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29 8/5(月)
11:19:28
 全文掲載「東京工科専門学校の教育改革」  メール転送 芦田宏直  1816 

 
●東京工科専門学校の教育改革(1) ― シラバス改革の幻想

 20世紀から21世紀の変わり目の中で、教育組織の最大の問題は、少子化問題だった。「教育の危機」「教育改革」自体は年中行事のように叫ばれていたが、少子化問題は教育内容以前に学校の存在意義そのものが問われるという意味で、それらの問題意識をさらに(現実的に)先鋭化させる契機だった。

 私の勤務する東京工科専門学校(以後「東京工科」と略す)でも事情に変わりはなかった。遅きにすぎたとは言え、98年末にAプロジェクト(学園の中期戦略ためのAdvanced Project の略称)を、東京工科グループ4校の若い世代の諸科長を中心メンバーにすえ、発足させたが、そこで最初に問題になったのが、いったい何から手をつけるべきか(何を改革するのか)であった。

 「教育改革」といえば、「カリキュラム改革」ばかりが従来から(学内外で)目立っていた。生き残りをかけたマーケティング戦略という意味では、わかりやすい“差別化”や“変化”がどうしても前面化する。そうなるとほとんどの学校のリーダーたちが意識しがちになるのは、カリキュラム改革(あるいはそれに基づく「新科」の設立)という局面なのである。そうやって、専門学校をはじめ多くの大学、短大は中身のない新科、新学部を設立し続けてきた。

 しかしその結果が、経済学部を出ても経済のことがわからない、建築科を出ても2級建築士さえ受からないという“高等教育”だったのである。

 いったい何が欠けていたのか。

 カリキュラム改革や新科プログラムは、実は単なる“脚本”にすぎない。脚本がよくてもそれを演じる俳優や舞台の検証がなくては、単なる絵に描いた餅に終わる、というのが私たちの予感だった。俳優や舞台の検証とは、一言で言えば、授業評価のことだ。どんなに優れたカリキュラムや新科構想も、それが実行される場所としての授業評価の体制が整うことなしには、ほとんど意味をなさない。それは、ちょうど「シラバス」(「講義概要」)が存在すれば、その通りの教育がなされていると思い見なす錯誤に似ている。

 90年前後からアメリカの大学の影響を受けて、日本の大学でも「シラバス」という言葉が広がりはじめ、ここ10年、各大学のシラバス(あるいは講義概要)は、どんどん分厚くなってきた。それは試験で学生を「選ぶ」大学から、少子化によって「選ばれる」大学の“情報公開”運動の一環であった。

 このシラバス主義が一番見落としているものは、そのシラバスが実際に展開される〈授業〉というものだ。シラバスは予告編にすぎない。予告編は裏切ることもある。シラバスをいくら詳細化しても、それは〈授業〉それ自体ではない。〈シラバス〉が意味を持つのは、授業評価と一体になってこそのことである。

 そして私たちに欠けていたのは、その授業評価のノウハウだったのである。

 むしろ授業評価のない、評価のできない教育をすべてカリキュラムの所為にして、あるいはシラバスの不在の所為にしてそれを隠すための処方箋が“カリキュラム改革(あるいは新科の設立)”“シラバス改革”という戦略だったとも言える。脚本(=カリキュラムやシラバス)は何本も用意された。しかし舞台は穴だらけで誰もまともに演じようとしない、というのが少子化問題以来の教育改革の空虚な中身だったのである。(次号につづく)


●東京工科専門学校の教育改革(2) ― 授業評価という課題

 ところで、「授業評価」とは、一体何か? 評価のためには、目標がなければならない。その授業が“いい”授業か、“悪い”授業かを評価するためには、いったいその授業が何を目標にしてなされているのかがはっきりしていなければならない。「シラバス」は、その意味で、一つの目標提示にはなっていたが、それが「授業評価」に何の役にも立たないのは、実際の授業は、一つ一つの時間割の中で展開していくものであり、そして授業評価は実際の授業に向けられなければ意味がないからである。シラバスをいくら詳細に検討しても授業評価にはならない。そんなことは文献学者に任せておけばいい(「文献」にすらならないかもしれないが)。

