指摘する。

それは、ポスターにとって近代以後を開始する情況である。

しかしそうではない。

バーガーは、ポスターの言う「主体の散乱」の情況を同じく「相対性のめまい」「相対性のるつぼ」と言うが、それはむしろ「選択性の増大」−「運命」から「選択」への近代化という意味で−として主体性を構造的に強化すると指摘している。

「選択がふえれば、反省も増す。反省する人間は否応なくいっそう自分を意識するようになる」。

一般化は主体を「散乱」させるのではなく、主体を「募る」(アルチュセール)のである。

リオタールは、「選択性の増大」を「遂行性の増大」(=「データの活性化」)という言い方で「情報の伝達」それ自体から区別している。

しかし、「選択性」にしても「遂行性」にしても、「情報」の外にあるわけではない。

「情報」は「対象」ではないからである。

情報について語られること−たとえば、「情報」に対して、それを「活性化」する「遂行性」というふうに−がそれ自体情報であることを拒む理由などないのである。

「遂行性」という意味での「主体性」は、ほとんどの場合、情報の稀少性によっている。

すでにどこかで誰かが言っていることを知らない=知らせていないために、つまり情報の稀少性のために「遂行」されている主体性。

ここで、主体性とは無知の別名にすぎない。

「情報」がリオタールが考えているように「遂行」性と対立するとしたら、それは、それ自身情報不足のためである。

「主体性」は情報の補欠情報なのである。

情報は、超越論的−自己言及的(ブプナー)である。

その意味で、情報は主体性と区別されはしない。

それは、サイバネティクス的な〈機械〉が、主体性によって人間と区別されるわけではないのと同じ意味でのことである。

〈機械〉ほど主体的なもの−「選択」的で「遂行」的なもの−はないのだから。


そもそも近代化の基調は、実体性(=「固有名詞」 クリプキ)の今・ここを相対化することにあったはずである。

そして、今・ここの相対化こそが意識的覚醒(「選択性」「遂行性」)を強いる〈主体性〉の起源であったのである−ハーバーマスの凡庸な近代論とは全く別の意味で〈近代〉は執拗に蘇生する。

そのようにヘーゲルの現象学は、今・ここを「一般的なもの」として相対化することから始まっていた。

とすれば、相対化の極限は主体化の極限でもある。

「散乱」は、むしろ、主体のヘーゲル的構築=教養としての世界の再組織化である。

仮に、私が自分の手を動かすように、世界の内で行為することができるとすれば、どうであろうか。

有機体がその内部を組織化しているのと同じように身体と世界との関係を組織化するとすれば、どうであろうか。

世界が一個の身体であるとしたらどうであろうか。

そのように初期ヘーゲルが〈生〉を論じていたとしたらどうであろうか。

あるいは、その後「意義作用の自立性」−認知科学は、この自立性を意義作用の、意味論からの解放と理解したのである−に触れていたフッサールの現象学が「生の哲学」(デリダ)であるとしたらどうであろうか。

