モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >

このパワポ問題の本質は、「丁寧な」授業をやろう、「わかる」授業をやろうという意味ではない。このような状態が全国の大学で蔓延し慢性化しているのは、教員が怠惰なわけではなく、授業の目標が明確でないからだけのこと。「わかる」授業に教員が関心を持たないまま講演のような授業をやり続けるのは、〈目標〉がないからなのである。

普通、それはシラバスに書かれている、試験に表れていると思われているが、シラバスと試験との間にも大きな乖離がある場合も多い。また〈試験〉と言っても先述したとおり試験調整(●●)の問題も残っている。その意味で言えば、この科目は何を教える授業なのか、何を学べる授業なのかを「客観的に」、あるいは「narrativeに」示す資料が大学には何も存在していないのだ。

シラバスを何万字書いても、試験指標をどんなに詳細化しても、大学や教員のミッションとしての教育目標は、現在の大学では闇の中だ。それは教員の?心の中?にあると言えばいいのだろうか。しかし?心の中?にあるだけでは教育にならないだけではなく、特にディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシーとの関係も見えない。カリキュラム・ポリシーという点では、他科目との接合のnarrativeな関係が必要になるからだ。しかし一つの科目の中においてさえ目標が曖昧なままでは、カリキュラム体系は科目配置にとどまる。カリキュラムもまた科目名止まりの?箇条書き?に終わっていると言わざるを得ない。

この種の杜撰さが放置されるのは、この科目で少なくとも60点が取れる程度の標準性 ― 少なくともこの程度のことは単位認定の基準にしたいという標準性 ― が何であるのかが明らかになっていないこと、また明らかになっているとしてもその遂行性が担保されていないことに関わっている。計画は「単に」計画に過ぎないとでも言うのだろうか。これはしかし、計画(目標)はあるが実際にはできていないということではなくて、できているのか、できていないのかさえわからないため、先述したとおり「落伍者数」だけがひとり歩きし、あとは目をつむるという状態が大学教務の実態になっているということだ。

このような複雑な(●●●)話になるのも、計画とその遂行との結節点である〈試験〉(単位認定試験)が試験調整(●●)によって曖昧なままだからだ。〈試験〉を念頭に置かない授業のアンケートをいくら重ねても授業評価はできない。〈試験〉を念頭に置かないシラバスや小テストも評価の対象にならない。よい(●●)授業はよい(●●)試験の結果に過ぎないのだが、試験体制を棚に上げてしまえば、シラバスの詳細化も小テストの日常的な実施も無駄になるのは明らかなこと。逆に言えば、厳密で厳格な試験を実施する体制が確保できれば、教員は?上から?何も言われなくても、シラバスを詳細化する意義、小テストを実施する意義を理解するに違いない。

シラバスを詳細化したり、小テストを詳細化したりする意味は、それらを見れば、〈試験〉(単位認定試験)がどんなものになるか、学生のみならず?第三者?が分析・評価できる状態を作ることと同義だ。ここにこそ、シラバス詳細化の意義がある。つまりそれは〈試験〉の客観性(履修判定の客観性、および目標評価の客観性)を担保するためにこそ存在している。詳細シラバスが無意味であること、そして毎回の小テストが無意味であることを訴える教員は、「試験調整(●●)を私はやります」と宣言しているようなものだ。

よい(●●)授業=よい(●●)試験の結果というこの体制ができあがれば、(とりあえずは)落伍者数から分析を始めればいいことになる。現状は、落伍者が多いからダメな授業、落伍者ゼロだからよい授業とは言えない状態が続いている。落伍者ゼロの授業の方がずっとたちが悪い(●●●●●)場合も多い。だからシラバスも小テストによる吟味(教育評価)も、いくら改善(●●)を重ねても宙に浮くことになる。試験調整(●●)が自分の手中にあるという前提は目標を棚上げにすることを意味するため、目標のない授業をやることと同じことを意味する。自分で作ったシラバスや小テストの点数さえ気にする必要がなくなる。自己管理ができないのであれば、試験を第三者化するしかないわけだ。それがシラバスや小テストが実質化するいちばんの近道かもしれない。シラバス研修、授業法研修、アセスメント・ポリシー研修などを重ねるくらいなら、学内に期末試験センターを開設した方が、はるかに「働き方改革」になる。

?試験調整(●●)を放置する最後の砦としてのメンター主義(担任主義)と卒論ゼミ主義

試験調整(●●)の動機は、できない学生を救済しないと留年者だらけになる、退学者だらけになるというものだが ― またその動機こそが、「わからない」ままの授業が継続する原因を作り出しているわけだが ― 、それを裏面で支えているのがメンター主義(担任主義)だ。

メンター主義とは、学生との、科目授業を超えた個人的な交流(コミュニケーション)を密にすること、個人的な苦情や不満や不安に?寄り添うこと?、そのことによって留年、休学、退学を減らすことができる(さらには教育促進が図れる)という思想である。

< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >


コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
TOPへ戻る