 われわれの教育改革が始まったのは98年だったが、机上の論議は止めて実際の授業の中に入り込むことにした。他の科長や教員、総務のスタッフなど“異分野”のスタッフも含めて、50クラス以上の授業で、一授業に10人くらいが授業見学し、その日の内に担当教員を交えた授業評価会を実施した。この授業評価会をやってはじめて(今更のようにでもあるが)わかったことは、評価がばらばらだったということだ。「この授業はダメだ」という人もいれば、「そんなに悪くないじゃないか」という人もいる。

 なぜ、そんなことになってしまうのか。理由ははっきりしていた。まずまともなシラバスが存在していない。あったとしてもほとんどが抽象的。また具体的に書かれているものでも、コマ展開毎(時間割展開毎)の内容になっていないので、実際の授業評価に入った“その”授業(“その”時間)で何を教えるべきなのかを示すものがどこにもない。科長さえそれをつかんでいない。“その”授業で何が教えられるべきかがわかりもしないのに、授業評価ができるわけがない。せいぜいのところ、教員の声が小さい、板書の字が乱雑、学生が寝ているのに注意をしないといったことしか言えない。これでは、授業評価にならない。

 実際の授業に入って、その同じ授業を同時に見学しながらも、参加者が行う授業評価がバラバラだということは、その学校が学校として学生を受け入れる体制になっていないということである。教員が個人的に授業を行っているだけの学校だということだ。

 少子化問題における入り口側(入学時)での“基礎学力”低下。インターネット時代における出口側(卒業時)での即戦力養成、高度職業人養成。この矛盾した難問に答えるためには、もはや教員個人で学生に対応することは不可能だ。幾重にも教員や個々の授業をアシストする環境を形成する必要がある。もちろん、これは教員の個人的な能力の過不足の問題にとどまらない。

 そもそも、学校は、学校として学生を受け入れるのであって、個々の授業に向かって学生を受け入れるのではない。個々の授業は、学校としての人材形成を約束するための一ステップ、学校として卒業生を送り出すべき一ステップにすぎない。個々の授業評価にブレがあるということは、その学校が学校としての教育目標を持っていないということと同じことである。つまり、学校として入学生を受け入れ、学校として卒業生を送り出すという目標を有していないということである。授業評価にブレがある学校は学校ではない。こんな単純なことが今まで看過されていたのは、学校が学生を「選ぶ」ことのできる“幸福な“環境にあったからである。個人的にしか教えない先生と何もしない名誉職的な校長先生という幸福な環境に長らくあったからである。(次号につづく)

●東京工科専門学校の教育改革(3) ― 補習・追再試、担任制の問題

 授業評価ができない学校は生き残れない。自己評価ができない学校が、学生や企業の声に耳を傾けることなどもっと出来ない。それがわれわれの“問題”の出発点だった。

 ところがいざふたを開けてみると評価がバラバラ。シラバスはあるが、コマ単位の授業計画(授業時間毎のシラバス=コマシラバス)がない。だから評価できない。

 なぜ、コマ単位の授業計画がないのか?
 
 これにはいくつかの理由があった。

 最大の理由が、補習、追再試といった履修判定を曖昧にする“システム”が日常化していたことである。学生が授業を聞いていなくても、また授業を休んで試験が不合格になったとしても、補習か追再試で「なんとかなる」という“救済”システムが授業の背後で動いている。そうなると、“この”授業で何を教えなければならないのかという計画は精緻に立てても意味がない。補習は授業時間を任意に延長してしまう。追再試は授業目標そのものを相対化する。

 元来、計画とは、限りあるものの中でしか意味をなさない。目標とはそもそも限界付けであり(英語で言えば、目標=end なのだからますますそうである)、限りある授業時間の中で、具体的に限定された目標を達成しようとする限り授業計画は意味を持つが、補習も追再試も、その限界を取っ払ってしまう。そもそも教材開発という動機も、限られた時間の中で教育目標を達成しようとするからこそ存在していた動機であって、「できない子は後の時間で」ということになると教材開発も停滞してしまう。またその“できない子”も、授業時間の中で少しでもわからないことが出てくると、「また補習か」と自ら早々と“その”授業に参加することを拒んでしまう(同じように教員もその学生を早々と授業対象から外してしまう)。

