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26 7/25(木)
20:28:01
 東京工科専門学校の教育改革(5) ― 「コマシラバス」登場  メール転送 芦田宏直  3241 

 
東京工科専門学校の教育(1)http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=9
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東京工科専門学校の教育(3)http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=19
東京工科専門学校の教育(4)http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=20

●東京工科専門学校の教育(5) ― コマシラバスと授業計画

 補習や追再試、評価尺度のはっきりしない作品評価、実習評価など、授業評価を曖昧にする要素は数え上げればきりがない。

 わが学園の改革の端緒は、この授業評価にまとわりつくノイズを徹底的に取り払うことから始まった。

 この改革の第2フェーズは、何といっても授業計画の、時間単位(授業時間=コマ単位)の詳細化にある。評価と目標は裏表の関係にある。授業評価が進まなかったのは、先の多くのノイズのみならず、各授業の目標が明示されていなかったことにある。期単位の目標は「シラバス」という形であったとしても、コマ単位(授業単位)の目標=〈コマシラバス〉がなかった。コマシラバスなしのシラバスなどほとんど意味のないものにすぎない。

 〈科目〉の実体は、90分毎に行われる〈授業〉であって、シラバスはこの〈授業〉に沿ったものであるとき(コマシラバスであるとき)にこそ意味を持つ。補習や追再試のようなノイズが多い授業も評価ができないが、目標がない授業も評価はできない。もともと補習や追再試も評価のダブルスタンダードを形成してしまうためのノイズであって、結局のところ、目標をなし崩しに相対化してしまうからこそノイズだったのである。目標が曖昧なままの授業評価は授業評価ではない。評価は前もって提示された評価基準(授業計画としてのシラバス=コマシラバス)なしには、趣味の悪い“検閲”になってしまう。

 もちろん時間単位、コマ単位の詳細化といっても、1年間の(時間単位の)授業計画など、生き物に等しい授業にとってはほとんど不可能なことだ。たぶん、一般的な大学の前期・後期制(約15週×2)であっても、15週のコマ単位の授業計画は、難しいだろう。大学の先生は、“書く”ことには慣れているので、(事務局の要望に従って)いくらでも授業計画を提出するだろうが、たぶん15週のコマシラバス計画は“作文”に終わるに違いない。

 そのため、われわれは、1年間を5期に分けて、5週×1期(各学年の導入教育期)、7週×4期(メインの学期)の体制とした。長くても7週の授業計画ならば時間単位(コマ単位)でも可能、と考えてのことだった。逆に言うと〈計画〉が可能な期間の、それが(われわれの)限界だったということである。

 この履修期間の短期化は、計画の精緻化だけを意味しているのではない。7週くらいの短い内容であれば試験落伍した未履修者であっても、履修回復のためのハンデは少なくなる。むしろ落伍可能性の早期発見にも繋がる。またその意味では、計画通りに進んでいない“危険な”授業の早期発見にもなる。科目と他の科目との関係(カリキュラム構築)は、これまで以上に厳密さを要求されるが、しかし授業評価自体は期間の短縮化によって、より明確化するに違いない。一つ一つの科目評価を厳密化することなしには、カリキュラム評価などできるはずがないのである。

 もう一つは、試験を先行作成することである。これまでの試験作成は、授業をやりながらの試験作成だった(ひどい場合には試験日の直前にできあがるものもあった)。授業の進行状況をなぞった限りでの内容を試験していたわけである。これでは授業に〈計画〉や〈目標〉がないのと同じことだ。

 試験は何よりも、教員が授業計画通りの授業が行えたかどうかの試験でなくてはならない。そうでなければ、カリキュラムや授業計画の正否は何によってもはかることが不可能になる。試験はまず何よりも担当教員の授業が成功したかどうかの試験なのである。

 少なくとも授業が始まる前、あるいはシラバス作成(コマシラバス作成)と同時に試験を作成することが理想だ。(次号に続く)


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