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1042 | 4/30(土) 23:32:52 |
2005年度第一回「学校見学会」 ― 学校選びの極意をそっと教えます。 | 芦田宏直 | 0 | 4070 |
昨日(4月29日)は、今年初めての学校見学会。毎回、来年度入学を検討する見学者を前にして会の冒頭、ちょっとした挨拶をするのだが、これが難しい。講演会などは一種の“講義”だと思って、“聴衆”を学生とみなして話せばいいが、見学会の参加者は、まだわが校の学生になるかならないか定まらないグレーゾーンの“お客様”。私は“お客様”に向かって話すのが不得手。元来、教員というものは、“お客様”意識が持てない人種。どんなときでも“先生気取り”で話してしまう。今日も入学相談室(わが校の学生募集担当部署)の担当者から、「もっとわかりやすく、内容を絞って話してください。話が長すぎます」と怒られた。藤田さん、毎回スミマセン。 以下が昨日10:30から行った挨拶(話したことを思い出しながら、足したり引いたりかなり修正しています)。 ●ご挨拶 今日(4月29日)は、ゴールデンウイーク初日でもありお忙しい中、お越しいただいてありがとうございます。私ども、毎年「学校見学会」をこのように開催しておりますが、皆様の立場に立って考えると、学校選びほど難しいものはないだろう、と思っております。こうやって見学会を主催しているわれわれ自体が、いったい何をこの短い時間でお示しすればいいのか、毎年毎年、毎回毎回悩んでもおります。 教育の成果はなかなか形に見えない、数字に表しづらい、とも言いますが、まさにそういった点からも「見学会」で何をお示しすればいいのか、私どもも日夜悩んでいるところです。 しかし毎年、学生を迎え、日々学生、教員ともども学びの場を形成しているわれわれ自身が、何をわれわれの〈教育〉と考えているのかを真っ先に示す必要がある、必要のみならず義務があるとも思っております。 今日は、われわれ自身がどういったことを「専門学校の教育」と考えているのか、大学教育や高校までの教育と何が違うのか、その成果や実績はどうなっているのか、他の専門学校や大学と何が違うのか、それらをじっくり「見学」「体験」していただきたい、と思っております。われわれの方も、イベント色、営業色を一切廃して(そもそも私どもの学校は営業が大変下手な学校であります)、ありのままの学校をお示ししたいと、今回の「学校見学会」を用意させていただきました。今日一日よろしくお願いします。 ●学校がつぶれる? 戦後、絶対につぶれないと思われてきた銀行と学校がつぶれる時代が訪れました。私が皆さんの年齢の頃には考えられなかったことです。どちらにも共通することは、二つあります。 @ 時代の変化にもっともついていけなかった組織であること A 大学卒(学歴社会の勝者の一部)が作ってきた組織であること この二つです。「先生」という人たちは、一度学校に入ってしまうと(その“職”についてしまうと)、社会や世の中のことに耳をふさいでしまい、学生を勉強させることには心を砕きますが、自らが勉強することは忘れて、世の中の変化から自らを閉ざしてきたのです。だから学校で学ぶことが世の中に出て役に立たない。大学や専門学校を出ても就職ができない。 そんな、学校でしか学べなかった人(世の中で役に立たないことしか学べなかった人)がリーダーとして君臨している銀行や学校が、本当につぶれ始めたのです。 逆に言うと今の世の中は、学校で学んだことだけではやっていけないほどに変化が速いということです。世の中がこれから必要としているものについての勉強が足りない。それが「学校」という存在でした。 ●質の高い就職ができる学校、東京工科専門学校 われわれは、そのことを真っ先に意識して、他のどんな学校よりも本格的に教育改革、カリキュラム改革を行ってきました。 世の中に役立つことを学べることの最大の指標の一つは、学校にとっては〈就職率〉というものになりますが、私どもは、年度末の就職率が100%であることはもちろんですが、8月末でも81%の就職率を誇っています。 早期就職率は就職の質を表す重要な指標です。