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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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三つのポリシー(アドミッション・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシー)など書いた本人さえ忘れているような状況を文科省も認めて、今度は「アセスメント・ポリシー」なしには3Pは意味をなさないという認識が「学修成果の可視化」=「学修成果の評価(アセスメント)」という言葉だった。そして、この「学修成果の可視化」=「学修成果の評価(アセスメント)」の具体化の核心が「組織的」という言葉だった。「学修成果の可視化」の組織性こそが、?弱い?個人 ― そもそも学生というのは、?弱い?ものだが ― を〈カリキュラム〉で育てることの意味だったのである。「多様な学生」教育と〈カリキュラム〉教育とはほぼ同義だ。

私の知る限り、「学修成果の可視化」=「学修成果の評価(アセスメント)」という言葉が文科省の文書に最初に出てきたのは、先にも触れた2012年の「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」答申。「成熟社会において学生に求められる能力をどのようなプログラムで育成するか(学位授与の方針)を明示し、その方針に従ったプログラム全体の中で個々の授業科目は能力育成のどの部分を担うかを担当教員が認識し、他の授業科目と連携し関連し合いながら組織的に教育を展開すること、その成果をプログラム共通の考え方や尺度(「アセスメント・ポリシー」)に則って評価し、その結果をプログラムの改善・進化につなげるという改革サイクルが回る構造を定着させることが必要である。また、学位授与の方針に基づいて、個々の学生の学修成果とともに、教員が組織的な教育に参画しこれに貢献することや、プログラム自体の評価を行うという一貫性・体系性の確立が重要である」というものだ。

これこそが、入口の偏差値主義(?一流?大学主義)を超えて、入学後の四年間の「一貫性・体系性」の教育競争(全入大学の生き残り競争)、つまり「組織的な」教育競争を行いなさいということの意味である。個々の学生の学修成果、言い換えれば個人主義的な成果の評価だけではなく、その成果と組織的な取り組み(特にカリキュラム・ポリシー、ディプロマ・ポリシー)との関係のPDCAサイクルを回すことが「アセスメント・ポリシー」という言葉の意味になる。「一貫性・体系性」の教育とは、したがって教育の論理性・合理性というよりは、入学すれば誰もがここ(●●)(教育目標)までは行けるという〈標準性〉を示している※。この〈標準性〉の反対語は、〈多様性〉ではなくて、入学時の偏差値格差のことを意味する。入学後の学生の〈標準性〉を示せない大学は、大学の偏差値格差を相対化できないのだ。個人的な学生(多様な(●●●)学生)の成果、個人的な教員(多様な(●●●)教員)の成果は、その無力を覆い隠すように機能してきた。?熱心な?教員がいればいるほど、「組織」性は薄れる。?熱心な?教員の成果は成果の継続的な拡大をかえって阻害するのである。

特に地方の小規模・低偏差値大学は、受験勉強に代わる、そして受験勉強を超える内実を持つような入学後の四年間の教育を実質化するしかない。このような実質化を文科省は「学修成果の可視化」と呼んだわけだ。
※この?ここ(教育目標)まで行ける?というのは、何も?できない?学生の下限目標にとどまるものではない。この種の議論は、いつも?できない?大学、つまり「教育の大学」の「標準性」の ― 代表的なものであれば専門学校の資格主義のような ― 目標設定と誤解されがちだが、それは全くの間違い。この種の組織的な標準性を踏まえたカリキュラム作りができれば、?できない?学生、?できる?学生ともどもの標準性が見えてくる。標準性とは、できる高低を標準化する(●●●●●●●●●●●)ということである。低さの標準性があるのなら、高さの標準性も存在している。たとえばより基本的なテクニカルタームを?できない?学生のすべてが(●●●●)知っている。たとえばより高度なテクニカルタームを?できる?学生のすべてが(●●●●)知っているというように。取りたてて称揚される?できる?学生の成長や成果を個人主義化しないことが、カリキュラム教育の成果でもあるように教育を組織すること、それがカリキュラムによる教育だったのだから。

?杜撰な大学の杜撰な試験 ― あるいは、終わりのない動機論の杜撰さについて

しかし、実際は「学修成果の可視化」とはほど遠い事態を辿っている。二つの担保(ブランドと偏差値)がない地方の小規模、低偏差値大学も?素?の学生を?個性的に?再認するばかりの「多様な」大学を目指し、解体寸前である。

だから、偏差値と退学率とは相関している。東大の退学率は1%を切り※、低偏差値大学の退学率は優に20%を超えている。教育の内実が仮にゼロであっても、東大や?一流?私大なら卒業するだけで価値があるかもしれないが、偏差値の低い大学は、内実がゼロなら何も残らないからである。退学するのも個性(多様な生き様)ということになる。ぐるっと一周して個性がインフレするだけのことだ。

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