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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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小方直幸(当時は広島大学)の『専門学校教育と卒業生のキャリアに関する調査』も ─ この調査には私も関わったが ─ 次のように言っている。「職業教育でよく『即戦力』という言葉が使われますが、『即戦力』というのは基本的に『ウソ』ではないかと思います。20歳〜22歳あたりで即戦力だなんて、あり得ないだろうと感じています。悪く言えば、すぐ使えるけれども、それは業務が高度化していないのでその程度の力でも対応できてしまうといった意味で『即戦力』という言葉が使われている場合も多いのではないでしょうか?」(「『専門学校教育と卒業生のキャリアに関する調査』から見えてきた課題」)。〈人材〉とは、長い時間をかけて育てるもの。新卒即戦力論は、結果的には「使い捨て人材」を意味しているに過ぎない。
※これに、「理性の自律」という観点から反旗を翻したのは ― 広くはフンボルト(ドイツロマン主義)にも影響を与えることになる ― 、ルソーとフランス革命に影響を受けたカント(『諸学部の争い』)だったが、詳しくは拙著『シラバス論』53頁以下、および坂部恵『理性の不安』を参照のこと。

アルバイト経験やボランティア経験の話が活きるのは、高偏差値担保の結果に過ぎない。?三流?大学の学生を迎える採用担当者が〈人物〉を口にするのは、勉強する癖が付いていないのなら「せめて性格のいい子が欲しい」「せめてボランティア活動くらいは」という?せめても?要求に他ならない。マナー教育なども同様のもの。誰が東大や早稲田の大学生にマナー教育を行うというのか。もちろん?一流??三流?という既存の秩序 ― ある種の差別 ― を超えて、伸びる学生は伸びるが、それは、個人論、人物論でしかない。

つまり「人物」論は、反カリキュラム、反教育の徴表に他ならない。採用担当者が採用理由を「人物」だと答える企業(?一流?企業であれ、?三流?企業であれ)の採用は、いつまでたっても継続的に拡大しない。その(●●)大学の教育がその(●●)人物を作ったとは考えていないからである。

もしその関心が少しでもあれば、担当者は、個人としての人物よりはその(●●)大学(の教育)に関心をもって、むしろ大学の就職支援室や教学部門(学部長・学科長)を訪れるに違いない。「優秀な学生が欲しい」と。もはやこの「優秀な」は、脱人物 ― 「せめて」性格がいい子としての「人物」を超えているという点で ― なのである。どんな教育やどんなカリキュラムやどんな科目が、この(●●)学生を作ったのか、それが教育の組織性の意味なのだから。こんな学生を作ることのできる大学なら、この大学からもっと学生を取りたいと思うのは、企業の自然だ。この段階では、企業は個人的な人物評価を捨てて、その大学の教育を信頼しているのである。

言うまでもなく、この場合の「組織的な」成果とは、大学を含めた〈学校〉が学校の方針やリーダーシップを体現する成果のことであって、個人的で多様な成果はどこの大学でもどこの専門学校でも、いくらでも存在している。その意味での?教育?や?学習?はそこかしこに存在している。放っておいても、子どもたちは学び続けている(いい意味でも悪い意味でも)。

〈多様〉論の〈学校〉の認識は「できる子はできる子なりに、できない子はできない子なりに」という?多様性?の認識になる。この?多様性?を一旦認めると、組織としての個性(マーケット競争性の実質的な鍵を握るもの)は後方へ消え去り、社会的には偏差値の担保が前面化するだけのことになる。街をただ歩くだけでも学ぶことはいくらでもあるのだから、「できるなりに」「できないなりに」は、この個人の学び ―「教育改革における疑わしき個人モデル」(苅谷剛彦)― に学生たちをふたたび放置することになる※。つまり多様論と個人論(個性論)では、偏差値格差を跳ね返すことはできない。「組織的」とは偏差値(ブランドと高偏差値大学)の反対語である。多様論はぐるっと一周して?できない?学生を差別しているのである。
※個人モデルの代表格のような教育心理学者・市川伸一は、苅谷剛彦との対談で(特に苅谷に指摘された心理学者、教育心理学者の「俗流」性について)以下のような興味深い発言をしている。
【苅谷剛彦】新しい学力観の時の文部省の解説書を見たって、その時の考え方の中に、どれだけ教育心理学的な「学習モデル」が入っているかは、これも探していけば容易にピックアップできる。それぞれの審議会にどんな教育心理学者がいたかは知らないけれども、しかし、少なくとも教育心理学者の書いたものを読んで発言した人がいたことはたぶん間違いないし、文部省の担当の行政官の中にも、その影響を受けた人がいた可能性はありますよね。

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