新年度がもう数週間で始まる卒業式間近の3月に就職が決まるというのはどういうことでしょうか。能力のある優秀な学生がそんなに遅くまで“売れ残る”なんてことはまずあり得ません。新年度がまもなく始まるのに、まだ人材を確保していない会社というのも将来性のある会社とは言えないでしょう。年を越してからの就職や就職率に依存する学校というのは、人材の育成力・輩出力に問題のある学校と言えます。単なる「就職率100%」という数字に騙されてはいけません。学校たるもの、年を越してからの就職を就職率(の分子)に組み込んではいけないのです。 私どもは、そのため早期就職を学校全体の目標にしてきました。学生も会社も優秀な学生や将来性のある会社がひしめきあっている8月までの早期人材市場で勝ち抜いてこそ、学校の教育力を示すことができると考えたからです。そうして、昨年度は81%(東京工科専門学校東中野校舎)という〈8月末就職率〉を達成しました。全国の大学、専門学校を含めてトップレベルの就職率と自負しております。 ●「カリキュラム」が存在する唯一の学校、東京工科専門学校 1)大学にも、高校にも「カリキュラム」は存在しない とはいえ、就職率は結果の数字に他なりません。いくら就職率が良くても、学校に入学してからの日々の学園生活が楽しくなければ意味がない。毎日、毎日、毎時間、毎時間の授業で学ぶことが楽しくなければ意味がない。 質の高い高就職率は、私どものカリキュラムにまずその第1の理由があります。 私どものカリキュラムの特徴は、総合性という点にあります。たとえば、建築の例で言いますと、建築分野は、計画(設計)、施工、構造、法規などの分野に分かれていますが、従来は、これらの(まさに専門的であるが故に)細分化された専門分野を別々に教えていました。 「別々に」という意味は、たとえば床面積100uの住宅を設計するのに、構造、施工、法規の各授業はその設計課題と直接の関係をもたないまま単独に教科書を読み進んでいくということです。だから、せっかく床面積100uの住宅図面を書き上げても、“住める”住宅にならない。肝心なところに柱がなかったり、柱があっても弱い地震でも壊れてしまうような家であったり、斜線規制で法律的に建てられない家であったりするわけです。 建築物というのは、単に著名な(=芸術的な)建築家の建築物が観光の対象になったりするようにして美的な対象にとどまるものではなく、自然の法則や人間の日常的な行動の傾向、そして社会的な規則(法律)にかなうものでなくてはなりません。 ところが、そういった自然の法則や法律の分野の授業ではほとんど学生は授業を聞かず寝ています。大学でも専門学校でも、建築科の学生は“設計”の授業では生き生きとしていますが、構造や法規の授業になると出席率が落ちます。“芸術家”気取り、“デザイナー”気取り、“建築家”気取りで自分勝手な住宅を夢想しているだけなのです。 その理由は、学生の問題ではなく、カリキュラムに問題があるのです。特に大学では、縦割りの専門性が幅をきかしています。ある設計(デザイン)課題が与えられている場合、そのためにはどんな「構造」の勉強をしたり、どんな「法律」の勉強をしたりする必要があるのかという観点からカリキュラムが作られていることはありません。 「設計」は設計、「構造」は構造、「法規」は法規というようにバラバラに授業が組み立てられているために、“住める”住宅が設計できない。要するに各分野の科目の横連携がまったく考慮されていないのです。専門的に走りすぎる大学教育の悪いところです。 2)トータルに(=自然に)学べる「螺旋(らせん)カリキュラム」 われわれのカリキュラムでは、学生の一番の関心である建築「設計」に定位しつつも、その周辺にその設計に必要な「構造」「施工」「法規」などを配置し、本当に建てることのできる設計ができるようになっています。小さな(低層小規模の)建物には小さな建物の構造、小さな建物の施工、小さな建物の法規、というように、また中層中規模の建物には、その構造、施工、法規というように、そして高層・大規模な建物には…、というように。 これをわれわれは、「螺旋(らせん)カリキュラム」と呼んでいます。総合性を示す円環。