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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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大学教員は、「教育」と言えば、学生との熱心な(●●●)(個人主義的な)接触をイメージする。上(成績)の学生についても、下(成績)の学生についても、教室外、授業外の接触の?熱心?さを〈教育〉と勘違いしている教員も多い。こういう指導の熱心さを見ていると、大学の教員の授業そのものは、いい意味でも悪い意味でもこの種の個人指導を経由する学生フィルター装置(修士院生作りのため)のようなものなのだと思う。これが、?卒論ゼミだけが命?という古典的な、講座主義の大学論である。その種の卒論主義の本質は学生選別主義的な「終わり良ければすべてよし」の反カリキュラム主義、反「組織」主義教育でしかない。その実態は、終わりも始まりもない(何も始まらないし何も終わらない)。それは内発的な動機主義が始まりも終わりもしないのと並行した事態だ。

縮まりそうもない標準偏差20以上の授業をやり続けることによってクラス内に?二級国民?を作り、後は試験調整(●●)込みの個人指導(=動機指導)に逃げるという体質が、未だに普通の(●●●)大学教員の体質だ。まるで大学院のゼミ指導のように学生を囲い込みたがる。科目クラスなどもとから眼中にない。

?結語 ― 諸悪の根元としての試験の私物化について

教員が試験調整(●●)するということは、教員の単位認定権(成績評価権)にからんでいる。「…大学教員が成績評価を行う権利又は利益は」、「大学における教授の自由」との関連で議論がある。これについては、大阪高裁の平成28年の判例(結審)がある。学生の「単位を認めない」担当教員の成績判定について「卒業させる方向での」修正を学部長が求めたものだ(いずれも『判例時報』平成29年8月21号)。

「…大学教員が成績評価を行う権利又は利益は、大学における教授の自由と密接な関係を有するが、成績評価を行うことが専門の研究結果を教授することの不可欠な内容をなすとまではいえず、教授に伴って付随的に生じるものであるから、教授の自由とは保障の程度が異なるとし、他方、学校法人は学生との在学契約上、適切な教育を行う義務を負い、組織体として自主的な秩序維持の権能も認められる必要がある…」(同前)。

 「教授の自由」という点で授業の凸凹はあるにしても、単位認定の凸凹に関しては、「組織体として自主的な秩序維持の権能」を働かせることが重要であること、「学生に対し、安心できる就学環境を与え、教育を提供する義務を(学校法人は)負っている」ということ、「成績評価権は、教授の自由から当然に導き出されるものではなく、憲法上保証された権利ではない」(同前)ということがこの判決の趣旨である。

また、「成績評価権は、教育の自由から派生したものではあるが、学部の有する単位認定権限や秩序維持権限などによって合理的な制約を受けるものであって、学部長の要請に違法性はないとした判例(東京高裁平成2年)」(同前)も存在している。

「成績評価権」「単位認定権」などと硬質なことを言わなくても、教員の成績評価に関わる尺度が科目毎にまちまちだとしたらどうだろうか。単位認定権を振りかざす教員からは「多様な教員がいてもいいではないか」という声も聞こえてきそうだが、それは、一つ一つの科目を順次的に積み上げて履修を全うする学生からすれば、とんでもない多様性だ。その多様性はカオスに過ぎない。

なぜか。単位認定に関わる履修の難易度は、学生の学習ペースを形成するものだからだ。学生や保護者の立場からすれば、成績評価の水準が教員や科目によってまちまちな現状はたまったものではないだろう。それは、学生の日常の学習ペースをかき乱すものでしかない。これこそが学生たちの?内発的動機(やる気)?を阻害しているのである。

試験に合格するのも落第するのも?運の問題?にまで落ち込んでいるわけだ。この問題はGPAの標準化にかかわっているが、この標準化はどこの大学にとっても、単位認定権(厳しくも易しくも教員が個々に振りかざす単位認定)と試験調整(●●)(ふしだらに合格してしまう試験調整(●●))との壁に阻まれて手付かずのままになっているのである。

教員による履修判定の難易度の凸凹が許されるとすれば、それはカリキュラム上の難易度であって、教員人物論(教員個性論、教員多様性論)的な凸凹であるはずもない。

カリキュラム論からすれば、〈科目〉は、カリキュラム上の?部品?に過ぎない。その点でも科目は教員個人の「教授の自由」に属しているものではない。したがって、学生の学習ペースも個人的なものではない。学生は、カリキュラム・ポリシーの下で、カリキュラムによる学習ペースを1年次前期から4年次の卒業研究に向かって形成していくのである。

「GPAの標準化」という課題は、単なる難易度の標準化(=平板化)ではなくて、カリキュラムにおける科目の位置付けという課題から取り組む課題だと言える。

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