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103 2/16(日)
01:46:34
 Hさんの家族へ(part2) ― 私は本気です。  メール転送 芦田宏直  No.101  4595 

 
 学校を選べば、階級が選べるという考えは、学歴社会の思想だ。学歴社会の思想とは、しかし無階級の思想である。そもそも、偏差値やマークシート試験、その元基である○×試験などは、階級を隠すための装置だった。どんなに貧乏でどんなに無階級(“下級”階級)の人間でも、点数さえ取れば、官僚にもなれるし博士にも大臣にもなれるというのが学歴社会というものだった。国語・算数・理科・社会・英語が主要5科とされたのは、その他の科目である音楽や美術や体育には、(「主要5科目」に比べて相対的に)家庭環境や遺伝要素が強かったからだ。前者の主要科目は一夜漬けの努力が効く科目だったが、後者の科目は努力の効かない科目だったのである。主要か,そうでないかは、努力が効くかどうかの指標だったと言える。「主要」科目とは他の科目への差別だといった発言が昔から多いが、むしろ差別的な科目は、音楽や美術や体育なのである。こんな科目は半分以上は親の能力に属している。その意味では、「主要」科目による学歴選抜はもっとも民主的な選抜装置だったのである。

 たとえば、○×試験の正反対は、記述試験と面接試験である。これは、親や家庭環境を問う試験であるといってよい。まともな試験官であれば、記述式の文体や文字の形を見れば、国語能力以上に当人の性格や人格をかぎ分けることができる。面接試験となれば、もっとそうである。こういった試験は、知的な(「主要5科」的な)能力を問うているのではない。その生徒の所属する家族や階級を問いただしているのである。日本の私立幼稚園、私立小学校、私立中学校などに見られるこういった選抜試験は、その意味で(その本質において)階級選抜なのであって、学力選抜なのではない。本人よりも親が緊張する試験なのである。日常は成金スタイルで着飾っているブレスレットや指輪を地味なものに変えるのも、この試験にありがちなことである。学力試験は合格点を取っているのに、親が“お下品”ということで不合格になる場合も多い。

 そういったことに比べれば、○×選抜は、はるかに本人自体の能力を問う試験だったと言える。「個人として尊重される」という日本国憲法13条の精神(http://www5.ocn.ne.jp/~sekaihe/kenpounokihongenri.html)に○×試験はかなったものなのである。日本のくずれ左翼教育学者たち(日本の教育学者のほとんどは、そして岩波書店の著作や朝日新聞に登場する教育学者のすべてはくずれ左翼です)は、○×試験の“非人間性”をことあるごとに批判し続けてきたが、それはむしろ逆で、人間=近代的個人であるとすれば、○×試験ほど近代的な選抜方式はなかったのである。

 日本の高度成長を支えた理由の一つは、日本の一流企業(や官僚組織)に、○×選抜のおかげで多くの階級がなだれ込んだからである。アメリカが人種のるつぼだとすれば、日本の一流企業(や官僚組織)は多階級のるつぼだった。○×選抜のおかげで、日本の一流企業(や官僚組織)は日本の“総力”を結集できたと言える。それが日本経済の活性化の要因の一つだった。

 東大の村上泰亮が「新中間大衆の時代」(1984)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01440188&volno=0000と呼んだのも、この事態だった。私の論脈で言わせれば、「新中間大衆」とは○×試験によって形成されたということだ。その後(最近)、京大の橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波書店、1998)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01595374&volno=0000、東大の佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書、2000)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=01890101&volno=0000などが、村上の言う「新中間大衆」は80年代以降崩壊しつつあるという論陣を張り始めているが、それは(大阪大学の大竹文雄が言うようにhttp://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/booklet.htm)日本の超高齢化と超高学歴化を無視しているだけのことである。依然として、○×試験の「新中間層」化は機能している。

 私が言いたいことは、この「新中間層」の逆説だ。彼らは学歴を買うことで階級を買うことができると思っている。しかしそれこそが幻想にすぎない。学歴と階級とは何の関係もない。天皇家でさえ偏差値の低い学習院大学にすぎない。ダイアナでさえも専門学校しか出ていない。彼ら(彼女ら)は、自分自身がブランドなのである。学歴を上位階級の指標だと思うのは、新中間層の幻想にすぎない。特に東京の「新中間」層は、お金があり、高学歴で、つき合うデパートが三越・高島屋であれば、高階級だと思っている。全体が成金な街、それが(ウルトラモダンとしての)東京だ。それは階級とは何の関係もない。単に新中間層が膨張しているだけだ。それを〈近代〉と言う。そもそも(単なる軍人階級にすぎない)武家階級が公家階級と分離して拡張した室町・鎌倉以降(そして徳川以降はもちろんのこと)、日本のウルトラ「新中間層」は膨張し始めていたのだとも言える。