そして徐々に設計の規模を上げていって、構造、施工、法規の内容をそれに即して高度化していく(設計を学びながら、難しい構造、施工、法規の内容が自然に身に付いていく)、まさに螺旋状に学習の総合的な円環が伸び広がっていく、そういったことをイメージして「螺旋カリキュラム」と呼んでいます。これはどの学校にもないわが校独自のカリキュラムです。 大概の建築系専門学校のカリキュラムは、「設計」の授業時間を異常にたくさんとって、実際には住めない(単なる絵でしかない)図面を書かせ続けています。それは町の小学生相手の図工教室のような風景でしかありません。好きなことだけをやらせて学ぶべきことを学ばせない。これでは、人の命に関わる建築の仕事にたずさわることはできません。 一方で大学の、縦割りのカリキュラムが存在し、建築をトータルに学べず、学ぶのは「設計」「施工」「構造」「法規」のそれぞれでしかない。どれも欠かせない建築の要素ではありますが、しかし一つ一つを別々に学んでも「建築」を学んだことにはならない。実践的な建築家にはなれない。 わが校の、建築・インテリア系以外の、インターネットプログラミング科、WEBデザイン科でも同じように、われわれのカリキュラムはすべて「螺旋(らせん)カリキュラム」になっています。 インターネットプログラミング科で言えば、一つのプログラム作品(アプリケーション)を作らせることをまず主眼に、低位なプログラムから高位なプログラムまで、それに応じたハードウエア知識、ネットワーク知識、データベース知識を周辺に配置し、決してそれぞれの分野が独立して暴走しないように出来上がっています。ある分野では生き生きと授業参加している学生が苦手な分野では寝ていて授業を聞かない、ということはありません。 同じようにWEBデザイン科でも、必ず2、3ヶ月おきにホームページサイトを作りますが(学生はホームページを実際に作るときが一番生き生きしていますから)、それもただ作るのではなく、最初は静的なグラフィックス(狭い意味でのデザイン)を中心としたもの。次には動的なグラフィックス(アニメーション)を中心としたもの。次には、資料請求などのメールのやりとりなど情報の受発信ができるもの、さらには、ショッピングサイトの構築、というように、作品制作を中心にそれに必要な技術要素をたえず周辺科目として配置し、自然に必要な(そして時には難しい)技術が身に付くようになっています。 これが、わが校の質の高い就職率、質の高い人材供給の源の一つです。 ●「コマシラバス」のある学校、東京工科専門学校 1)大学や専門学校には教科書がない 質の高い就職率の秘密はもう一つあります。 それは、詳細で具体的な〈授業計画〉の存在です。みなさんは「シラバス(Syllabus)」という言葉を聞いたことがありますか。別名では「講義要項」などと言ったりもします。「科目」毎に学ぶ内容を示したものです。「科目案内」とでも言うものです。 高校までの学習では、内容の多くは文科省による「検定教科書」に従って行われますが、大学や専門学校ではそのような意味での教科書は存在しません。 大学や専門学校では、学ぶことが高度な分、分野も細分化され、それに従った教科書をいちいち「検定」することなどできないからです。しかも大学や専門学校は、卒業が即社会人であることを意味します。その分社会的な変化に影響を受けやすい。というよりそういった変化する社会的な知識や技術の要求に絶えずさらされているのが大学や専門学校のテキスト(=教材)であって、そんなものをいちいち「検定」している暇などないのが実情です。 大学や専門学校で学ぶ内容は、個々の学校や教員の専門性に任されていると言えます。同じ「建築科」と言っても、教えている〈建築〉は全く異なっている可能性があります。先ほども言ったように単なるお絵かき教室のような「建築科」も多々存在しています。「個々の学校や教員の専門性に任されている」と言ってもその専門的な責任を放棄している学校もたくさんあるのです。専門性の名に隠れて。 しかし問題なのは、そういったお絵かき教室かどうかは、入学してからでないとわからないということです。なぜか? どの学校も詳細な「シラバス」(講義要項)を用意していないからです。