 “その”授業(授業時間)の中で、“その”授業が目標としたことが達成されているかが、授業評価の要だが、補習のような授業の相対的な延長 ― しかもプログラム化されていない時間での、教員の個人的な判断による(個人的な“善意”)による時間延長 ― は、カリキュラム(授業目標やカリキュラムの時間割的な文節)に問題があるのか、担当教員の授業ノウハウに問題があるのかの判断を曖昧にしてしまう。そのうえ、肝心の履修判定試験が追再試で相対化される。授業評価もカリキュラム改革さえも一歩も先に進めない根深い構造が、ここにある。  
 次には、担任制の問題。最近、大学でも担任制を強化する動きがある。短大や専門学校ではその傾向はもっと強い。しかし担任制もまた、授業評価の阻害要因になっている。

 たとえば〈担任〉主導で学生指導を行うと、最後には、学生の素質としての基礎学力、性格、家庭環境などが必ず前面化し、担任の個人指導にとどまってしまう。学生が「学校が面白くない」と感じはじめる局面を最初から最後まで学生の素質の所為にする傾向が、担任主導の学生指導の最大の問題点である。

 なぜ、問題なのか。一つには、この“指導”は、結局のところ“心理主義”的なものになり、〈担任〉は教員としてよりも一個人(一人格)として学生の前に露呈してしまい、最後には性格的ないがみあい(好き嫌い)に終わってしまうことが多い。

 もう一つは(これが大事なことなのだが)、〈担任〉は、学生から授業についての不満を聞いてもその授業の科目指導へとは進まない。同僚の教員の科目指導について積極的に動ける立場ではないからである。どんな学生の不満も科目不満(授業不満)に始まり、科目不満(授業不満)に終わる。授業が楽しいのに、担任課題が山積するということはありえない。

 つまり担任の抱える問題のほとんどは、科目−授業問題なのである。ところが〈担任〉はそこに口を出せない。むしろ担任制は、科目問題(授業問題)を学生素因論にすり替えてしまい、授業評価や科目改善が進まない要因の一つになっている。〈担任〉は、宗教家でも哲学者でも心理学者でもない。人格としての学生、生活者としての学生を指導する資格など〈担任〉にはない。高等教育への負託の意味は、専門教育にある。専門教育の成功のないところに、人格指導、生活指導などあるはずがない。(次号に続く)


●東京工科専門学校の教育(4) ― 作品評価・実習評価の問題

授業評価を曖昧にするものはまだたくさんある。
 
 実習授業の履修評価も、いい加減なものが多い。実習授業の履修判定は、ほとんどの場合、作品提出か、実習作業のチェック(実際に実習作業をやらせて、その行為の妥当性を評価するもの)のどちらかである。

 作品評価の担当教員は、「作品を見ればわかる」というが、それはよほど優れた作品か、よほどひどい作品のどちらかの場合であって(つまり誰が見ても、専門家でなくてもわかる作品の場合であって)、たいがいは優劣を付けがたい中間的な作品が多い。なぜ、この学生が不合格的で、なぜこの学生が合格かの明確なラインは、作品(の存在)だけでは見えてこない。ほとんどは教員の好みにすぎない。

 なぜそうなるのか。それは作品というオブジェクトに評価指標(技術指標や創造性の指標)が紛れ込んでおり、いったいこの作品が作品として存在しうる指標の何をどこまで満たしているのかを明確化する手だてそれ自体は、作品の中にはないからである。それは作品を評価した教員の胸の内にしかない。ほめられてもけなされてもわけもわからずそうだというのが、作品履修判定の実際だった。これでは、よほど著名な創作家を教員にする以外に、評価の社会性(=信用)を勝ち取ることは不可能だ。

 実習作業の評価も同じことが言える。あることが〈できる〉か、〈できない〉かという評価は、一見実践的で高度な教育目標のように思えるが、しかし一方でわかりもしないのに〈できる〉学生を作り出しているのではないか(厳密に言えば、わからないとできないような高度な実践課題を見いだせていないのではないか)。実習授業や実務教育を特徴とする専門学校の実習評価には、特にその傾向が強かったのではないか? 意味を理解しないまま黙々と作業に従事するというマニュアル職の職業人を作り出してきた要因がそこにあるのではないか? 

