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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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そもそも「一度」発生したらという、その「一度」はいつそうなるのかの目処が立たない純粋な?内発?性に拘わっているのだから、ますます当てにならない動機論なのである。意欲が生じた途端に、課題(?やる気?が生じるまで待ったがために積み残した課題)は膨大に溜まっていてふたたび学生は挫折してしまう。つまり内発動機を尊重すればするほど、いつも同伴しないと勉強しない学生(親切で楽しい(●●●●●●)教員の同伴の時間を期待する学生)を再生産することになる。ますます本来の内発性(授業時間内で発生する学習意欲)から学生を遠ざけることになる。これをくり返すのが動機主義教育の矛盾である。教室時間割教育が嫌いでゼミ的な同伴好きの教員は、結局は個人の実情(●●)に応じて目標を下げるしかないことになり、試験調整(●●)に走る。

動機を尊重する教育は、「はじめが大切」と言いながら、いつも終わり(目標=カリキュラム)の見えない教育をやる※。最後には「学生が満足していればいい」という心理主義に終わる。しかし「満足度」が満点の授業でも学生が何一つ理解出来ていない授業(objectに達していない授業)はいくらでもある。カリキュラム(目標)の否定という意味では、この種の心理主義は、目標の曖昧な演習=卒論大好き教員の特徴でもある。
※学習動機論は、臨教審以降の「関心・意欲・態度」を期末試験の点数と切り離して考える思考と同根。科目教育と切り離された学力論とも相補的。「俗流」心理主義者の「俗流」動機論が国家施策にまで展開されたため、市川伸一が反省したときにはもはや遅かったのだ。苅谷剛彦はこの局面での内発動機論について以下のように言う。
「人びとが何かを行おうとするとき、その動機がどれだけ心の内側から発するものか。教育心理学の用語を使えば、『内発的に動機づけられているか』どうかによって、私たちの社会はその行為を価値づけることに慣れ親しんできた。強制や慣習に従うよりも、自発性が尊ばれる。金儲けや権力・名声の獲得といった、自分の外側にある目標をめざして行動するよりも、自分自身の興味・関心に従った行動のほうを望ましいと見る。個性を尊重する社会では、自分の内側の奥底にある『何か』のほうが、外側にある基準よりも、行動の指針として尊ばれるのである。個性尊重とセットになって語られることの多い自己実現も、自分の内側の『何か』が満たされた (to fulfill) 状態である。個性の尊重とは、このような自己の内側にある『何か』を大切にする考え方にほかならない。個性の尊重と個人の自立を求める私たちの社会は、ますます個人の心の内なる声に価値を置こうとしている。
このように、私たちの社会を突き動かすルールの源泉に、教育心理学の提供する人間の行動モデルや学習モデルがある。その影響の一端は、子どもたちにとって意味のある学習を求める昨今の教育界に深く広く浸透している。

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