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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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※「2040年に向けた高等教育のグランドデザイン」(2018年)においては、ふたたび「多様性と柔軟性の確保」となり、個人主義的な多様性論(履修主義)に立ち戻っている。この答申は「多様性」という言葉がインフレするほどの答申。多様性論は、中曽根臨教審から始まる個人主義(教育心理学者が好きな〈学びの主体論〉)と学校民営化論にその根を持っており、文科省はほぼ10年置きに、〈標準性〉論と〈多様性〉論との間を揺れ動いている。この動揺は、学校派と生涯学習派の対立を意味している(『臨教審の軌跡』内田健三)。そして生涯学習派の本質は、学校教育民営化論である。

?拡張された学力概念の害悪(2) ― 内発的な動機論は、カリキュラムと試験を形骸化する

拡張された学力概念としての文科省「生きる力」(1996年)、内閣府「人間力」(2003年)、OECD-PISA 「キー・コンピテンシー」(2003年)、厚労省「就職基礎能力」(2004年)、経産省「社会人基礎力」(2006年)と並行して前面化したのが、学校現場における内発的な動機論(やる気論)だ。目標が抽象的になれば、それに取り組む教員の学生を見る目も抽象的になる。専門的な勉強をする前に、まずやる気を起こさせないと、というもの。試験調整(●●)のきっかけもそこに発している場合が多い。

一年生の前期くらいは少しは採点を甘くして合格点を付けてやり(「やればできる」という自信を付けてやり)、?その後で?本格的な教育に取り組むという動機主義がそれだ。90分の一授業内でも、余談や時事ネタを適度に入れて(笑いを取って、教員も笑顔で)その後にコアの内容に進むというのも同じ類の考え方。これも「俗流」心理学者の考え方。しかし、この考え方の間違いは明白だ。

この種のやり方は、どこまでが導入過程で、どこからが真剣にやるプロセスなのかの判断(境界)が曖昧になり、その分教員と学生との個人的な関係が前面化するため、カリキュラム教育に馴染まないということ。その上、本気を出すのが、90分の授業時間中のどこからなのか、一科目の中のどこのコマからか、科目の外での補講からか、次の科目からか、後期の科目からか、それとも2年次からかなどなどの時期決定(境界)は、すでにそれ自体がカリキュラムの外に追い出された、まさにその意味で教員の個人的な決意(あるいは善意)にとどまるため、最後の目標(期限を切った目標) ― 卒論のみならず、期単位の(試験調整(●●)なしの)期末試験目標も含めて ― は、最初から宙に浮くことになる。積み上げの結果の期末試験の水準、積み上げの結果の卒論の水準が、すでに様々な動機論で相対化されるため、結局は目標の存在は棚上げされてしまう。

学校教育における相対論(個人論)の原則は、60点(最低合格点)〜100点(最高合格点)の間の相対論(クラス標準偏差)であるにも拘わらず、試験調整(●●)主義において、一気に個人丸出しの個人主義(心理主義)に堕してしまう。学校教育の基本単位はクラス(=教室)であるにも拘わらず。「勉強が得意な子どももいる、不得意な子どももいる」と(評論家のようにではなく)教育する側が言えるとすれば(●●●●●●●●●●●●●)、60点〜100点の分散の多様性以外に、その「多様」はない。〈学校〉は、個人指導のような家庭教師の場処ではない。

たとえば、国家資格試験などの第三者試験 ― 期限が客観的に存在している目標 ― が存在している学科であれば、導入教育(動機教育)は、長期に渡れば渡るほど、積み残しの課題(教育・学習課題)が多くなり、ますます動機の敷居が高くなり結局目標倒れの体制になる。不合格者が大量に出ることになる。言い換えれば、長い助走で動機を待っていると、ますます高い動機を形成しなくてはいけない大量の課題を抱え込むことになる。これが動機主義の矛盾である。

もちろん、「内発的動機」が一度発生すれば、強制的に「やれ」と言わなくてもやるようになり、もろもろの生産性や能率は高くなるから、一概に「矛盾」ではないのでは、という反問も起こりそうだが、時間割教育(時間を限った集団教育)の中の科目の目的は、そもそもが(学生一人一人の)時間外学修への誘導(予・復習への誘導)のためにあるのだから、矛盾であることに変わりはない。どんな教育も先生(指導者)から離れたときの学生の行動(ビヘイビア)(しかも知的・専門的行動)をコントロールするためにあるのだから、動機と科目の授業時間(授業の目的そのもの)とを分離すると支離滅裂な理論になる。

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