現状では学校見学会で何回学校を訪問しても入学後に自分が学ぶ内容は「学校案内」やそこに記載されている「科目名」から推測するしかなく、よほどの専門家でないかぎりそこから何を学べるのかを理解することは不可能です。 2)「シラバス」「コマシラバス」って何のこと? 私どもの学校では、すべての科目について、単に科目全体の内容のみならず、一時限単位(私どもの学校の一時限は90分の長さですが)の「シラバス」を用意しています。それをわれわれは、一コマ(90分)単位のシラバスという意味で、「コマシラバス」と呼んでいます(これは私達が作り出した言葉です)。いつでも入学前のみなさんにお見せすることができます。今日の後半の科毎の体験授業の際にでもご覧ください。みなさんの入学後の2年間、3年間の授業内容が90分単位ですべて詳細に、具体的にわかるようになっています。 これは、単に学校の授業の中身がわかりやすく、透明になっているということではありません。「コマシラバス」に詳細化された授業内容は、みなさんが授業料を払って学ぶことのできる“権利”でもあります。「シラバス」とは学校と皆さんとを結ぶ契約書、あるいは学校の性能表(スペック)なのです。 3)授業料は何に対する費用? いったい〈授業料〉とは何か? 〈授業料〉は何に対して払うものなのか? 何を買った費用なのか? 〈授業料〉は、この学校に入れば何を学べるのか、そのことに対する対価です。だから、何を学べるのかを入学前に(授業料を支払う前に)明らかにできない学校は学校ではありませんし、そんな学校を選んではいけません。お金をどぶに捨てているようなものです。 契約書のない、性能表示のない商品を買うということは普通の買い物ではあり得ないことです。まして2年間で200万円以上の“買い物”をする場合にはもっとあり得ないことです。 学校がつぶれ始めたのは、何も少子化のため(だけ)ではなく、中身のないものを売り続けてきたからです。ちょうど銀行が土地だけを持っていればお金を貸し続けたのと似ています。どちらも中身の評価を怠ってきたのです。 学校再生の第一の条件は、まず自分たちが何をやりたいのか(何が学べるのか)を明らかにすることです。それが「シラバス」であり、そのシラバスを「コマシラバス」までに詳細化している学校は私どもの学校しかありません。見学会後半の科毎のご案内でぜひ確かめてください。 学生の権利として「コマシラバス」がある。学ぶべき権利を明確にし、教えるべき義務を自らに課している。それが、我が東京工科専門学校です。 4)大学の専門主義の問題点 ところで「シラバス」は、なぜ、大学、専門学校とも詳細化しないのでしょうか。あるいはそこそこのものが存在していても活用されないのでしょうか。 その原因は、カリキュラムの特長のところで触れましたように、専門性の縦割り主義があります。科目と科目との横連携を厳密に取ろうとすると、必ず隣接する科目が何をどんな順序で教えているのかということ(一時限単位のコマシラバス)が関心の的になります。 単に科目名や科目の「シラバス」が明らかになっているだけでは、横連携が取れません。「コマシラバス」は単に情報公開や学校選択の便宜(サービス)なのではなくて、「カリキュラム」作成(科目の横連携)のためになくてはならないものなのです。全体の人材像を定め、カリキュラム全体の目標をそこに定位させ、科目相互の関係を厳密に定めて行くには、「コマシラバス」が必須のものになるということです。逆に言えば、「コマシラバス」のない学校には「カリキュラム」もないということになります。 5)「時間割」はあるが「カリキュラム」がない大学と高校 「カリキュラム」とは、科目の集合体ですが、単に複数の科目が存在しているだけではなく、一つの統一的な目標に従って科目が集合している、配置されている状態を意味します。「カリキュラム」が存在するというためには、したがって科目の横連携が取られていなければならない。そのためにこそ「シラバス」と「コマシラバス」とが存在しているのです。 「コマシラバス」のない学校は、それぞれの教員が科目を単独に(=自分勝手に)担い、自分の教えたいように教えている。隣接科目の内容を気にもとめない。それが「コマシラバス」の有無の意味です。 たぶん、高校までの教育では「カリキュラム」という言葉さえみなさんは聞いたことがないでしょう。