モバイル『芦田の毎日』

mobile ver1.0

【増補改訂版】今日の大学教育の衰退について ― あるいは、学力論、動機論、試験論、そして教育の組織性についてver15.0[これからの大学]
(2022-10-18 22:51:24) by 芦田 宏直


< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >

「一斉指導は先生の指示と命令によって進行します。『はい、○○ページを読みなさい。5分で読みなさい』『終わりましたか。 終わっていない人も手をおいて。それでは問題を解きなさい。3分でやってみましょう』『終わりましたか。終わっていない人も鉛筆をおいて。それでは答えてください』といった具合です。 どうですか。こんな授業を受けた経験、あるでしょう。
さて、この一斉指導で頻繁に現れる 「終わっていない人も」という言葉、一見何げないようですが、じつは当の終わっていない人、すなわち作業中や考え中の生徒にとっては決定的な意味をもちます。だって、このひとことで彼らは取り組み中のすべての活動を断念しなければならないのです。そして中途半端なまま、指示された次の活動へと向かうことを強要されているのです。 この瞬間それまでの努力もむなしく、 学習破綻します。
さらに、ある活動を中断させることは、次の活動への実質的参加資格をも奪いかねません。 読み終わってないのに問題は解けませんし、解き終わってないのに話し合いに加わるなんてこと、 どう考えたってできるわけがないじゃないですか。
そこで『きりのいいところまでやってしまおう』とノートに向かっていると、こう言って先生に注意されるんですね。『鉛筆をおいてこちらを向きなさい。 今は話し合う時間です』。
みんな『授業ってそんなもんだ』と思い込んでいるのでしょうが、よくよく考えてみれば、 じつに不合理で不条理ではないでしょうか。しかも、それが毎時間、毎日くり返されていくのです。
これじゃあ、どんどん意欲がなくなっていくのも無理はないと思います。だって、行動と結果の随伴性のあるなし以前の問題として、十分な行動をとる時間さえ完全には保障されていないんですから。これでは、望む結果もなかなか得られないでしょう。要するに、できるように、 わかるようにならない。さらに、これを毎時間、毎日くり返していくわけですから、わからないことが雪だるま式にどんどん増えていく。すると、ますます授業がわからなくなる」(『やる気はどこから来るのか』)。
奈須は目標に期限がある ― 「十分な行動をとる時間さえ完全には保障されていない」 ― こと自体を「不合理で不条理」と言う。だとすると、その子どもが一つの課題を完遂するところまで待つ時間を奈須はどう考えているのだろう。一日待っただけでも、その子どもには、他の多くの課題が積み残されたことになる。一つの課題を完遂した自信とやる気で一気に他の課題も「内発」学習(自学習)でクリアできるというのだろうか。それは、何時間待てるか何日待てるか何ヶ月待てるかの時間(●●)でしか決まらない。待てば待つほど高い「内発」力が求められることになるため、この種の期待は奇跡が起こることの期待にしかならない。待つ時間分、その子どもは待たないでできた子供よりも長生きできるか、それとも人生に時間割教育(「主要5科目」と言ったような)は存在せず、ただ一つの課題のみ解けばそれで許されるのか、どちらかの解決不能な選択しか残らない。

< ページ移動: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >


コメント投稿
次の記事へ >
< 前の記事へ
TOPへ戻る