二つの現象学(存在論的なコピーの学)の後に出てきたサイバネティクスが「生ける現在の超越論性」の刻印を帯びるのは偶然なことなのだろうか。


「コンピュータ・ウイルス」という言い方は、したがって比喩ではない。

それは、サイバネティクス以降の〈情報〉概念が有機体の統合性にまで拡大したこと(するだろうこと)を意味している。

もともと、サイバネティクスこそが「生の哲学」であったのである。ウィナーは、すでに「生物個体」と「通信機械」との間に「平行的」関係を認めていた。

この「平行」性が単なる比喩関係でないのは、有機体そのものが機械の有機体化−有機体的な自己差異化の〈制御〉性によって機械化されるからである。

「臓器移植」は、身体が世界にまで拡張された結果起こる身体そのものの縮小−つまり、身体の超=拡大−の過程である。

身体そのものが今度は機械化−おそらくは〈脳〉までも−されて行くのである。


〈人間〉は死ねなくなっている。

それには、二つの意味があって、一つは自然死の不可能性という意味で。

もう一つは、「コンピュータ・ウイルス」 「臓器移植」 「脳死」 「安楽死」… という仕方での死の対自化(内在化)という意味で。

しかし、死ねなくな っているということが、死の真理であるとしたらどうであろうか。


死ねないというのは死の反対概念なのではない。

かつて誰も私の死を死んだ者はいないのだから。

私は私の死を死ぬことができない。

私は他人の死を表象するだけである。

しかし、他人の死は死ではない−他人の死が、他人が死んでしまってもはや他人としては存在しないという意味で他人の存在ではもはやない(ヘーゲル)ように。

他人が死ぬことによって、私の死が代理される−私が(私の)死を免れる−わけではないからである。

私が死ねないとしたら、他人も死ねない。

つまり、私も他人も存在しない(私が死ぬ、とか他人が死ぬという意味での)のである。

「死は、生の出来事ではない。人は死を経験しない」(ウィトゲンシュタイン)。

死が、代理の起源であるように思えるときにこそ、その起源は再び代理されるのである。

死は、あらゆる代理(他者)の可能性であると同時に あらゆる代理(他者)の不可能性である。

「死への存在(Sein zum Tode)」(人間)が「世界-内-存在」であることは偶然なことではない。

不死の、代理の、つまり表象の共同体としての“電子共同体”は、死の対自化の極限として、むしろ死の共同体である。

ナンシーが言うように「不死の者たちの共同体はありえない」のである。


「フレーム問題(Frame problem)」 における情報 (認知) 工学の表象主義的挫折の理由について、大沢真幸は 「無視」 という 「奇妙な操作」 の−人間の代理としての知能ロボットにとっての−難しさにふれていた−大沢は気づいていないが、人間の行為における無視性は、ハイデガーの言う 「現存在」 の 「世界性」 と同義の内容である。

同じことを言うことになるが、つまり、ハイデガーの世界概念はいかなるフレーム (世界の集合論的表象)、「関係」性、「媒介」性とも無縁である。

「無視という奇妙な操作は、自らが存在することの現実性をその操作が直接に帰属する時点には確立できず、その時点の後に確立する」。

それゆえ、無視されているもの−かつてゲーテが 「行為する者には良心がない」 と言った意味で、「無視」 なしに我々のあらゆる行為は不可能である−を前もって (表象主義的に) 記述する、つまり、無視しないで無視するためには、記述の 「膨大な (爆発的) 量」 (橋田浩一) が必要となり、「知能ロボット」 の 「知能」 はそこでパンクする。

つまり、「無視」 が 「奇妙」 であるのは、それが 「未来からの逆投影として、『かつてあったもの』 として発見される」 (大沢) ところにある。

とすれば、人間が無視することができるのは、彼が死ぬことができる−「不可能性の可能性」 (ハイデガー) として−からである。

表象主義におけるフレ ーム問題には 「いまだ-ないもののすでに-あること」 という死の時間性が刻印されているのである。

 

【参考文献】 

『情報様式論』 M・ポスター 岩波書店/ 『システムと構造』 A・ワイルデン TAVISTOCK PUB/ 『名指しと必然性』 クリプキ 産業図書/ 『ポスト・モダンの条件』 J-F・リオタール 風の薔薇社/ 『国家とイデオロギー』 アルチュセール 福村出版/ 『野蛮』 M・アンリ 法政大学出版局/ 『異端の時代』 P・L・バーガー 新曜社/ 『現代哲学の戦略』 R・ブプナー 勁草書房/ 「近代−未完成のプロジェクト」 in 『思想』 696号 ハーバーマス 岩波書店/ 『声と現象』 J・デリダ 理想社/ 『人間機械論』 N・ウイナー みすず書房/ 『無為の共同体』 J-L・ナンシー 朝日出版/ 「知性の条件とロボットのジレンマ」 in 『現代思想』 18-3 大沢真幸 青土社/ 「人工知能における『頭の内と外』」 in 『哲学』 4-1 橋田浩一 哲学書房/ 『書物の時間』 芦田宏直 行路社


■ 初出 「創文」 (特集 電子メディア), 通算334号, 創文社, 1992.7.

(* 読みやすさを考慮して、雑誌掲載時とはレイアウトを変えてあります。)

(あしだ・ひろなお)


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