私自身の経験としてもそうです。なぜか。高校までの授業では、数学、英語、古典、日本史などというように相互に関係のない自立した科目が並んでいるだけで、横連携などないからです。だから、そういった科目全体を学んだら、どんな人材になるのかなどと考えることはほとんど意味のないことになります。それゆえ、高校には「カリキュラム」がない。存在しているのは「時間割」だけです。 高校に「カリキュラム」がないのと同じように、あまりにも専門分化した大学にも「カリキュラム」は存在しません。専門家である大学教授が、自分の専門性の穴をひたすら掘り続けているのが大学の授業です。同じ建築学科という建築の分野であっても数学、英語、古典、日本史などと同じように計画(設計)、構造、施工、法規もバラバラに存在している。そしてその中でも分野が近づけば近づくほど教授たちの仲は悪い。専門性が高くなればなるほど連携や総合性を嫌がる。だから、大学の建築学科にも「時間割」しか存在せず、「カリキュラム」などないのです。 6)統一的な人材像のないところに「カリキュラム」も「コマシラバス」も存在しない その証拠に、大学の「シラバス」もいい加減なものが多い。もちろん「コマシラバス」など存在しません。大学の4年間というのは、高校の3年間と同じように一科目ごとに積み上がっているだけです(英語T、英語U、英語Vというように)。だから、高校生も大学生もイヤな科目には見向きもしない。その点では高校と大学とは同じです。 「コマシラバス」があるということは、その学校の先生たちが、学生が卒業するまでにどんな人材になっているのかの統一像が存在しているということです。そのために相互に自分の教えるべきことを踏まえているということです。 担当する科目が横連携を持っていなければ、「シラバス」も「コマシラバス」も殆ど存在する意味はありません。自分が自分だけで科目内容を考えればいいのですから、わざわざそれを外に出す必要はない。教員本人がわかっていればそれでいい。まじめな先生であればもっといい。それだけのことです。 しかし横連携を取ろうとすれば、他の担当者にもそれを(専門的に)わからせる必要がある。場合によっては内容を変更する必要がある。あるいは、場合によっては新たに勉強して補わなければならないものが出てくる。わが教員たちは、毎日のように「カリキュラム」という言葉を口にします。自分が何を教えなければならないのか、他の先生には何を教えておいてもらわないといけないのか、それを毎日のように痛感しているのが、わが教員たちです。 そういった人材育成に関わる教育的な作業報告書が「コマシラバス」でもあるのです。 「カリキュラム」が存在する証として「コマシラバス」がある。いつも「人材」を意識する証として「コマシラバス」がある。それが我が東京工科専門学校です。 ●番外編:賢い専門学校の選び方 今日は、ゴールデンウイーク初日。まだ今年度が始まって1ヶ月も経っていないこの時期に、来年の進学を早々にお考えになって、わざわざ学校訪問されている皆さんは、きっとまじめに学校選択をお考えになっている人たちなのだと思います。 学校選択というのは、本当に難しい。中身が物の商品のようになかなかわからないからです。そこでこのご挨拶の最後に、学校関係者の1人として、日頃良い学校作りに苦労をしている(学校の弱点や問題点を痛感している)校長として、みなさんに、学校選びのポイントをこっそり教えておきましょう。他の学校に訪問されたときに是非、以下の3つの質問をしてみてください(私が以下の質問をしろと言ったなどとは口が裂けても言わないようにお願いします)。 1)就職率、資格合格率の「分母は何ですか」と問うこと。 @就職率の分母は在籍数ではない!? たとえば、「就職率」。「就職率100%」と謳ってある学校案内パンフレットがよくありますが、大概の場合、その就職率を出すときの分母は「就職希望者」です。 たとえば、卒業年次の在学生の全体が100名いる科(あるいは専門学校)が存在しているとしましょう。その科(学校)が「就職率100%」という場合、普通100名が就職できたと思うでしょう。でもそれはほとんどの場合、事実と異なり、実際は、70名、80名止まりの就職者である場合が多い。 なぜか。