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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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※「強い個人」の「強い」が経済学者の金子から出てきたのは偶然なことではない。私の考えでは、中曽根臨教審以降(85年以降)の消費社会の成熟に関わって、子どもまでも「消費」の主体とみなすことが「強い個人」の台頭の歴史的な意義だ。子どもマーケットの誕生が、「学ぶ主体」の起源であって、それは「強い」「弱い」の軸ではなくて、子どもの財布が駄菓子屋のお小遣いを超えて広がったことに由来する(今ではそれがスマートフォンの子ども利用にまで広がっている)。〈消費者〉として、子どもは?おとな化?したのである。80年代後半以降の学校下の子どもたちの様子を「オレ様化する子どもたち」と指摘したのは諏訪哲二だった(『オレ様化する子どもたち』)。学校教育=生涯学習という同一視(臨教審)も、生涯学び続ける人間と言うよりも、生涯にわたる消費者である人間という消費者概念の拡張に起源を有している。患者(病院)や学生(学校)が?お客さま?扱いされるのも「オレ様化」現象のひとつ。その意味では「多様性」も学力概念というよりは、学生=消費者扱いの結果に過ぎない。そのように〈知識〉もインターネットによる〈検索〉の対象として消費される。もはや学校教育よりも豊かな情報を与えられているかのように。学校教育=図書館の意味が軽薄になる分、学校教育の意義も軽薄化される。カラーバス効果とフィルターバブルの相乗効果のような情報化が進めば進むほど、知見はどんどん狭くなる。「見たいものを見て何が悪い」というのは高齢者のアタラクシアのようなものだが、若年者でこういったことが起こると、内面ばかりが肥大して自己存在は不安定になり、逆に他者への承認要求は過度に高くなる。ツイッターの炎上現象も、承認要求が過度に高い?お仲間?ばかりが集って炎上しているだけのこと。だから小さな意見が大きく見える。知見が広がらないために脊髄反射のような、抑制の効かない応酬になる。反学校教育としての「オレ様化」の進行は、SNSによってもっと大衆化したと言える。Twitterのおける?短い時間(140文字)?のやりとりは、知性の有無を超えたオレ様化を呼んだ(詳しくは拙著『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』第九章「ツイッター微分論」を参照のこと)。政治概念としての「反知性主義」(ホーフスタッター)には一定の意味があるが、反学校主義としての反知性主義(知識の消費主義)にはまだまだ大きな課題が存在している。いったいWikipedia情報の真偽の評価をだれがどんな教育の下に行えるようになるのか。たとえ、下手な科目教育や下手な大学教育や下手な大学教授の解説よりもはるかにまともなWikipedia項目の記述があるにしても、そのことを含めて、それを評価する主体を誰が教育するのか。大量の情報が簡単に手に入れば入るほど、真偽の分別も難しくなる。メタ真偽サイト自体が間違っていたりもする。学校無用論者が高学歴、高大学歴者であることを忘れてはいけない(ホリエモン、茂木健一郎、成田悠輔、古くは香山健一など)。インターネットを(「たとえ田舎にいても」と言いながら)使いこなしている者たち自身が、「強い個人」なのである。ましてやアクティブ・ラーニングの先にその答えは見出せない。

コロナで学校に通えなくなっても、?強い?家族は、塾や家庭教師によって、あるいは充実したIT環境によって、あるいは高学歴な親の教養によって?弱い?子どもを守れたが、?弱い?家族は、?弱い?子どもたち(「児童」「生徒」「学生」)を、そのまま放置することになる。この子どもたちに「子どもは多様、教育も多様」「勉強する気のない子どもに無理矢理勉強させるのはかわいそう」「やる気のないやつは立ち去れ」などなどと(本気で)言ってしまうと〈学校教育〉の意義は半分以上なくなるわけだ。コロナ禍で学校に通えない時間が長く続いた最大の犠牲者は、貧困家庭、あるいは文化的な貧困家庭の子どもたちだった。だからこの子どもたちは、家庭の貧困に加えて、この種の教員の貧困、授業の貧困、学校教育の貧困に過敏に反応する。

つまり多様論と個性論とで露呈するのは、〈個人〉ではなくて〈階層〉に過ぎない。文化的な家庭(諸々の意味で?裕福な?家庭)は、それ自体が学校機能を有しているが ― 今日的な〈教育education〉とはその古層の意味としては〈産育〉のことであって(寺崎弘昭)、ギリシャ語のオイコス(ο?κο?)に基づいた家政学のことを意味した(詳しくは拙著『シラバス論』273ページ以降参照のこと) ― 、?弱い?家庭の?弱い?子どもは、学校自体が子どもを守らないと社会的に自立できる子どもにならない。〈学校〉は、元来、親(家庭=階層)をあてにできない?弱い?子どものためにある。東京の名門私立の家庭は、教員よりも大学歴の高い親で構成されているのだから。

2008年(「学士課程」答申)〜2012年(「質的転換」答申)、そして馳文科大臣(2015年就任)とその「教科活動」重視発言の流れは、その意味で言えば、「学校派」― 「生涯学習派」に対する ― の台頭だったのである。内閣改造で、馳さんが悔し涙を出していたのが印象的だった。

?反多様性論としての「学修成果の可視化」について ― 低さの標準性、高さの標準性

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