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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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最近知った話だが、アマゾンでも、会議資料はパワポ禁止らしい。その理由は箇条書きの行間の意味の曖昧さ、解釈の多様性による理解のズレの問題とともに、箇条書きによる「やっつけ仕事」傾向にある。佐藤将之はその間の事情を次のように説明している。「文章の資料を何枚も書くのは骨の折れる作業ですが、パワーポイントによる箇条書きの資料は、比較的容易にすぐ作れます。枚数を気にせず思いついたことをスライドに列挙していき、会議当日は適当に飛ばしながら口頭で説明することも可能です。いわば 『やっつけ仕事』での資料作成が可能なのです。しかしきちんとした文章にするとなると、読んだときに辻褄が合わない部分が出て来ないように、最初から整合性をとらなくてはなりません。そのため、吟味に吟味を重ね、適切な情報を用いて推敲を重ねなければなりません。エッセンスだけを凝縮して、それを文章にまとめようとすると、必然的に何回も書き直しをしなくてはならなくなります。おそらくベゾスは、そのようにじっくり検討して推敲するプロセスも期待して、この会議の資料作りのルール(パワポ禁止)を考えたのだと思います」(佐藤将之『アマゾンのすごい会議』)。

発表者と聴取者との能力がそれほど違わない会社組織のプレゼンでさえ、パワポを使うと?ズレ?が生じているのだから、専門的な研究者である大学教員と専門的には何も知らない学生との間でのやりとりにパワポを使うことがいかに危険なことであるかよくわかる。授業は、支持者のたくさん集まる講演プレゼンではないのだから。

その上、教員は、90分の一授業当たり文字にするとなんと20,000字〜25,000字話している。昔風に言うと400字詰め原稿用紙50枚以上の内容を、教員は消えゆくトークで語っている。それに対してパワポの箇条書きの文字数(書字数)は多くても2,000字前後だろう。そもそも文字数(書字数)の多いパワポほど、パワポプレゼンとしてはできの悪いプレゼンとされているのだから、2,000字もないかもしれない。学生は20,000字の内容をその10分の一にもならない文字数(書字)で推論(●●)しなければならない。

90分×15回にわたる2単位「講義」科目であれば、学生は400字詰め原稿用紙750枚もの文字数で語られる内容を?経験?することになる。これは博士論文二本くらいになるだろうか。さらに厳密に言えば、講義「2単位」というのは、一般的には90分一回一回の「講義」前後の予習と復習、それぞれ90分の自己学習を前提するため(大学設置基準に基づいて)、90分×45回の時間量を充たす必要がある。その意味では「講義」2単位科目というのは、単なる一科目に過ぎないと言えばそうだが、実際はかなりの内容を伝授(●●)できる機会でもある。

しかし時間に追われるトークで消え去って、手許には解釈のズレを内包した「・」パワポの箇条書きしか残らないとすれば、「講義」前後の予習や復習に学生はどう備えればいいのか、皆目見当が付かないことになる。授業中でさえ、聞き逃すこと、見逃すこと(参照箇所の見逃し)の多いパワポ?語り?状態で、授業外の自己学習(予習・復習)を喚起することなどほとんど不可能だ。

このことが深刻さを増すのは、先述したとおり、大学の授業では参考書が存在しないということである。参考文献、参照文献というものはあるにしても、先述したように高校の授業のような、教科書に準じた内容を持つ参考書は存在しない。もちろん塾も予備校も無い。パワポ?語り?の不備を補う第三者は何一つない状態で、学生は放置されることになる。

そもそも、大学における「参考文献」、「参照文献」と授業の90分(あるいは科目の全体)との間には千里の径庭がある。パワポの不備は、特に大学においては教員が埋める以外にはない。「参考文献」、「参照文献」とパワポの箇条書きとの間を埋めることさえ、大部の「narrative形式」(アマゾン) ― アマゾンがここで言うnarrativeとは、書字の反対語としての「語り」の意味ではなく、あくまでも「箇条書き」の反対語としてのnarrative、つまり箇条書きの行間を埋める?連続的な記述?という意味 ― が必要になる。

現状の大学のシラバスでは、全15回全体(一科目全体)の「参考文献」、「参照文献」がシラバスの最後に(あるいは最初に)記載されている場合がほとんどであって、学生が予習や復習をしようと思ってもとりつく島のない状態になっている。本来は授業回毎に「参考文献」、「参照文献」は指示されるべきなのに。授業回を超えて指示されている「参考文献」、「参照文献」 ― 教員さえまともに読み込めているかどうかわからないほどの「参考文献」、「参照文献」 ― とパワポ箇条書き授業(この授業回(●●●●●)の箇条書き)との間をnarrativeな教材なしに埋めることができる学生が存在するとすれば、それはもはやその授業を聴く必要もないくらいの卓越した学生だ。

?再論・授業改善はどうでもいい

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