100名いても、いくつかの必修科目に落第して卒業できない学生がいます。これは分母から外されます。こういった学生は留年するか、退学予備軍になります。あるいはすべての必修科目を履修していても、「就職する気がない」「入りたい会社がない」学生もいます。「就職する気」の有無って何? 「入りたい会社」って何? A「やる気がない」と存在しない学生にされてしまう 大学も専門学校もほとんどが就職前の最後の学校ですから、その学校の社会的使命は、学生を就職する気にさせる、就職する気がもりもりとわくくらいに専門性を身につけさせることにあります。「就職する気がない」というのは、「就職する気」が(学生自身に)起こるだけの教育ができなかった学校の反省材料です。「入りたい会社がない」も提携企業数が少ない、求人企業数が少ない学校自身の反省材料です。 しかし現状では「学生本人が就職したがらないので」と内外に報告されます。そう言ってこれも就職率を示す分母から外されます。休学者や長期欠席者で卒業込みが立たない学生も分母から外されます。そうやって、どんどん分母は小さくなっていきます。分母が小さくなれば、100%達成はそれほど難しくないことになります。 学生が大きな交通事故に遭うとか、父親の会社が倒産して学費が続かなくなったなどの小数の例外(=アクシデント)を除けば、落第学生や無気力の事例などに見られるこういった分母を小さくする“理由”はほとんどの場合、学校の教育力の衰退の言い訳にすぎません。 就職率とは、学生の一人一人が単に学校の期末試験に合格するだけではなく就職できるだけの能力、つまり社会人、企業人としての試験に合格するだけの能力をその学校が育成した証(学校としてもっとも名誉あること)なのですから、分母が在籍数よりも小さくなるというのは、学校の教育力が小さくなっているのと同じことなのです。どんどん分母を小さくしている学校は、自らの教育を自ら裏切っている学校なのです。 B資格合格率の分母は受験者数 ― 2人しか合格していなくても100%? こういった分母操作の典型は、「資格合格率」です。「資格合格率」の分母はほとんどの場合、受験者数です。たとえば、100人が在籍している科(学校)で、優秀なトップクラスの2人が受験して、2人が合格した場合、その科や学校の「パンフレット」は合格率「100%」を謳います。 普通、「合格率100%の学校」と聞かされれば、そこに入学すればすべての学生は合格できるんだ、と思いがちですが、在籍数(その学校に入学している学生数のすべて)を分母にしている合格率表示はまずありません。大概は受験者数が分母になっています。どんなにひどい学校でも優秀な学生は一人や二人必ずいるものです(それはどんなに残酷な侵略戦争でもヒューマンな英雄が必ずいるのと似ています)。受験者数分母では、その科や学校の真の教育力を示す指標にはならないのです。わが校は必ず在籍比で合格率を表示するようにしています。 2)「出席率はどうなっていますか」と問うこと @出席率は学校支持率です 二番目の問いは、学生の授業出席率です。たとえ、いくら立派なシラバスやコマシラバスが用意されても、それらはまだ計画にすぎません。それが実際に書かれたとおりに実行される場所は〈授業〉であり、授業の主人公は学生です。出席率は、その主人公である学生による授業評価(その学校の教育評価)の最も重要な指標です。中学校や高校までの出席率と違って、大学や専門学校の出席率は、その学校の授業への学生の“支持率”とでもいうものです。 つまり、授業へ出席するかどうかは、学生が怠け者かどうかということではなくて、その授業が出席に値する授業なのかどうか、ということ。出席率の高低はその授業の魅力の高低なのです。学生が怠け者かどうかではなくて、学校が怠け者であるかどうか、それを示すのが出席率です。 中学校や高校までの出席率は科目によって出席率が異なるということはほとんどありません。せいぜい寝ている生徒の数が科目によって違うくらいです。しかしそれぞれの科目の専門性が高い大学や専門学校の授業では、科目や教員の専門性の高低、教育力の高低によって、出席率自体がかなり変化します。科目単位で10%以上、20%以上と違ってきます。