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【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


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しかし『資本論』への動機は、『資本論』に向かうことにしかない。『資本論』を解説できる唯一の書物は『資本論』である(●●●)。そういうものを、人は〈古典〉と言う(〈古典〉とはそれ自体があらゆる〈始まり〉であるような書物のことを言う)。その『資本論』?に向かう?のも結局動機ではないか、という反問が立ち上がる。もちろんそれも動機だ。その動機は何か。それが大学教育だ。大学教員の科目授業は、教員自身が自ら解説書になって ― 諸々の解説書の水準や研究史的な推移を評価・解説しながら ― 、『資本論』の一行一行、一語一語を解説する授業である。教員は媒介変数のようにその過程に付き従い、最後には『資本論』のテキストそのものの前で消え去る。フッサールの〈志向性〉という概念の〈向かう〉が空間・時間的な距離とは異質なものであるのと同じこと。 テキストと教員との間は大学においては不即不離の関係(一言で言うと超越論的な、つまり非空間的・非時間的な志向性)にある。『資本論』を解説できる唯一の書物は『資本論』である(●●●)ということに気付いた人が大学の先生なのだから。良書ほど閉じていて、悪書ほどその外を参照しなければ「理解できない」。前者は広いが故の内包、後者は狭いが故の外部参照性だ。サブカルチャーとは、外部参照なしには評価が難しいジャンルのことなのだから。

そもそも一つ一つのコマや科目がその動機内容(導入内容)、動機科目(導入科目)なのだから、コマや科目にも誘い水が必要と言い始めると、誘い水(動機)の入れ子状の膨張が起こって、ふたたび目的(object)を逸してしまう。いつまで経っても、『資本論』の頁、段落、行に辿り着けない。必要とあれば、一科目(15コマ)を解読するために一頁、しかも厳選された一頁(たとえば『資本論』の、あるいは『存在と時間』の中の一頁)に限定してカリキュラムを構成してもいい訳だ。しかしそれをやるには教員の専門性もよほど高くないといけない。そもそもどの頁が決定的な一頁なのかを知るためには、原典(元本)をくまなく(何度も)読み切っていなければならない。

「あれもこれも」ではなくて、内容を絞って書こうという方針を何度掲げても、シラバスが網羅的になりやすいのは、絞ったら絞ったでより高い専門性が要求されることと無関係ではない。原典一頁で15コマの授業をやるのは至難の業だ。動機論のカリキュラム的意義は、この科目の微分と積分に関わっている。しかしその作業の中にしかカリキュラム上の動機論は存在しない。カリキュラムとは動機の形式そのものだからだ。

教員の専門性の諸段階ははっきりしている。頁単位で解説できるのが研究者初級。段落単位で解説できるのが研究者中級。行単位で解説できるのが研究者上級。一語単位(助詞、あるいは前置詞単位も含む)で解説できるのが研究者超級だ。この専門教育の諸レベルが、唯一、専門書の解読を動機付けている(下級の教員になればなるほど「俗流」動機論的になる)。この解説の解像度の諸段階が、?入門(動機)? ― そんなものがあるとして ― の門戸の広さを意味している。頁レベルでしか解説できないのだとしたら、そこでは落ちこぼれる学生も幾人か出てくるというように。〈入門〉、あるいは〈動機〉という概念がいかさまなのは、人は入門書を読んで、入門を諦めることもあるし、難しいものに興味をもって、難しいからこそ始める場合もあるということだ。人はいつでも始まっているし、いつでも終わっているのである。

中等教育と高等教育の差異も専門書解読の経験の有無に過ぎない。両者の教員の差異もそこにある。専門書とは何か。答えは簡単。大学教員がそばにいないと読めない文献のことだ。専門書は決して自分一人では読めない。解説書を参考にしながら読んだ気になることはあるにしても。

もしその大学教員が彼自身解説書を読んで(解説書しか読まずに)教壇に立っているとしたら、どうだろう(実際、そういう授業は多いのだ)。そんな授業で専門書(の面白さ)がわかるはずがない。教員は解説書を解説しているに過ぎない。隔靴掻痒状態だ。教員はそのもの(●●●●)(object)の面白さをわからないまま教壇に立っているのだから学生が面白さをわかるはずもない。「授業はまずは面白くないと」「まずは関心を持たせないと」と言う教員に限って、解説書や孫引きで授業を構成し ― あるいはさしたる授業準備もせずに ― 、動機論を吹聴する。これでは学生をますますobject(目標)から遠ざけてしまう。動機論こそが学生の始まりを殺いでいるのである。

授業をつまらないものにしているのは教員であって、学生の基礎学力の低さではない。むしろ教員の基礎学力が足りないだけのこと。動機論の高低は専門性の高低に反比例する※。

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