 私の田舎である京都には、高学歴でなくても、貧乏でも、私立中学校に行かなくてもNobleな人はいくらでもいる。たとえば冷泉家(http://www.nbz.or.jp/jp/kikakuten/200109/200109gaiyou.html)の末裔が京都にはいくらでもいるが、その人たちは食事を一緒にしただけで、ただものではないことがすぐにわかる。一切音を立てないで食事ができる、音を立てても不快ではない衣擦れのような音がする。しかも背筋が伸びた姿勢がまたにくい。その人たちに向かって学歴や年収を勘ぐるのが恥ずかしいほどに美しい。キリスト教のシスターたち(or西洋人の貴族たち)は平気で人前で鼻をかむが、冷泉家の人たちは鼻をかむときにさえ気品がある。どこからともなく鼻紙が出てきて、何事もなかったかのようにどこへともなく鼻紙が終われる ― それは『斜陽』の「かず子」の母の食事の所作を「ひらり」「燕のように」と形容した太宰の心境に近い。こういったものは何らかのマナーなのではなくて、別の自然なのである。「マナー」は「新中間層」が(私立中学校へ入れて)学ぼうと思えば学べるが、こういった人たちの自然は学べない。私の息子を東大に入れるよりは、この食事の自然な、そして日常的な所作を教える方がはるかに難しい。一流バレリーナの衣服の身につけ方がどんな一流モデルのそれからも一線を画しているように、食事マナーも本当のところ学べないものの一つなのである。そもそも教えたり、選択できないものを階級というのだから、それは当たり前のことなのだ。学歴や年収(ごとき)で変化するものを階級とは言わない。もちろんそんなことはくだらないことだとも言えるが(実際まったくくだらないことだが)、名門私立中学校へ自分の娘を入れようとする新中間層の卑屈に比べれば、はるかに価値あることだ。

 冷泉家を超えて言うとすれば、本当のNobilityとは、従って〈自立〉ということだ。そういったNobilityは、たしかに〈世間〉とはつき合わない。学歴や年収は世間そのものだ。変化しないということの最大の意味は保守性を意味するのではなく、“歴史”や“社会性”を超えることを意味している。それは家族というものの意味でもある。そして「新中間層」が解体させつつあるのは、この家族性というものだ。もともと「新中間層」の私学狙いは、私学の精神自体に反しているのである。

 名門私立中学校の価値は、実は、家族(親)が子供を自由に育てる権利に属している。公立中学校は、むしろ子供は(家族の子供なのではなくて)社会の子供だという立場に立っている。したがって、家系(親の養育権)を守ろうとする親ほど私立中学校へ入れようとする(そのように東大の苅谷剛彦は『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1999)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00030269&volno=0000 でアメリカの社会哲学者フィッシュキンの論文(Liberty & Equal opportunity,1987を借用して述べていた)。これは、一見正しいことのように見える。しかし「新中間層」がここまで膨張するとほとんどこの区分は意味をなさない。むしろ私立中学校は、卑しい新階級(幻想階級)の集まりなのである。90%以上が自らを「中間層(の上)」と見なす日本社会では私立も公立もとうの昔に解体してしまっている。そういったことを一番よく心得ているのは、旧華族だ。たぶん私立中学校の面接官に、冷泉家の子孫をあてがえば、誰ひとりとして合格する家族などいないだろう。

 学歴のみならず、階級さえももはや「世間」や「ブーム」になっているのである。家族が超歴史的、超社会的であるのは、階級さえも「世間」になっている、この事態に対してのことなのである。この時代(ウルトラ民主主義の日本)において、子供を私学に入れるというのは、家族の中に「世間」が侵入している証にすぎない。それは「家族の自立」(フィッシュキン)を意味するのではなくて、逆に家族の解体を意味している。私立中学校は「新中間層」ファミリーの個人主義の中に埋没しているのである。

 こういったときには、学校を選択したことぐらいでは、あるいは名門私立中学へ入れたくらいでは子供を養育したことにはならない。ただ単に「世間」に従って受験勉強をさせただけのことなのだから。親が社会的なものから自立していなければ、子供も自立しない。大人を小さくしたような子供にしかならない。「分別」をもった子供を作ってもしようがないではないか。親が本気で子供を育てようと思ったら、どんな社会的なノイズからも自由でなくてはならない。そもそも自由「である」のが家族なのだから。

 冷泉家も貴族も『斜陽』の和子の母のように滅びるだろう。しかしだからといって、家族は滅びはしない。貴族が存在するからNobilityがあるのではなく、家族があるからNobilityが存在する。家族は「世間」に媚びないNobilityの起源だからだ。階級さえも超えているもの、それが家族のNobilityなのである。

 Hさんの新中学生の娘へ。

「世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、このごろ私にもわかってきました。あなたは、ご存じないのでしょう。だからいつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、女がよい子を生むためです」(『斜陽』http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&bibid=00778723&volno=0000)。


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