出席率が高い学校は、学生の授業への支持率が高い学校、教員の能力格差が少なく教育品質の高い授業を行っている学校だと言えます。 A出席率数値の見方(1)― 何を「出席」とみますのか? ところが、出席率表示にも怪しいものがたくさんあります。まず何を「出席」とみなすのか? 私どもであれば、授業開始後20分以上経つと欠席扱いするルールになっていますが、遅刻と欠席との境界が曖昧になりがちです。特に出席率が学生の授業への支持率だという立場に立てば、遅刻と欠席との境界を自ら曖昧にしてすべて“出席”にした方が(たとえば、授業の最後に出席を取った方が)学生のみならず、学校にとっても有利だということにもなります。場合によっては、一日の授業の最後に出席を取って高出席率を誇ったり、欠席学生を集めて補講・補習を行い、補講出席を正規科目出席にすり替えたりする処置をしている学校もあります。 そうなると、何が良い授業(学生に支持されている授業)で、何が悪い授業(学生に支持されていない授業)なのかがわからなくなります。要するに出席基準がいい加減な学校は、授業改善をする気がない学校なのです。 そういった学校の殆どは、先生さえもが教室に定刻開始から大きく遅れて入室している学校と考えていただいて結構です。授業改善のきわめて重要な指標である出席率をいい加減にする学校。先生自身が遅刻する学校。ほとんどの大学、専門学校はまともな出席処理をしていません(「ルール」はあっても誰も守ろうとしていない)。教育改革が停滞する理由の一つがここにあります。 私どもの学校では、すべての教員が公正なルールで出席を取っているかどうかを、学生自身に年2回(夏休み前と冬休み前に)アンケート調査しています。 アンケート内容は全部で20問ありますがその一番目の問いが、「出席処理(出席、欠席、遅刻などの判定)について、講師によって判断基準が曖昧で不公平ということはありませんか?」というものです。 解答選択肢は4肢、「そういうことがよくある」(0点)、「たまにある」(33点)、「ほとんどない」(67点)、「まったくない」(100点)。「そういうことがよくある」を0点、「まったくない」を100点満点で定量評価しており、現在東中野校のこの第一問目の平均評価点は95点です。教員全体の95%が正しい出席の取り方をしていると学生自身から評価されているわけです。わが校の出席率表示は95%の精度を有していると言えます(ちなみに、わが校の年間平均出席率は94%です)。 B出席率数値の見方(2)― 上位学年の出席率を見てみよう 出席率数字については、その出席ルールだけではなく、もう一つ別の問題もあります。学校(や学ぶ分野)によっては、「出席率しばり」を行っている学校があります。たとえば80%以上出席していなければ、期末試験を受験する資格を与えないなどというように。こういった学校の「出席率」は、学生による授業支持率を直ちには表しません。規則で出席率を上げているわけですから(私どもの東中野校舎の諸学科には「出席しばり」は全くありません)。 そんな場合は、上位学年の出席率を問いましょう。学校全体、科全体の出席率を問うのではなくて、1年生の出席率と2年生の出席率を別々に問います。そうして、2年生の上位学年の出席率が(1年生の出席率と比べて)5%以上、10%以上低い場合は要注意。なぜか? 普通、1年生の内は何もかもが新鮮で緊張する度合いも高くて、学生は授業の善し悪しに関係なくまじめに出席しています。でも1年も経つと、上級生の友達との交流も多くなり、「この学校チョロいよ」「あの先生の試験はいいかげんだよ」などと情報交換しながら、適当に手を抜き始めたりもします。 要するに1年も経てば学生は学校の“内情”をすべて把握できるようになるということです。だから2年生の出席率はその内情評価の結果だと思えばいい。上位学年の出席率こそが本当の出席率だということです。期が進めば進むほど、学年が進めば進むほど勉強が面白くなって、来るなといっても来るくらいに出席率は良くなるのが学校の理想の姿ですが、なかなかそうはいきません。「出席しばり」のまったくない私ども東中野校舎の年間平均出席率は94%。上位学年の出席率は92%です。