モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >

※「調整」という言葉の意味については、この論考の中盤(「杜撰な大学の杜撰な試験 ― あるいは、終わりのない動機論の杜撰さについて」以降詳論する。

しかしこれらの拡張された学力概念であってさえ、「知識・スキル」の基盤の上で花咲くもの、と文科省は何度も喚起している。それが証拠に、〈学力〉をどんなに拡張したところで「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協働性」などという科目は存在しないからだ。そもそもそんな「科目」を誰が何の名目の下に担当できるというのだろうか。大人であっても研究者であっても、そういった拡張された学力概念(ハイパー・メリトクラシー)を体現している人など滅多にいない。だからこそ、そんな名称の科目は存在し得ないのだ。馳文科大臣(第20代文部科学大臣)が、インビジブルな拡大学力論を危惧して、これらの拡大概念は「教科・科目活動を通じて育成するもの」と注釈を加えたのは実に正しい判断だった。

文科省は2000年代に入って、拡大学力施策を一時反省し、中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」(2008年)において「多様性と標準性との調和」と言う。それを受けて2010年代以降「学修成果の可視化」=「学修成果の評価(アセスメント)」という言い方をし始めた。馳文科大臣の発言も、2008年の学士課程答申(「学士課程教育の構築に向けて」)、2012年の「質的転換」答申(「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」)の流れのことだった。学力概念を拡大すればするほど、具体的な科目目標(日々の授業目標)は後景に退き、試験調整(●●)動機は高まる。皮肉なことに、科目を、そのように粗雑に扱えば扱うほど、主体性も多様性も花咲く機会を失う。

入学時の学力格差はあるにしても ― つまり底辺大学では、学生選抜していると経営的に持たない事情はあるにしても ― 、その受け入れ後、学生をどう伸ばしたかという入学後の教育成果の評価が必要というのが、「学修成果の可視化」という言葉の意味だった。それは拡張された学力概念の反省の下に始まったものであって、〈標準性〉とは入学時の学力格差を入学後の学力向上によって相対化すべきだという思想のキーワードだったのである※。

< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >


コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
TOPへ戻る