 〈作品主義〉と〈実習主義〉に共通する誤りは、両者が結果しか見ていないという点にある。教育課程の学生に必要な履修判定は、その学生がその作品を通して、あるいは実習行為を通じて、どんな〈能力〉を身につけたかを判定することであって、能力の判定=作品(or 行為)判定ではない。〈作品〉や〈行為〉評価は〈現在〉しか見ていないが、〈能力〉評価は〈未来〉を見ている。“その”学生が別の課題を与えられたとしたら(課題と蓄積がゼロリセットされたとしたら)、一体何をどこまでできるだろうか、その力を評価することが〈能力〉評価であって、それは現に今ある〈作品〉や〈行為〉を直接的に評価することとは何の関係もない。

 重要なことは、作品や行為の中にある技術の指標や創造性の指標を、作品や行為の現在とは離れて独立して取り出すことである。教育目標の設定は、まず真っ先に、この指標を取り出すことなしにはあり得ない。この指標をカバーするためには、どんな作品ができていなければならないのか、どんなことが〈できる〉のでなければならないのか、が明らかになっていなければならない。作品を作る能力を養成することが教育の目標であって、作品を作ることが目標なのではない。現状は、この逆になっているのである。(次号に続く)


●東京工科専門学校の教育(5) ― コマシラバスと授業計画

 補習や追再試、評価尺度のはっきりしない作品評価、実習評価など、授業評価を曖昧にする要素は数え上げればきりがない。

 わが学園の改革の端緒は、この授業評価にまとわりつくノイズを徹底的に取り払うことから始まった。

 この改革の第2フェーズは、何といっても授業計画の、時間単位(授業時間=コマ単位)の詳細化にある。評価と目標は裏表の関係にある。授業評価が進まなかったのは、先の多くのノイズのみならず、各授業の目標が明示されていなかったことにある。期単位の目標は「シラバス」という形であったとしても、コマ単位(授業単位)の目標=〈コマシラバス〉がなかった。コマシラバスなしのシラバスなどほとんど意味のないものにすぎない。

 〈科目〉の実体は、90分毎に行われる〈授業〉であって、シラバスはこの〈授業〉に沿ったものであるとき(コマシラバスであるとき)にこそ意味を持つ。補習や追再試のようなノイズが多い授業も評価ができないが、目標がない授業も評価はできない。もともと補習や追再試も評価のダブルスタンダードを形成してしまうためのノイズであって、結局のところ、目標をなし崩しに相対化してしまうからこそノイズだったのである。目標が曖昧なままの授業評価は授業評価ではない。評価は前もって提示された評価基準(授業計画としてのシラバス=コマシラバス)なしには、趣味の悪い“検閲”になってしまう。

 もちろん時間単位、コマ単位の詳細化といっても、1年間の(時間単位の)授業計画など、生き物に等しい授業にとってはほとんど不可能なことだ。たぶん、一般的な大学の前期・後期制(約15週×2)であっても、15週のコマ単位の授業計画は、難しいだろう。大学の先生は、“書く”ことには慣れているので、(事務局の要望に従って)いくらでも授業計画を提出するだろうが、たぶん15週のコマシラバス計画は“作文”に終わるに違いない。

 そのため、われわれは、1年間を5期に分けて、5週×1期(各学年の導入教育期)、7週×4期(メインの学期)の体制とした。長くても7週の授業計画ならば時間単位(コマ単位)でも可能、と考えてのことだった。逆に言うと〈計画〉が可能な期間の、それが(われわれの)限界だったということである。

 この履修期間の短期化は、計画の精緻化だけを意味しているのではない。7週くらいの短い内容であれば試験落伍した未履修者であっても、履修回復のためのハンデは少なくなる。むしろ落伍可能性の早期発見にも繋がる。またその意味では、計画通りに進んでいない“危険な”授業の早期発見にもなる。科目と他の科目との関係(カリキュラム構築)は、これまで以上に厳密さを要求されるが、しかし授業評価自体は期間の短縮化によって、より明確化するに違いない。一つ一つの科目評価を厳密化することなしには、カリキュラム評価などできるはずがないのである。

 もう一つは、試験を先行作成することである。これまでの試験作成は、授業をやりながらの試験作成だった(ひどい場合には試験日の直前にできあがるものもあった)。授業の進行状況をなぞった限りでの内容を試験していたわけである。これでは授業に〈計画〉や〈目標〉がないのと同じことだ。

 試験は何よりも、教員が授業計画通りの授業が行えたかどうかの試験でなくてはならない。そうでなければ、カリキュラムや授業計画の正否は何によってもはかることが不可能になる。試験はまず何よりも担当教員の授業が成功したかどうかの試験なのである。