上位学年(就職学年)で下がっていますが、私どもは就職活動の欠席も大学と同じように公欠扱い(=出席扱い)しませんので(大概の専門学校は就職活動を欠席扱いしません)、実質出席率は1年次と変化がないと思って頂いて結構です。 C出席率数値の見方(3)― 就職活動による欠席は「出席」扱いすべきか ちなみに、われわれが就職活動を出席扱いしない理由は明白です。学生が授業を休まずに出席することこそ(つまりわれわれが苦心して作り上げたカリキュラムの教育と教員の指導を休まずに受けることこそ)、最大の就職活動だと考えているからです。就職活動は回数で行うものではなく、能力(人材能力)で行うものです。カリキュラムと教員の指導がまともなものであれば、出席率が大幅に低下するようなことはあり得ません。数回の就職活動で就職が決まるからです。 就職活動を欠席扱いしない、というのは学生サービスのように聞こえますが、だから、それはウソ。そういった学校は、就職活動や就職率を就職「活動」、つまり訪問会社数で確保している学校なのです(「下手な鉄砲、数打てば当たる」というように)。したがって出席扱いしないと、出席率が大幅に下がる危険性がある。本来の学生サービスであるまともな教育(就職できるだけの能力を育成するという本来のサービス)を行っていない、その結果が就職活動を欠席扱いしない、という“サービス”なのです。本末転倒です。 平均値からの、上位学年(卒業学年)2%の出席率落差はむしろわれわれの教育力がまともなものであることの証です。そのことが内外に明らかになるためにも、就職活動は出席扱いするべきものではないのです。 「東京工科の学生なら」と企業の方が出向いて学生を探しに来てくれる、そんな学校を作るのが私の理想です。就職活動を公欠扱いする学校には、その気概が欠けていると言えます。 Dリクルートなどの進学雑誌では本当のことはわからない 詳細なシラバスの有無を問うこと、就職率や資格合格率の分母を問うこと、出席率を正確に細かく問うこと。これらが、リクルートや大手の進学雑誌がまともに雑誌に書かない学校選びのポイントです。なぜ彼らは肝心のポイントを書かないのか? それはその当の学校が巨額の広告費収入のスポンサーだからです。スポンサーである学校が曖昧にしたいことを、彼らがその学校に問い合わせなさいなどとアドバイスするわけがありません。 ●最後の本当のご挨拶 さて、長々と挨拶を越える話をしてきましたが(担当の者が教室の後ろで“早く終われ”と先ほどから怖い顔をして合図を送り続けています)、私がみなさんにお話したいこと(お話ししたいわが学園の特徴)はまだまだあります。毎日、毎日教員とけんかに近い激烈な議論を重ねながら手塩にかけて築き上げてきたのが、我が学園のカリキュラムと教員・教育体制だからです。そのありのままの姿を今日の見学会でじっくりお確かめください。各科の科長や教員は、そのデータをどんな観点からでもお出しできるように用意しています。どのデータも明確で、教育的に妥当な定義や概念に満ちた実データです。 今日は、募集担当者や教員ばかりではなく、実際の在学生も幾人か参加しております。私どもの見学会は、いかなるイベント的な見学会とも距離を取っています。本来、学校選択のための見学は、授業のない日曜日や祝日におこなうものではありません。実際の平日授業を見れば、ほとんどのことはわかるからです(ですから、私どもの見学会では平日授業とかわらないスタイルで授業をお見せするように校長として指導しております)。 今日は祝日で授業がありませんが(大変残念ですが)、平日授業の様子をぜひ学生自身から自由に聞いて頂きたい。特に我が学園で優秀であるわけでもない(学生諸君、失礼!)、我が学園ならどの教室にでもいる平均的な学生たちですが、私がこれまでお話ししてきたことは、この学生たちの現在と将来のためのものであることを実感して頂けると思います。この学生たちが自分の将来を我が学園に預けたように、私も私ども教員もこの学生たちのために日々精魂を傾けております。世界中ではじめて「学校」と言える学校を作りつつあると自負しております。ぜひ東京工科専門学校をご信頼頂きたい。(やっぱり)長くなりましたが、これで今日のご挨拶に代えさせていただきます。 |
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