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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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※アーレントは、「近代心理学の影響とプラグマティズムの教義のもとで、教育学は教授法一般の科学となってしまい、本来学ばれるべき内容から完全に遊離してしまった」と指摘している(『過去と未来の間』)。アーレントは続ける。この事態は「(……)教師が自分の専門科目に習熟する努めを目に余るほど蔑ろにする結果を生み出している。教師は自分の専門科目を知る必要がないため、授業の始まる一時間ほど前に知識を詰め込むことなどめずらしくもない。このことは翻って、生徒(student)は実際には放置されていることを意味するだけでなく、教師の権威の最も正統な源となっているもの ― つまり教師とはどんな方面であれ生徒よりも知識があり、生徒自身が為しうる以上のことができる者である ― がすでに効力を喪失していることを意味する」(『過去と未来の間』)。『過去と未来の間』の中の「教育の危機」というアーレントの論文はそれほどできのいいものではないが、この危機感は共有できる。アーレントは言う。「第一に、学校の機能は子どもに世界がどのようなものであるかを教えることであって、生きる技法を指導することではない。世界は先在するものであり、子どもにとってつねに所与として存在する以上、いかに生が現在に関わるものであっても、学習は過去に向かわざるを得ないからである。第二に、子どもと大人の間の線引きは、誰も大人を教育できないし、子どもを大人のように扱うこともできないことを意味するだろう」。アーレントの言う「過去」については、注釈が必要だ。彼女の言う「過去」は、教育における「権威」 ― この場合の「権威」は、アーレントにとって「子どもの安全な隠れ場所」を確保するための「権威」である ― に関わっている。「生ける者がもつ権威は常に本源からの派生によるもの(……)、つまりもはや生ける者の間から去った創設者たちの権威に基づくものであった」(同前「権威とは何か」)のである。彼女からすれば、「子どもの世界」などというものなどあるはずもなく、子どもは〈世界〉と〈生きる技法〉との間に存在するものなのだ。そもそもアーレントこそが、アイヒマンの犯罪の意味は、彼の〈人格〉や〈動機〉を問うところからは何も出てこないと喝破したのだから(『イェルサレムのアイヒマン』)。ただし、彼女は既在としての〈世界〉と〈生きる技法〉としての〈現在〉との関係を師匠のハイデガーほど緻密に議論しているわけではない。この点については別稿に譲りたい。

?生涯学習と学校教育との違いについて

「欠席する学生は、教員の責任ではない(寄ってくればどんな学力の低い学生でもいくらでも教えてやる)」という教員もいるが、これは〈学校教育〉の外にある生涯学習(消費型学習)の考え方。成人以後の教育であれば、目的と手段選択(何かの目的で何かを学びたいと思ったときに、どんな講師の、どんな講座を、どのくらいの受講料を払って受講すればいいのかの選択や評価の能力)は受講者側にあるのだから、その講義を聴いて、何に役立てようが、何に納得しようが、すべては満足度評価で済む。もちろん欠席も自由(自分で講座を買い取っているのだから)。

つまり「学びの主体」(受講する教育内容と教育方法と講師のキャリアなどを評価する主体)はすでにできあがっているのだから、態度責任は受講者側にあると言ってもよい。「こんな講座とこんな講師をこんな受講料で買ったあなたが悪い」というもの。これが生涯学習(消費型学習)の考え方。

ここでの教員や授業は、学ぶ側からすれば手段(●●)に過ぎず消費(●●)の対象でしかない。実務家教員が大学で成功しないのは、「やる気のない学生になぜ教えなくてはいけないのか」という生涯学習論 (成人教育)の立場に立っているからである。

一方、大学までの学校教育の全体は、何をどう学べばいいのかわからない学生(学生、生徒、児童)たちの、学びの主体を形成する(●●●●●)ためのものであって、その学びの主体を前提にするものではない。目標も内容も方法もすべて大学側に委ねてられている(また授業料を受講者から取って、学生に試験を行い点数まで付けて落第者を出したりする権利もある)。中等教育までなら、内容の全ては科目名まで指定されて学習指導要領に委ねられている。そんなもの(目標、内容、方法)を自ら評価できない人間を、われわれは、「児童」「生徒」「学生」と呼んでいる。だから、「児童」「生徒」「学生」は、まだ人物論的な対象としての〈個人〉ではない。もちろん〈学びの主体〉でもない。その無力の故に教員も公共的な資格(大学であれば研究専門性)によって、全国津々浦々標準化されている。

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