 少なくとも授業が始まる前、あるいはシラバス作成(コマシラバス作成)と同時に試験を作成することが理想だ。(次号に続く)

●東京工科専門学校の教育改革(最終回:実行評価のある授業評価)

 授業計画は、シラバス・コマシラバス・履修判定試験の三つがそろって、はじめて計画になる。この三つが揃うと、その科目が何(シラバス)をどう(コマシラバス)教えようとしているのか、また教えたことをどう評価しようとしているのか(履修判定試験)がわかる。しかし、これらはそれでも計画(プログラム)にすぎない。シラバスと実際の授業とは必ずしも同じではない。同じくコマシラバスがあるからといって、そのコマシラバス通りの授業が行われているとは限らない。

 計画上の尺度と実行上の尺度とは、必ずしも一致しない。そこでわれわれは、コマ単位で、広い意味での教材の一つとして〈授業シート〉を学生に配布することにした。このシートは三つでワンセットになっていて、一つは、各授業の冒頭で配布する、そのコマの全体を概観するための「今日の授業」シート、二つ目は、授業の最後で配布・実施する、そのコマ目標の達成度を学生に問う小テスト「授業カルテ」シート、その授業カルテの模範解答シート(間違った場合にはどうすればよいかまでを記してある)の三つである。A4用紙各一枚で、計3枚。これがコマ毎に全授業で配布される。実行上の評価は、この三枚があれば可能になる。

 この中で一番重要なシートは、「今日の授業」シートだ。これまで教員は〈授業概観〉を行うことをしなかった(復習を授業冒頭に行う教員はいても)。理由は簡単。今日、何をやるかは、教員自身が一番よく知っているからである。しかしその授業を受ける学生からすれば、授業の意味は、授業の最後になってやっと露呈することになる。受講過程の一つにでも躓くことがあれば、緊張を維持したり、理解の連鎖を追うことができなくなる。したがって、どの授業でも理解の基盤作り(理解のレフェランス)として、その授業の全体をまず概観することが肝要になる。「今日の授業」シートはそのためのものだ。

 「今日の授業」シートは、科目全体の授業目標である「シラバス欄」、当該コマの授業目標である「コマシラバス欄」、10項目の学習「主題欄」(90分の内容を10ポイントに“目次化”したもの)、10項目に分節した学習主題の理解の鍵となる「キーポイント欄」、同じく学習主題のテキスト教材上の参照箇所を示した「参照文献欄」、そして当該コマについての注意すべき全体的なコメント(200字程度)。以上の6項目のインデックスからなっている。

 このシートの学習「主題欄」を特に利用して、そのコマで習う概要を必ず授業冒頭5分から10分は入れる。これは、いわば、コマ目標の学生への宣言、しかも計画上の宣言ではなくて、実行上の宣言だ。従来の授業評価に根本的に欠けていたのは、この実行上の宣言の評価だった。

 計画上の目標、実行上の目標(計画上の目標へ向かっての日々の実行上の目標)がそろってはじめて日常的な〈授業評価〉が可能になる。

 こういった評価は、あれこれの“授業法”改善や授業“管理”のためというよりも、@授業改善の契機(計画、実行上の不備)を早期に見出し、学生や社会の教育的な負託に確実に応えるためのものであること A改善後の次課題を早期に見出し、目標そのものの高次化に備えることが、主要な動機になっている。

 少子化による基礎学力の相対的な低下とグローバル化による高度人材要求に対する答えは、教育力の向上以外にないと、この連載の冒頭に書いた。教育力の向上のためには、〈授業評価〉の力を付けることだ。これがわれわれの解答である。

 なるほど、教育改革には多様な試みがありうるだろう。教員改革、教材(教育設備)投資、カリキュラム改革、マーケティング主義など、これらは、どの一つをとっても継続性や発展性を欠いた改革でしかなかった。なぜかといえば、そういった諸契機が集約される授業現場を看過し続けた改革だったからである。〈授業評価〉のないところでは、教員、教材、カリキュラムは空回りし、腐敗するばかりだ。そして〈授業評価〉のないところに、学生募集が継続的に向上することはありえない。

 東京工科専門学校グループの教育改革に是非注目していただきたい。(了)


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